7-2

 今日は立ち聞きに縁のある日らしい。もっとも正確には、と言うべきかもしれないが──。

 植えこみの陰に身を潜めながら、ユウは庭園で会話する二人の男を盗み見る。いかめしい軍服を着て立っている男と、質素な身なりをして庭石に腰かけている男。

「霜が降りておりますな」

 白い息を吐いたのは、立っているほうの男だ。アモイより少しばかり年上だろうか、がっしりとした体格でいかにも強そうだ。離れに泊まっている大事な客人とは、この人に違いない。女官たちの噂していた、青髪あおがみの使者、だ。

 海の国の人は化け物のように青い髪色をしているという話は、子どもの間でも知られている。だが、遠目に垣間見るかぎりでは、ほとんど黒髪にしか見えなかった。女官たちも言っていたが、あれは大げさな噂に過ぎないのかもしれない。

山峡やまかいに来れば雪を踏めるかもしれぬと思っていたが、どうやらまだその時季ではないようだな」

 座っているほうの男が、空を見上げながら答えた。砂色の地味な装いからすると、使者のお供をしている人のようだ。

 しかしお互いへの口の利きかたは、まるで主従が逆だ。

「時季で言えば、もうそろそろ根雪になってもおかしくはないということですが。今年はこれでも暖かなようですな」

「これよりまだ寒くなるのか。やはり山は違うな」

「中に戻りますか」

「いや」

 腰かけた男は、まだ遠くの空を見ている。国境の山脈の、すでに真白に染まった頂を愛でているようだった。

 空はいつしか日が翳っていた。陽光が途絶えると寒さが厳しく身に染みる。だが、二人の異邦人が邸内へ戻ってくれないかぎり、ユウはその場を動くことができなかった。

 近づいてはいけないと言われている区域に足を踏み入れたのは、わざとではない。テシカガの前から駆けだして、当てもなく走って、息苦しくなって座りこんだ場所に、たまたまこの二人がやってきたのだ。盗み聞こうと思って、聞き始めたわけではない。

 とは言え、今さらその言い訳が通用するとも思えなかった。こうなれば息を殺して、気づかれないようにやり過ごすよりほかにしかたない。

「話に聞いていたとおりだ。八方いずれを見ても山ばかりで、海は少しも見えん」

「鍋底とはよく言ったものですな。まるで閉じこめられた心持ちがします」

「確かに。だが、ああして白い峰の重なり合うさまは、存外に美しいものだな」

「あの険しさに雪まで加わっては、屈強の精鋭をもってしても、越えることは難しいでしょうな」

 それを聞くと、座っている男は呆れたように相手の顔を見上げた。

「おまえ……」

「は」

「ヒヤマ・ゼンという男に、風光の美など語っても無駄か?」

「はあ。正直に申しますと、美しさ、いうものがよくわかりません」

「つまらん男だな。ルウランに、美しいと言ってやらんのか」

「妻はそう言われるのが好きではないようですので」

「言われて嫌がる女がいるものか。女は美しいという言葉と、美しいものが好きなのだ。たまには花でも贈ってやれ」

「仰せとあらばそうします」

「まったく、つまらん男だ。戦のことしか頭にないのだからな」

「幼きころより、貴方さまのおそば近くにお仕えしてきましたので。感化されてしまったようです」

 ヒヤマ・ゼンと呼ばれた男がしたり顔で言い返し、貴方さまと呼ばれた側は苦笑する。その口から、吐息が白く立ち昇った。

「美しいものはな、ゼン。否応なしに多くの人を惹きつける。皆がこぞって美しいと認めるとき、それは彼らの心の拠りどころとなるのだ。これは戦においても重要なことだと思わぬか」

「たとえば、北湖国きたうみのくにの都のように……でございますか」

「そう、音に聞こえし鏡の都、だ」

 二人は不意に黙りこむ。暗黙のうちに何かを伝え合っているような、心地の悪い間だった。

 ややあって、座っていた男が立ち上がる。

「北湖と言えば、おまえの影は、まだ向こうに潜んでいるのか」

「そのはずですが」

「新たに調べてほしいことができた」

「では、早々に呼び戻しましょう」

「うむ。そろそろ中に入るか。さすがに冷えてきた」

「御意」

 二人は連れ立って、邸のほうへ歩きだす。ユウの唇から安堵の息が漏れ、同時に寒さが急に思い出されて、肩がぶるっと震えた。

 その拍子に、かじかんだ手から、握っていた木笛が地面へ──。

 あっ、と思った時には、もう遅い。

「何者だ!」

 ヒヤマ・ゼンが振り返った、その次の瞬間にはもう目の前に白刃が閃いていた。茂みの中へ突きこまれた剣先は、マツバ姫やアモイが身につけているものよりも太く、小柄な少女の胴体など簡単に断ち斬られてしまいそうだ。

 間一髪のところで身を引いたユウは、転げるように植えこみから飛び出した。しかし立ち上がる間もなく襟首をつかまれ、そのまま軽々と宙に吊るし上げられた。

 ヒヤマは少女の顔を、至近距離でにらみつける。先ほどまでとは別人のような、恐ろしい形相だった。

「小僧、ここで何をしていた。言え」

 詰問する男の向こうから、従者姿のもう一人がゆっくりと歩み寄ってきた。そして穏やかな口調で、

「まだ子どもではないか」

 と言った。

「この者は身を潜めて盗み聞きをしておりました。誰かに命じられたのかもしれませぬ」

「このいたいけな童に、誰がそのような命を下すものか。たまさかに居合わせてしまっただけだ、そうだろう?」

 男は腰をかがめてユウの目をのぞきこみ、日焼けした頬に笑みを含ませた。

 近くで見ると、思ったよりも若々しい容貌をしている。砂色の頭巾の下に、整った眉目。女官たちがタカスに似ていると騒いでいたその顔は、しかし、優しげな微笑みとは裏腹の威圧感を帯びているように思えた。

「いや、あるいは、我々こそがこの娘の邪魔をしたのかもしれん」

「娘?」

 ヒヤマが怪訝そうに、吊るし上げた捕虜の顔を見る。

「下ろしてやれ」

 従者姿の男が再び命じて、ようやく地面に足がついた。だが、まだ心臓の鼓動は治まらない。

 男が指を伸ばし、顎から頬へ撫でるように、肌に触れた。涙の跡があるのを、見咎められたようだ。

「このような人気のないところで、独りで泣いていたのだ。よほど傷つくことがあったのだろう。脅かしてすまなかった」

「……」

 よほど傷つくことというのが何だったか、思い出せない。頭の中が真っ白で、返事が思い浮かばなかった。

 捕らえていた手が、襟を放した。顔をのぞきこんでいた男は、もう興味を失ってしまったかのように、背を向けて立ち去ろうとする。これで無罪放免、ということのようだ。

 何か言うべきか。ありがとう? ごめんなさい? それとも。

 答を出す前に、砂色の人影が立ち止まった。

「ユウ」

 前方から、懐かしい声が自分を呼ぶ。やや低めの、清澄な響き。ユウは地面に転がった笛を素早く拾い上げ、一目散に男の横を駆け抜けた。

 離れと母屋をつなぐ渡殿わたどのの上に、マツバ姫は立っていた。欄干に手をかけて、後ろにテシカガを従えている。その姿勢のよい立ち姿めがけて、全速力で走る。

 マツバ姫も、渡殿から下りてきた。駆け寄る少女の肩を抱きとめて、軽くたたく。それでようやく、ユウはようやく呼吸を取り戻せた。

 言葉は交わさなかった。姫は黙って後ろにいるテシカガに目配せし、少女を預ける。そして、砂色の質素な装いをした男に向き直った。

「公子クドオ。何か無礼がございましたか」

 もちろんユウにも、男が従者などではないのはわかっている。美浜みはまからの大事な客人であるヒヤマ・ゼンよりも、さらに偉い人。本来なら、山峡の国内に来るはずのない大物。公子という呼び名を聞いて、見当は間違っていなかったと確信する。

「いや、とんでもない。むしろ我々が、小さな姫に失敬をしたようだ。何とぞ許されたい」

 クドオがなごやかな、しかしやはりユウにはどこか圧力めいたものを感じさせる笑みで答えた。

 白雪が一片、向かい合う二人の間に、舞い落ちる。

「昨夜は大したおもてなしもできませなんだが、ごゆっくりお休みになられましたか」

「そこなるテシカガどのの気配りのおかげで、旅の疲れもすっかり癒え申した。ご夫君と酌み交わした地酒も、まことに美味であった。貴女が同席されなかったのは残念だが、ともあれ心楽しい夜を過ごさせていただいた」

「しかし海のおかたには、こちらの夜は応えたことでございましょう」

「寒いことは寒いが、だからこその風情もある」

 クドオはそう言って、眼前に降る雪粒の軽さを確かめるかのように、細めた唇から息を吹いた。

 雪は次から次へと落ちてくる。雲はそれほど厚くもないが、西北からの風に運ばれてくるのか、細雪が光りながら音もなく降ってきた。マツバ姫も、クドオも、その白い光の中に封じられたかのように、しばし無言だった。

 テシカガが、ユウの耳元に口を寄せて、中へ入ろう、とささやいた。しかしユウは答えずに、黙ってマツバ姫の後ろ姿を凝視し続ける。

 その肩がうっすらと白くなりかけたころ、姫はおもむろに会話を再開した。

「実は、貴殿にお越しいただきたい場所がございます」

「ほう」

「明日、迎えを寄越しますゆえ、お出まし願えましょうか。できれば御隋身としてではなく、公子クドオとして」

 その意を量りかねると言うように、わずかに首を傾げ、クドオは姫を見返した。

祭殿まつりどのまで、足をお運びいただきたいのです」

「祭殿?」

「四日前、我らが祝言を挙げた場所でございます。明日よりそこで、葬祭を執り行います」

 マツバ姫は感情のこもらない口調で、淡々と告げる。

「我が父ウリュウ・タイセイ、今朝がた王宮みやにて息を引き取りました。貴殿が居合わせられたのも、巡り合わせというものでございましょう。差し支えなければ、弔辞の一つでも賜りたく存じます」

 ユウは目を丸くした。ウリュウとは、この国の王の名だ。そして、マツバ姫の父親だ。見たことも会ったこともないその天上の君が亡くなった──。

 それにしては姫の態度があまりに平坦で、聞き違いなのか、悪い冗談なのかと思えてくる。しかしまさか彼女がこの場で、他国からの客を相手に、いい加減なことを言うはずもない。

 さすがのクドオもヒヤマも、面食らったような顔をしている。ひとまず「それは誠に愁傷なことで……」と頭を下げ、それから二人で頷き合って、

「そういうことであれば、無論、身分を偽るような真似はできますまい。葬儀の初日は、明日ですな」

「明日から五日間、葬送の儀を行います」

「何しろ急のことゆえ、喪服の用意はないが、身を清めてうかがおう。ただその前に、国許へ書簡を送ることをお許しいただけようか。国王陛下の葬礼とあらば、私一人の問題ではない。我が父の代理、美浜の民の代表として出席せねばなりません。忍びのままでは都合が悪い」

「ごもっとも。すぐに早馬を用意しましょう。テシカガ、筆と硯をお部屋に」

 はっ、と返事をすると、テシカガはユウのそばを離れて屋内へ去っていった。

「そのほかに、こちらでご用意するものがあれば、ご遠慮なく仰せくださりませ」

「いや。今はまず、貴女は貴女の時間を持たれるがいい」

「かたじけのう存じます。ならば家内の者に、何なりとお申し付けのほどを」

「お言葉に甘えましょう」

「それでは、通夜の支度もありますゆえ、わたしはこれにて失礼いたします」

 マツバ姫はそう言って踵を返した。黒髪の束が翻り、まといついた雪粒が滑り落ちる。片手を伸ばしてユウの肩を抱くようにしながら、渡殿のほうへ足を向けた。

「もしも――」

 クドオの声を背に受け、姫は立ち止まって半身を返す。

「何でしょう?」

「私が故郷に送る信書の内容を気にされる向きがあれば、お目通しを頂いても結構だが。貴女でも、ご夫君でも、他のどなたでも」

 ユウは姫の横顔を見上げた。白い雪の降りかかる頬は、冷気のために赤みが差していた。

 相手の顔をしばらく見守ってから、マツバ姫は答えた。

「貴殿は、我ら夫婦を祝うためにわざわざお越しくださった。そしてこれから、我が父の弔いにご参列を賜ろうとしている。さようなおかたに、今さらつまらぬ疑いをかけて何になりましょう。どうぞ直被じきひになさいませ」

 そう言い残し、姫は再び歩きだす。後を追いながら、ユウはちらりとクドオのほうを振り返った。

 砂色の頭巾と装束の上に雪を浴びた隣国の貴公子は、気のせいかどことなく愉快そうな表情に見えた。


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