第7章 今日の友
7-1
隙間のできないように唇をすぼめて、笛の吹き口を塞いでみる。しかしやはり、期待するような音は出ない。
小さな手で穴を押さえるのも苦労するが、それよりも難しいのは、吹きこむ息の加減だった。音程の調節よりもまず、音が出なければ話にならない。ひょっとして欠陥品ではないかと幾度となく思い、しかし、音を出すまでが難しいという
吹けるようになったら聞かせてくれと、マツバ姫に言われた。だからユウは帯に笛を挟んで歩き、周りから人気がなくなるたびに、こうして練習をしているのだった。
イセホに手ほどきをしてもらうというのも、考えないではなかった。彼女はどんな楽器でも大抵のものはこなしてしまう音才の持ち主なのだと、姫が言っていたからだ。あの万屋で売っていたのと同じ弦楽器を、いつか土産に買って帰ったことがあるとも聞いた。それらしき美しい音色を、ユウも邸内で何度か耳にした覚えがある。
縁側に立ち上がって、廊下の奥に目をやった。ここ数日のイセホは、マツバ姫の婚礼や外出の準備で、右へ左へと大忙しだった。今日あたりは少し、余裕が出てきたころだろうか。
笛を右手に握り、その冷えた甲を左手でさすりながら、邸の中へ向かって歩きだす。どこを目指しているというわけでもない。ただ廊下を一回りしてみようと思った。運がよければ向こうから見かけて、声をかけてくれるかもしれない。
その先へ行くと渡殿に出るが、離れには当分近づかないようにと言われている。何でも、昨夜から大事な客が泊まっているらしい。思い直して踵を返し、逆方向へまた歩き始める。
「ちょっと、タカスさまがいらしているって本当?」
突如、甲高い華やいだ声が、行く先から聞こえてきた。
角の部屋は、女官の詰め所だ。戸口に長い暖簾がかかっていて中は見えないが、何人かの若い女の声がする。
「昨日、お着きになったわよ」
「まあ。そうと知っていたら、もっと念入りに化粧をしてくるのだったわ」
「心配は要らないわよ。タカスさまはもう、お出かけになったもの」
「え、昨日いらしたばかりなのに?」
「夜にアモイさまとお話をして、今朝は早いうちに発たれたわ」
「そんなぁ」
「残念だったわね」
「どちらへいらしたのかしら、すぐに戻っていらっしゃるといいのに」
「騎馬を率いてお出かけになったそうよ」
「ということは……」
「大事なお役目でしょうね」
あーあ、と、数人分の溜め息が漏れる。
「そう言えば、アモイさまももう、
「ええ、つい先ほど」
「では、離れのお客さまのお相手は?」
「それがねえ、シュロさまなのよ」
年長らしき女官の声が、もったいぶった口ぶりで言う。
「あら、シュロさまも来ているの?」
「そう、接待役を仰せつかったのですって」
「接待役。あのシュロさまがねえ」
中年女のような言いかたに、他の女官たちがくすくすと笑う。
シュロ、というのは、西陵城で時々顔を見かけるテシカガのあだ名だ。シウロという名前だから、それが縮まったのだろう。女官や姫の侍女たち、童子たちもそう呼んでいる。やや軽く見られている感もあるが、それ以上に親しみを持たれているのだ。
「でも、大丈夫なのかしらね──」
笑いが静まると、年かさの女官が少し声を落として言った。
そのとき、ユウはふと、背後に人の気配を感じた。振り返ると、何と噂の張本人が、微笑みながら立っている。褐色の柔らかそうな前髪が白い額にかかり、鼻が細く、まなじりが穏やかで、とにかく武人らしさを感じさせない男だ。
テシカガは唇に人差し指を立てて、長身をかがめている。どうやらユウと一緒になって、中の会話に聞き耳を立てる姿勢だ。
「大丈夫って、何が?」
「だって、
テシカガは苦笑いを浮かべるばかりで、腹を立てる様子はない。この手の軽口は、言われ慣れているようだ。
「でもわたくし、お客さまをちらっとお見かけしたけれど、大男と言うほどではなかったわよ」
「わたくしも。案外、怖いふうではなかったわね」
「本当に?」
「ええ。一見すると、普通だったわ。髪の毛を見なければ、海の国の人だなんてわからないかもしれない」
「ああ、でもやっぱり、髪は青いのね」
「そうね。生え際のところが、少しだけ。頭巾などかぶっているとわからないわ」
「あの、お供のかたのことね」
「あなたもご覧になって? ちょっと素敵なお顔立ちだったわよね」
「あら、そうなの?」
俄然、女たちの声が華やぐ。
「素敵って、どんなふうに?」
「どんなって、そうねえ。少し、タカスさまに似ているような」
「嘘でしょう!」
「もちろん、そっくりと言うわけではないわよ。でも、彫りの深いところとか、肌の色の濃いところとか……」
「きりっとした目許とか?」
「いえタカスさまに似ているというなら、第一に鼻筋が通っていなくては駄目よ」
いつの間にか、話題はタカスに戻っている。女官たちには、よほど関心の高い人物らしい。
ユウはタカス・ルイという男に対して、アモイと仲のよい伊達男だ、という印象しかない。会話をする機会がほとんどないせいか、それとも自分が子どもだからか、女たちの騒ぐ理由があまりピンとこなかった。
「ねえ、タカスさまと言えば、お聞きになって? アモイさまとのこと」
年長らしき女官が、また声の調子を低める。内緒話に入るときの、大人の女特有の話し方だ。賑やかだった他の女たちも同調するように小声になり、急に内容が聞き取りにくくなった。そうなると不思議なもので、それまでは特に身を入れて聞いていたわけでもないのに、つい耳をそばだててしまう。
「驚いたわね――」
「姫さまの御前で鞘当てなんて――」
「まるで作り物語か舞劇のようだわ。姫さまを巡って、あんな素敵な殿方お二人が、ねえ」
「もしも姫さまがタカスさまをお選びになっていたら、タカスさまが城主になられていたのよ。信じられて?」
「本当にねえ」
「でも、わたくし、やはりアモイさまのほうが、姫さまにはお似合いなのだと思うわ」
その言葉を聞いた途端、びくり、と、ユウの体に痺れが走る。
「もちろん、初めて聞いたときは驚いたけれどね」
「わたくしも同感よ。アモイさまがごひいきの誰かさんには悪いけれど」
「あら……まあ、確かに、素直に喜ぶことはできなかったわよ。でもね、お相手がマツバ姫さまでしょう。他の誰かでなくてよかったという気持ちもあるの」
ユウは居たたまれなくなって、足音を殺してその場を離れた。脇目もふらず、廊下を一直線に進んでいく。
そのうちにまた、庭に面した縁側に出た。初冬の陽射しを身に浴びて、立ち止まる。庭土に降りた霜が、ようやく解け始めていた。
西陵城の松の庭を思い出す。剣の稽古がしたくてたまらない。何にでもよいから、木刀を力いっぱい振り下ろしたい。腰に差した木笛は楽器で、武器ではなかった。やはりあのとき橋場の刀剣屋に寄れていればと、不意に悔いる気持ちが湧いた。
「ユウ」
後ろから呼ぶ声で、テシカガがついてきていることに初めて気づいた。白い顔を、心配そうに曇らせている。
ユウは返事をしなかった。つい先ほどまでは好感を覚えていた、その人の好さが、急に苛立たしく思えてきた。
「やっぱり、あの結婚の話は、辛かったかい?」
「……」
「そうだよね。わかるよ。私も、ずっと昔、近所の米屋の娘さんが嫁ぐと聞いたとき――。
「……」
「嫁いだ相手は若い侍でね。西府に仕官してから、その侍に会うことができたのだけれど、話したらとても好い人だったよ。それで今は、あの人が幸せになれてよかったなあって、素直に思えるようになった。ユウも、きっとそのうち、そんなふうに思える日が来るよ」
それはテシカガが、商人を辞めて武人になったことと、ひょっとして関係があるのだろうか。
ふと思った途端、苛立ちは存外に呆気なく鎮まった。自分を慰めようと必死になっている相手の様子が滑稽に見えて、思わず笑いそうになる。
そもそもテシカガの初恋の話と、自分の置かれている状況とは似ても似つかない。マツバ姫とアモイの結婚を心から祝福できる日など来るはずがないと、ユウにはわかっている。
少女が黙って頭を振ると、テシカガは一層困った顔をした。「そう」とつぶやいて、さらに、こんなことを言った。
「ユウは、本当にアモイどののことが好きなんだね」
その言葉の意味がわからず、ユウは目を見開いた。アモイのことが好き? アモイのことが?
違う。そうじゃない。
ユウはほとんど反射的に、縁側から庭へ飛び降りた。そのまま、木立の中を駆けた。後ろでテシカガが呼んでいる。それでも振り返らず、闇雲に走り続けた。
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