6-4
アモイに述べた口上と寸分違わぬ挨拶を、ヒヤマは折り目正しく繰り返した。マツバ姫は背筋を伸ばして畳に座り、黙ってそれを聞いていた。
傍らのアモイは、姫が入室してからずっと続く違和感の原因を考えていた。彼女と使者との間には、何かしら食い違っているものがある。言葉ではない。感情でもない。
視線だ、と気づいたのは、マツバ姫が「言伝て?」と聞き返したときだった。
「はい。我が主たる太子より、貴女さまに直に申し上げるようにと、言伝てを預かってございます」
ヒヤマは姫の顔を直視して答えた。しかし彼女の両眼は、使者に焦点を合わせていない。視線は正面の男を通り過ぎて、下座の隅に控えた従者に注がれていた。
「ならば、直にうかがいましょう。――しかし、そう離れておいででは、思うように話もできますまい。も少し、近う寄られてはいかがか?」
従者が、伏せていた顔を上げる。砂色の頭巾の下で、若く精悍な目が瞬いた。
「公子クドオ。どうぞ前へ」
アモイは驚いてマツバ姫の横顔を見守り、次いで部屋の片隅に立ち上がる従者の姿を注視する。
その瞬間までは確かに、ヒヤマの陰にひっそりと控える地味で実直な従者だった。
しかし彼が頭巾を取る──ひと筋、紺の差し色が入った前髪が露わになる──と同時に、その姿は貴公子然とした風格をまとったのだ。
前の畳に座していたヒヤマが、すかさず脇に退いた。奥からゆったりと歩み出でて、男はマツバ姫と正面から向き合う。
ヒヤマより少し、背高のようだ。均整のとれた体躯をしている。鼻梁が秀でている。
「ご無礼をお許しいただきたい。騙すつもりではなかったが、貴女と会うにはこれが最も近道と思ったものでね」
マツバ姫は座ったまま、男の顔を黙って見上げていた。笑顔は見せず、冷静な口ぶりで、「まずは座られませ」と言った。相手は鷹揚に頷いて、ヒヤマのために用意された席に腰を下ろした。
まさか、使者の後ろに控えていた従者が、隣国の太子の変装した姿であったとは……。アモイには呆れて言葉もなかった。
公子クドオは当年とって二十八と聞いている。実際は二、三歳ほど年高に見えるが、いずれにせよまだ少壮と呼んでよい歳である。だがこの若者が、実質的には、
彼が摂政王太子の任に就いたのは、八年ほど前。ちょうどマツバ姫が
正式に王位を譲っていないのは、当の息子が拒んでいるからだ。彼は城の王座に鎮座するのを嫌い、公子と呼ばれて身軽に動き回っていたいと言い張っているらしい。
そうした噂を聞くにつけ、アモイは思う。もしもマツバ姫が男に生まれていたら、彼のような若殿になっていたのではないかと。
それにしても、きな臭い関係にある他国へ自ら乗りこんでくるとは。祭市へお忍びで繰り出すのとはわけが違う。豪胆も豪胆、とても酔狂で済まされる話ではない。
一言も会話することなく相手の正体を見抜いたマツバ姫も、さすがに意表を突かれたと見えて、
「かような危険を冒して、知恵者揃いと知られる御家臣の面々には、何も言われませなんだか?」
あえて率直に尋ねた。
「危険?」
公子クドオは、整った笑顔を見せて聞き返す。
「善き隣人の祝いに駆けつけるのに、何の危険がありましょうか?」
「さように思し召すなら、わざわざそのような装いをなさる必要はありますまい」
「はは、なるほど。いや、実は、言えば止められるのは必至ゆえ、こたびの旅出はごくわずかの者にしか知らせておらぬのです。人足どもも皆、私をこのヒヤマの供だと思っている」
ヒヤマはしかつめらしい顔で頷いた。つい先ほどまでは能弁な使者であったのが、座を譲った途端に、不言の従者に変わり果てている。
「しかし同盟国の一の姫がご成婚の祝いとあらば、父王の代わりに息子である私が使者に立っても、何も不思議はないはず。私としては、異例なことをしているつもりはないのですがね」
公子クドオの声はあくまで朗々と明るい。
マツバ姫は少しの間、黙って相手の顔を見守っていたが、やがてこちらも存外に軽い声音で応じた。
「貴殿がおいでになると存じていたら、こちらも祝賀のご用意を差し上げたというのに」
「祝賀の用意、と言われると?」
「近々、妃を娶られると、風の便りに聞き及びました」
「これは、参ったな」
相手は少し驚いたような表情をした。だが、余裕は失われていない。目をわずかに細めた笑顔で、マツバ姫を見返す。
「貴女にそのようなことを言われるとは。皮肉なものだ」
「皮肉?」
「あるいはその妃として、貴女をお迎えすることになったかもしれなかったのだ。これほどの皮肉もありますまい。無論、ご存知なのでしょう、私と貴女との縁談が持ち上がっていたことは?」
「それもまた、風の便りに」
「どうやら山の風は話し好きのようだ。あの川、
冗談めかして笑ってみせたが、姫は同調しなかった。客はそこで、ふと横のアモイに視線を流した。
「これは失敬。婿君を前に、口にするべき話題ではないな。ご安心なされよ、私は奥方を奪いに来たわけではない。お二人を祝いに参ったのだ」
アモイは静かに頭を下げ、あえて言葉での返答を避けた。相手の話しかたには潮のうねるような独特の律動があり、その波に足をとられるのを恐れたからだ。
「しかし、もしもあの縁組みが成っていたならば――あくまで仮定の話だが、山の民と海の民とは今ごろ家族になっていたわけだ。新しい時代が始まっていた、そう、思われたことは?」
「何がおっしゃりたいのかわかりませぬが」
「真の同盟が得られたはずではないか、ということです。今のような形ばかりの和平でなく」
「しかし現実は、我らがその同盟を蹴った、と?」
「結果的にはそういうことになるかもしれぬ。だが、思えば、そもそも婚姻によって国同士の紐帯を結ぶなど、旧代の考え方ではあるまいか? この点については我が国の重臣どもの石頭より、貴女のほうが、ご理解くださるのではないかと期待しているのだが」
マツバ姫の無表情だが強い視線が、公子クドオをとらえている。相手も引かない。すでに笑みは消えているが、あくまで穏やかな表情をもって姫の眼光を受け止める。
「我々には、この目で見たこともない大昔の確執など思い出しようがない。とすれば今、隣人同士でいがみ合う意味などあるだろうか? そろそろ歩み寄ってもよい時分ではないかと、私は思っている」
「隣人」
姫の口元に、皮肉な笑みが浮かぶ。
「貴国にとっての隣人とは、求められるがままに貢ぎを差し出すもののことを言うのでは?」
「そのような時代もあった。しかしそれも、昔の話と思われたい。我らは
「貴殿の言われる、それが歩み寄りですか」
「そういうことです」
「しかしそれは、貴国の臣民の真なる願いではありますまい。美浜の殿のご本心でも」
「痛いところを突いてこられる。確かにその点は、はっきりと否定はできぬ。おわかりだろうが、由緒ある国の重臣ほど、古きに固執するものはない。我が父も古い人間だ。だが、私の本心ではある。その点は信じていただきたい」
もしも彼の言葉が真実であったなら、と、アモイは心中に思い描く。盆地に閉じこめられたこの国が、隣国の脅威にさらされることなく、その進んだ文物だけを享受できるとしたら。これほど都合のよい話はない。だがその関係は、相手にとって何の益があるだろう。
美浜国は今、旧来の属領である
もちろんマツバ姫も、それぐらいは見当がついているのだろう。だとしても、相手からの申し出をどう扱うかは、簡単な問題ではない。何しろ太子が直々にやってきて、あくまで友好的な笑顔で手を差し出しているのだ。無下にその手を払えば、後でどのような因縁をつけられないとも限らない。
姫は黙って、公子クドオを正視している。その横顔に、アモイはまた何か違和感のようなものを覚えた。先ほどまでは見られなかった感情の片鱗が、彼女の眼に、頬や口元に、そこはかとなく浮かんでいるような気がする。が、何の情なのかは読み取れない。憂いのようでもあり、昂揚しているようでもある。あるいは、自嘲か。
「幸いでもあり、災いでもある」
不意に目を伏せ、漏らしたつぶやきは、隣にいるアモイにしか聞き取れなかったろう。公子クドオは初めて怪訝そうな顔をした。
するとマツバ姫はにわかに顔を上げ、微笑みを浮かべた。いつもの彼女らしい余裕のあるその表情に、アモイは内心で安堵の息をつく。
「これはまったくもって、願ってもないお話よ。したが海の御方、貴殿は勘違いをなされておいでのようです。これなる我が夫は西陵という一地方の長官、わたしはその妻に過ぎませぬ。そのような国の大事を、酒の席の冗談ならばまだしも、なあ我が君?」
「いかにも」
発言を促されて、アモイは大きく頷き、公子に向き直る。
「王を父と仰いではいるものの、我らは貴殿のような摂政でもなければ太子でもござらぬ」
「今は、そうでしょうな」
公子は相変わらず、自分の律動を崩さない。
「ならば今日のところは、ひとまずご両人の胸中にお留めおきくださればそれでけっこう。こちらの誠意を汲んでいただけるなら、今後いかなる苦境に立たれるようなことがあっても、我が国はお二人の味方だ」
「お志、かたじけない」
高利貸しに融資を持ちかけられたような気分になりながら、ひとまず話題を打ち切った。
「ところで今宵は、我らの邸に宿をご用意してござる。よもや忍びの君がおいでになるとは夢にも思わず、充分なもてなしとは申せぬが、我ら夫婦の祝いに遠路お越しいただいた礼を申し上げたい」
美浜の主従はその申し出を受け入れ、謁見はひとまず幕引きとなった。その後は軽めの酒食をもって使者を慰労した上で、西陵城主別邸へと案内することになる。
マツバ姫は父王の見舞いに戻るため、一足先に席を立った。一礼をして戸口へ足を踏み出そうとする後ろ姿へ、公子クドオが「姫君」と声をかける。
「私は貴女に会う日を心待ちにしていた。やはり、噂に違わぬおかただ」
「それは、」
姫は戸口に立ったまま振り返り、挑むような眼を公子に向けた。
「お褒めの言葉と解してよろしゅうございましょうか?」
「無論のこと」
「ならば、お礼を申しておきましょう。しかし貴殿もまた、噂以上のかたであられる」
「誉め言葉と受け取ってよろしいか?」
「無論のこと」
二人はしばし、無言で視線を交わらせる。アモイとヒヤマはそれぞれの主君を、やはり黙って見守っていた。
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