6-3

 許婚を認められたあの残暑の日と同じく、病室は息詰まる陰鬱さに支配されていた。

 寝台には王が横たわり、傍らにマツバ姫が座し、その後ろにアモイが控えている。向かいにはテイネの御方おんかたが夫に寄り添っている。それもまた、あの日と同じだった。

 王は静かに横たわっていた。連絡を受けて駆けつけてから一昼夜が経過しても、特別に容態が変化しているようにも思われない。顔色の悪さも痩せ具合も、ひどいことはひどいが、四月前からこのような感じではなかったか。黒い髭を蓄えた御殿医が額に汗しながら脈を診ているのでなければ、時を遡ったかのように錯覚しているところだ。

 ただとばりの外の様子は、あの日とははっきりと違う。寝所の周りを取り囲むように、イノウを筆頭とする重臣たちが居並んでいて、シバは廊下の外へ追いやられていた。人の密度が増した分、沈黙はかえって重く感じられる。

 王の息子たちは、この場にはいない。父の危篤を知らせる早馬が都を発ってから丸一日ほど過ぎたが、国境の四関しのせきは遠い。長男のシュトクが到着するまでには、まだ当分かかるだろう。東原とうげんの城にいる次男のハルは、知らせを受けてすぐに出立したとすれば、もうそろそろ到着してもおかしくないころだろうか。

 アモイはひそかに、三日前に義母となったばかりの女の様子をうかがった。今日は扇ではなく、頭頂から垂らした紗布で、面を覆っている。半ばすがるように前のめりになり、息を詰めて病人の顔を凝視する姿は、夫を想う良妻以外の何者にも見えない。

 マツバ姫の後ろ姿は、それとは対照的だ。背筋を伸ばして正座する姿勢の、無感情な折り目正しさ。唯一の肉親である父の命が絶えようとしている今、何を思っているのか、その胸中を察することはできなかった。

 父上という呼称を嫌い、あくまで陛下と呼び続けた。十二の歳で親元を離れて、地方の城へ進んで飛び立った。娘への甘さを見透かし、利用さえしてきた。父に対して向けられる彼女の視線は、いつも不思議なほどに冷淡だ。親愛の情はもちろん、憎しみも怒りも、熱のある感情を一切示すことがなかった。

 もちろん、理由を尋ねたことはない。父と娘の、ましてや王と姫との関係に、ごく最近まで一家臣であった者が口を挟む余地などあるはずもなかった。

「申し上げます」

 足音を忍ばせて部屋に入ってきたシバが、帳の外の最前列にいるイノウへささやくのが漏れ聞こえた。それから何事か耳打ちして、また戸口から出ていった。

 イノウから目配せを受けて、アモイは病床へ一礼した上で、帳を出る。

「使者が到着した」

 低い声で、老人は告げた。

美浜みはまの」

「さよう。陛下へのお目通りを、と申しているそうな」

「私が参ります。ご老公、ご臨席いただけますか」

 イノウが頷くのを確認すると、アモイは帳の中へ戻って妻と義母に断りを入れ、部屋から退いた。

 ムカワ将軍やミヤノ総督らが神妙な表情で詰めている横を通り過ぎて廊下に出ると、冷たい空気が新鮮だった。深呼吸を一つすると、イノウの後に続いて歩きだす。

 謁見の間へ向かう道のりの間に、アモイはこれから会う男を想像しようとした。そのためには、人形のように眠る義父の姿を、まぶたの裏から追い出す必要があった。

「ご老公はご存知ですか、ヒヤマ・ゼンという男を。公子クドオの片腕とも言われているそうですが」

「美浜の若殿の乳母子めのとごかね。なかなかの切れ者と聞くが、為人ひととなりについては評が分かれるようじゃな」

「と、おっしゃいますと?」

「篤実にして争いを好まず。義を重んじて礼を知る。が、かような話もある。昔、幼き公子が馬車から身を乗り出し、枝で顔を打った。そのころ、ヒヤマ自身も六つか七つの歳じゃったろう。かれは、有無を言わせず御者を斬った」

「……」

 しかし結局は、己の目で見極めるしかないのだ、と、イノウ翁は言った。アモイは黙って頷いた。

 衛士が出入り口に立つ部屋が見え、そこが使者の待つ謁見の間だった。二人の姿を認めると、衛士は脇に譲り、戸を開いた。

 板敷きの室内は、上座と下座、それぞれに畳が設えられている。下座の畳に、男が一人。これが慶賀の使者に違いない。その後ろにもう一人、従者が控えている。

 主従はこちらに気づくと、恭しく頭を垂れた。下げられた使者の頭頂を、アモイは立ち止まって見る。

 イノウが先に入室し、上座の畳の端に正座した。続いてアモイも、畳の中央に進み、腰を下ろした。戸が閉じられる。

 使者は臙脂えんじの袍をまとい、飾り鋲の付いた革帯を、胸の前で交差するように両肩から斜めがけして、剣装を傍らに置いていた。その鞘の宝飾は、山峡では見るべくもない立派なものだ。後ろに従えている者も、砂色の頭巾と上衣うえぎぬという地味な出で立ちながら、卑屈さのない落ち着いた態度を見せ、つまりは使者を取り巻くものすべてが、申し分のない風格を醸していた。

 だが――。

 使者はおもむろに顔を上げた。鬢付け油で撫でつけた髪の、両側のこめかみ近くの生え際だけが、黒くなかった。染料を使って、みどりに変色させている。

──青髪あおがみで来るとは!

 美浜国の、特に海岸部に伝わる習俗で、髪の一部を青や紺や緑に染める。詳しくは知らないが、もともとは魔除けか何かを目的とするものだろう。長く敵対してきた山峡の人間からすると、野蛮な迷信だ。横目でイノウを見ると、あからさまに顔色を変えこそしないが、やはり渋面である。礼を知る、という人物評が、さっそく疑わしいものに思えてくる。

 もっとも、その一色のみを除けば、ヒヤマの見目振る舞いはまずまずの好印象を与えるものだった。中肉中背だが骨格はたくましく、色は健やかに黒い。瞳が輝いている。額が広く賢げに見える一方で、眉が丸く飄々とした印象もある。

「このたびはご成婚、誠におめでとう存じます。美浜国王クドオ、並びに太子に代わり、心よりお祝いを申し上げます」

 と申し述べるその声も、海の国ならではの訛りはあるが、丁寧で伸びやかであった。

 してみれば、青髪くらいは、風習の違いと割り切るべきなのかもしれない。祝い品の目録を受け取りながら、アモイはひとまず、そう思うことにした。

「お心遣い、まことにいたみいる。我が義父ちちウリュウ・タイセイ、妻マツバの分も、深く御礼申す」

 そう伝えると、使者はまた頭を下げた。それから少し間を置いて、

「……ウリュウの殿のお具合はいかがでございますか。お体の調子が思わしくないとの噂をうかがいましたが」

「さすがは、お耳が早い。が、ご心配には及ばぬ。今は顔色も優れ、たいそうお元気であられる。ただ、未だ全快ならず、ご使者の前で粗相があってはと、大事をとられたというだけのこと」

「お見舞いに上がりたいところですが、では、ご遠慮したほうがよろしいのでしょうな」

 使者はそう言って微笑んだ。心中を見抜かれた気がした。

 相手もこちらを観察しているのだ。風貌に声色、身のこなし、受け答え、それらから見て取れるアモイの人物像を探っている。

 ヒヤマはここへ至るまでの間に、隣国の王家に婿入りした男についていくつもの噂を仕入れてきたはずだ。しかし結局は、アモイと同じ結論を持って、ここに相対しているのだろう。己の目で見極めるほかないのだ、と。

 祖国に帰って、さて、主君に何と報告するつもりか。それが両国の関係に変化をもたらさないとも限らない。失言は許されない、と、気を引きしめる。

「ともあれ、遠路よくお越しくださった。ささやかながら、別室に酒宴の用意がござる。ごゆるりとくつろいでいただきたい」

 話題を変え、アモイは案内の女官を呼ぶために振り返った。するとその横顔へ、ヒヤマが不意に問いかける。

「奥方は何処いずこにおわします」

 意外な問いに、アモイは少しばかり訝しんで、使者に向き直った。使者は問いを重ねる。

「名高きウリュウの一の姫君、マツバどのは。父君の御許におられましょうか?」

「お察しのとおり、父を見舞っている最中にござる」

「それは残念でございますな。是非とも新郎新婦のお二人に、直にお祝いを申したかったのですが」

「妻もまた、叶うならお会いしてお礼をと申していたが、何しろ実の父を思う心には勝てず。ご容赦くだされたい」

 ひとまずそう答えて、アモイは相手の反応を見る。頷く使者の表情は、相変わらずにこやかだ。だがその語調には、いくらかの鋭さが混じりつつある。

「それも道理。しかし何とか、一目でもお会いしたいものです。我が主から、ご本人への言伝てを預かってございますので」

「私に託すのではなく、妻と直に話したいと?」

「そう願えれば。そしてもう一つ」

「申されよ」

「お人払いをお頼みしたく存じます。貴殿と、奥方と、私どもだけでお話ししたき儀がございますので」

 つまり、この場にいるイノウを下がらせよ、ということだ。

 イノウがこの国の宿老であることを、知らないわけではあるまい。その上で退席を求めるとは、人を喰った言い分だ。隣を見れば、老臣は眉間を険しくして黙っている。

 試されているのか、とアモイは思った。唯々諾々と従うか、毅然として無礼を咎めるか。鷹揚なところを見せるか、狭量な態度を示すか。王の名代にふさわしい答えを、即断しなければならない。

 しかしその前に、険悪な空気を吹き飛ばすような騒音が、廊下から聞こえてきた。床板を勢いよく踏み鳴らして、誰かが近づいてくる。まるで仔犬のように弾んだ、しかしそれにしては重みのある、一人分の成人の足音。さらに、甲高い声が重なった。

「ねえさま! いますか、ねえさま!」

 止める間もなく、戸が開かれる。萌黄の装束、不格好に傾いた冠。膨れ上がった頬を紅潮させ、濡れたように瞳を光らせた若者は、つい先ごろアモイの正式な義弟となったばかりの東原城主であった。呆気にとられる面々には目もくれず、戸口から首を突き入れて、室内を見回している。

「あれ? ねえさまがいない」

 女官が追いついてきて、ハルの腕を取った。若さま、ここはお客さまがいらしていますからと、奥へ連れ去ろうとする。しかしハルは執拗に姉の、マツバ姫の姿を探している。その視界には、隣国からの使者など映るはずもなく、アモイもまた路傍の石であった。

「お久しゅうございます、若さま」

 イノウが立ち上がって戸口へ寄った。するとハルは、真正面に立った老人にようやく気づいた様子で、

「ねえさまにおめでとうをいいにきたんだ。ごけっこんされたというから」

「姉君は、こちらにはおられませぬ。参りましょう」

「ねえさまはどこにいるの」

「奥においでじゃ。この年寄りがご案内いたしましょう。さあ」

「ねえさまにおめでとうをいうんだ」

 女官と共にハルを廊下に押し出して、イノウは室内に一礼し、戸を閉めた。遠ざかる足音と、まだ何か言っている義弟の声だけが、密室に響いてくる。

 使者と従者は、その一部始終を興味深げな目で観察していた。アモイの背は汗で濡れている。何と言って場を取り繕うべきか、新たな選択が必要になった。

 だがまた、結論を出す前に事態は急変する。ハルが連れ出されてからほとんど間を置かず、板戸の向こうに再び人の気配が立ったのだ。

「失礼いたします」

 マツバ姫の声だった。

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