5-4
バンは呆気にとられた顔で、攻撃の手を止めた。
「なんでえ、男のくせに、耳環なんか……」
と言いながらも、ようやく何か違和感を覚えたらしい。
人々の視線を一身に集めながら、マツバ姫は悠然と身を起こし、背筋を伸ばした。女としては並外れた長身だが、今相手にしている男に比べれば、小柄なものだ。それでもただならぬ威風が、隠れ蓑を取り払った肢体から溢れ出るように見えた。
「そなたは、今日一番の掘り出し物かもしれぬ」
「何だって?」
「
「城だ? 俺を雇う城なんぞあるもんか。第一、他人の下につくのは性に合わねえんだ」
「ならば上に立つのだな。そなたは将に向いている」
「てめえ、バカにしてるのか?」
バンは袖を捲るようにして、剣士に詰め寄る素振りを見せた。
しかし、ふと顔をしかめて立ち止まる。姫もまた何かに気づいた様子で、人垣の向こう側へ視線を飛ばした。
数人分の大声が近づいてくる。何事だ、何の騒ぎだ、と、声は盛んに言いたてていた。
「へっ、役人どものお出ましか」
「そのようだな」
バンと姫は顔を見合わせる。それから、まるで示し合わせたかのように、反対の方角へ同時に走りだした。
マツバ姫は足元に落ちた頭巾と脱ぎ捨てた外套を素早く拾い上げ、ユウの手に預けた剣をほとんど奪うように受け取って、「行くぞ」と促した。人垣を突き破って駆けていく後ろ姿を、ユウも慌てて追いかける。
「おい、待て!」
誰に向けられたものか、後ろから声が聞こえたが、振り返る余裕はない。
ようやくマツバ姫は立ち止まり、物陰に身を寄せて来た道をのぞき見る。
「どうやら、まいたようだな」
いたずらっぽい笑みを浮かべてつぶやく。ユウは息を整えるのに必死で、返事ができなかった。
しかしなぜ、逃げなければならないのだろう。悪いことをしたわけではないし、マツバ姫が正体を明かせば、役人がひどい扱いをするはずはないのに。
心の中の疑問が顔に出たのだろうか、マツバ姫は屈みこんでいるユウの背を撫でながら、小声で言った。
「祝言の明くる日に、早々と夫に恥をかかすわけにもいかぬからな」
それからふと少女の胸元に目を留めて、
「ユウ、貝殻がなくなっているぞ」
「えっ」
言われてみれば、首から下げていたはずの白い貝殻がない。半透明の
「ごめんなさい。せっかく……」
衝撃のあまり、それしか言えなかった。マツバ姫は事も無げに笑って、
「なに、もとはと言えば
「でも……」
姫と共に街を歩いた思い出の宝物になるはずだった。それを思うと、悔やまれてしかたがない。
「店の中でおとなしく待っていれば、こんなことにならなかったんです。あんな騒ぎを起こさなければ」
「何を言う。今日のそなたは、まことによい働きをしたぞ。おかげで拾い物をした」
頭を撫でられて、一気に心が高揚する。何を誉められているのかはわからなかったが、うれしさのあまりに貝殻などどうでもよくなった。
しかし笑顔を取り戻したのも束の間、姫からの次の問いかけに、またすぐ凍りついた。
「ところで、その笛がイセホへの土産か?」
「えっ、あ……」
そこでやっと思い出した。万屋から持ち出した木笛が、まだ手の中にあったのだ。
情けない気持ちで事の次第を説明すると、姫はやはり軽く笑い飛ばす。
「案ずるな、あの万屋はなじみの店だ。代金は、後で誰か人を遣って届けさせるとしよう。それは、そなたが持っているがよい」
「え、でも、お土産……」
「イセホには、こちらを渡すことにする」
そう言って、マツバ姫は巾着を懐から出してみせた。黒いほうの貝殻のことを言っているのだと、ユウは思った。
「あやつは昔から、こういった細々とした飾り物を集めるのが好きでな。何が楽しいのかわからぬが」
「そう、なんですか」
「ゆえに、その笛はそなたに取らす。一度でも身を守ってくれたものだ、大切にするがよい。そのうち吹けるようになったら、聞かせてくれ」
「はい……ありがとうございます!」
ユウは木笛を抱きしめて、声を弾ませた。
マツバ姫は満足げに頷くと、剣を佩いて外套をまとい、頭巾をかぶり直した。それからユウを促して、裏路地をさらに奥へ向かって歩きだす。
どこへ行くのかと思いながらついていくと、左右の塀がどんどん狭まって、やがて行き止まりになっているのが見えた。
突き当たりに、誰か座っている人影がある。その手前には粗末な机が置いてあり、占いと書かれた板が立てかけられていた。
「そなたが見かけたというのは、この者ではないか」
頭からかぶった大きな枯れ葉色のボロ布、背格好から言っても、間違いなさそうだった。顔を見れば、皺の深く刻まれた老人だ。
「たぶん、そう、です」
「やはりな。わたしはこの占い師を、前に一度、この場所で見かけたことがあったのだ。そう、あれは三年前、一の若君ご婚約の祭市であった。今日まですっかり忘れておったわ」
それを貝殻屋の前で、不意に思い出した。ユウが万屋を見ている間に、記憶を頼りにこの路地を探し当てたのだという。
「わたしは占いなど信じぬが、しかし、これについては認めねばならぬ。先ほどここへ来たとき、この者は開口一番、そなたのもとに戻るようにと勧めた。まもなく群衆の中で、難儀に遭うであろうとな」
老人がわずかに顔を上げて、ユウを見た。瞳の色がやや薄く、茶色がかっている。赤く光っているかのように見えたのはそのせいだろうと、少し納得する。
しかし自分の危機を言い当てたと聞くと、ありがたいような薄気味が悪いような、妙な心持ちにもなった。
「それと、もう一つ。この者は、アモイにも予言をした。よき妻を迎えて、出世すると。去る夏に、
最後の念押しは、老人に向けられたものだった。
「言われた当人が、そう申しておったぞ」
布の下で、血色の悪い唇が頼りなく動く。実際に声が聞こえるまでに、少しの間があった。
「……ご覧のとおりの老いぼれなれば、物の覚えが、悪うなりましての」
「そうか、忘れたならそれでもよい」
さして頓着もせずに、マツバ姫は応じた。それから、机の前に置かれた箱椅子に腰かける。巾着を取り出し、幾ばくかの金を卓上に置いた。
「過ぎし日はともかく、今日は世話になった。これはほんの礼だ」
ありがとうございます、と、消え入りそうな声が布の下から聞こえてきた。しかし、金に手を出そうとする気配はない。
かまわずに、マツバ姫はまた銭を摘まみ出して、机の上に追加した。
「この際、ものは試しだ。一つ、わたしのことも占ってもらおうか」
はあ、と、老人は相づちとも吐息ともつかない声を漏らした。細めた目が、また布の陰に隠れる。それからしばらく、何も言わなかった。
「どうした、わたしのことは占えぬのか」
「……」
「つまらぬな。まあよい、この銭は取っておけ」
マツバ姫が苦笑して立ち上がったとき、ようやく老人が口の中で何かつぶやいた。
「うん? 何か申したか」
姫が前屈みになって耳を寄せる。その後ろでユウも、占い師の唇の動きに意識を集中した。
「東南の方角より、訪れましょう」
「訪れる? 誰がだ」
「幸いでもあり、災いでもあるものが。会いたくもあり、会いたくもないお人が」
瞬時、姫の眉根が険しくなる。上体を静かに起こして、枯れ葉色の布で覆われた頭頂を見下ろした。
「謎かけのようで、よくわからぬ」
すると老人の手が、机の上へ伸びてきた。骨と皮だけの尖った指と薄べったい掌が、積み置かれた貨幣を包む。そしてそのまま、姫のほうへゆっくりと押し返した。
「金は要らぬと申すのか?」
「いえ……お代を頂く代わりに」
「何だ」
老人はまた黙りこむ。さすがのマツバ姫もいくらか苛立った様子で、「望みがあるなら、何なりと申せ」と促した。
うつむいていた頭部が、おもむろに持ち上がる。布の下から皺だらけのくすんだ皮膚が現れて、初めて顔全体がはっきりと見えた。狭い額にまばらな眉毛、細い鼻に小さな口。落ち窪んだ目は丸く、そしてやはり、赤く鈍い光を放っていた。
「この年寄りの望みではございませぬ。もしも、いつかどこかで孫にお会いになったら、その願いをお聞き届けいただきたいのでございます」
急に淀みなくしゃべりだしたので、ユウは驚いた。マツバ姫もやや面食らった様子で、
「孫? 孫とは、そなたの孫か」
「はい」
この返事はもう、先刻までと同じ、か細い声に戻っている。
「その孫というのは、
「存じませぬ」
「知らぬと?」
「妻とは、娘がまだ幼いみぎりに生き別れました。その娘が産んだ孫でございます。男か女か、どこでどのように暮らしているかも知りませぬ」
「それなのに、わたしがその孫といずれ会うことはわかると申すのか?」
「……」
「仮に会うたとして、そなたの孫だとどうして見分ければよいのだ」
老人が手を引き、机の下に戻した。マツバ姫は黙って、押し返された金銭を見下ろす。風が舞い、枯れ葉色の布が揺れ、茶色の外套が膨らんだ。
ややあって、姫が急に笑いだした。
「いや、占い師に理屈を問うなど、野暮であったな。当たるも八卦、当たらぬも八卦。もしも当たったときには、そなたの申すとおりにしよう」
そう朗らかに言うと、机上の銭のうちの数枚を無造作に拾って、巾着の中に戻した。「ではな」と老人に声をかけて、身を翻す。
老人は深々と腰を折った。その胸元には、赤い石の首飾りが揺れている。
「ユウ。行くぞ」
主人に呼ばれて、慌てて後を追った。
もはや日は随分と高い。先を歩くマツバ姫の影が、短く濃くなっていた。
二人は逃げてきたときとは別の角から、大路へ戻った。まだまだどの店も賑わっていたが、人出の最高潮はすでに過ぎているようだった。
考えごとでもしているのか、姫は何も言わずに前へ進む。足の運びが、先ほどまでより速い。遅れないように、ユウも黙々と歩いた。
と突然、どこからか馬のいななきが聞こえた。こんな街中に、と思う間にも、蹄の音が勢いよく近づいてくる。人々が急いで道を開け、姫もユウをかばうようにしながら端へ身を寄せた。
早馬が一騎、瞬く間に駆け抜けていく。
「四関で何かあったか」
土埃の中で、姫がつぶやいた。
「ユウ」
「はい」
「そろそろ戻ったほうがよさそうだ。残念だが、刀剣屋はまた今度にしよう」
「え、あ……はい」
やはり、主人には何もかもお見通しだったようだ。
しかし未練は感じなかった。腰に手をやれば、あの木笛がある。今の自分には、それで充分だと思った。
朝も渡った大橋が、前方に近づいてくる。
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