5-3

 どうぞ触ってごらんなさい、と、穏やかな声がすぐそばで聞こえた。

 大通りに面した万屋よろずやの中の一角に、ユウは立っていた。目の前の棚には、三角形の角を丸くしたような形の箱に弦を張った、楽器らしきものが横たえてあった。

 前かけをした初老の店主がそれを手に取り、ユウの前に差し出してみせる。勧められるまま弦に触れてみると、細さの割に弾力があって、指先が切れそうだった。

 実のところ、その楽器に特別、興味を引かれたわけではない。ただ、どこかで見たことがある気がしただけだ。しかし人のよさそうな店主は、たった一人で入店した小さな客を放っておけないらしく、あれこれと話しかけてくるのだった。

「もしも、こういったものに興味がおありなら、お薦めの品がございますよ。今、持って参りましょう。少々お待ちを」

 人見知りのユウには、やや面倒くさくもある。とは言え、客として扱われるのは悪くない気分だった。連れを待っていることは最初に伝えてあるので、目当てはそちらの財布かもしれないが、ともあれ子どもだからとぞんざいに扱ったりしないところは好感が持てる。

 この感じは誰かに似ている、と思った。そしてすぐに、城の女官たちにと呼ばれている、色白な青年の顔を思い出す。マツバ姫やアモイはテシカガと呼ぶその男は、そう言えば、割と裕福な商人の家で育ったと聞いた気がする。

「ほら、この木笛です。音を出すまでがいささか難しゅうございますが、なあに、コツがわかれば、簡単な曲はすぐに吹けるようになりますよ」

 薦められた木笛を手に取る。弦楽器に比べると安っぽい気もするが、土産物として持ち帰るには手頃な品だと、ユウは考えた。

──そら、この路地に入る手前の角に、万屋があったろう。あの店で、何かイセホの喜びそうな手土産でも探して待っていてくれ。

 貝殻屋の前で別れたときに、マツバ姫からそう頼まれていたのだ。

──心当たりを思い出した。そなたの申す赤い目の老人、わたしも会うたことがあるかもしれぬ。

 そう言って、マツバ姫は裏路地の奥へと消えていったのだった。

 別行動になるのは心細かったが、足手まといになりたくもない。ユウはとにかく、与えられた務めを果たすのに専念することにした。しかし柘植つげくし鼈甲べっこうかんざし硝子ガラスの文鎮に漆塗りの小鉢、目も眩むような洒落た品々を前にして、そろそろ途方に暮れて始めていたというのが実情である。

 薦められた木笛がイセホに似合うように思えてきたのは、そんな心境のせいだったかもしれない。

「あの、これ……」

 とりあえずマツバ姫が戻ってくるまで取り置いてもらおうと、店主に向かって口を開きかけたときだった。

 けたたましい騒音が、店の外から響いてきた。続いて、人の怒号。駆け寄る野次馬たちの足音や喚声が、店の前を行き過ぎていく。

 ユウもまた、反射的に外へ飛び出した。ほんの二、三軒ほど先の道端に立つ屋台の前に、人だかりができている。

 大人たちの背中越しには、何も見えない。そこで身を低くして、人々の足元をすり抜け、騒ぎの渦中をのぞきこんだ。

 そこには腹を押さえてうずくまっている、みすぼらしい少年が一人。そのすぐそばでに立って何やらわめいているのは、目つきの悪い痩せぎすの、ごろつきのようななりをした男だ。頬が赤いのは、興奮している以上に、酒に焼けているせいだろう。

 ユウの目に、少年は自分よりいくらか年下らしく見えた。烏の巣のように絡まり合った髪、雑巾のような衣服、薄汚れた肌。傍らの地面には、無惨につぶれた握り飯らしきもの。何が起こったのかは、すぐに見当がついた。

「このクソガキ、他人ひとさまの飯を猫糞ねこばばしやがって、ただで済むと思ってんのか、え? 何とか言ってみやがれ!」

 地面に這いつくばる少年を、男は執拗に蹴る。腹を、肩を、顔を。少年の口から、赤い血が飛んだ。

「やめろ!」

 気がつけば、人だかりの真ん中へ飛びこんでいた。

 痩せぎすの男が蹴るのをやめて、ゆっくりと振り返る。間近で見ると、いよいよ凶暴で残忍な顔つきだ。ユウは思わず立ちすくんだ。

「何だ、てめえは」

 耳に障る濁声だみごえが、正面から降りかかる。

「やめろと、言ってるんだ」

 足の震えを必死に抑えて、ユウは言い返す。

「大の男が、そんな小さな子どもを痛めつけて面白いか!」

「何だと、この野郎」

 いきり立つ男の向こうで、傷ついた少年が立ち上がるのが見えた。攻撃の矛先が変わったのを見て取ると、素早く身を翻して、群衆に分け入っていく。救いに現れたユウの顔を、ちらりとも振り返らなかった。

 そんな──と内心では思ったが、呼び止めるような余裕はない。標的は入れ替わった。今度はユウ自身が、この危機から逃れなくてはならない。

「なめんじゃねえぞ!」

 男の腕が胸倉に伸び、と思うや、ユウの小さな体は軽々と宙に吊り上げられた。二人を取り囲む群衆の、恐れているような、しかしどこか騒ぎを面白がっているような表情が、男の肩越しに見える。大路は湯気の立ちそうな人だかりで埋め尽くされていた。

 マツバさま、と叫びたいところを、どうにか耐える。

「汚い手を放せ、無法者!」

「無法者だと?」

「あの子が悪いことをしたなら、お上に突き出せばいい。あんなふうに殴ったり蹴ったりするなんて、ただの無法者じゃないか」

「知ったような口を利くんじゃねえ!」

 次の瞬間、体ごと地面に打ちつけられて、ユウは呻き声を発した。間髪を入れず、男の沓が肩のあたりを蹴り上げてきた。

 思っていたほど痛くはない。というか、不思議と何も感じなかった。でもきっと、後でひどい痣になる。その痣は本来なら、あの少年の体に刻まれるはずのものだった。が、彼はもうここにはいない──ならば今、自分は一体、何をしているのだろう。

 ああ、そうだ、笛。

 万屋で見せてもらった木笛が、目の前の地面に転がっている。商店を飛び出したとき、そのまま持ってきてしまったのだった。光沢を帯びた木目には、穏やかな冬陽が降り注いでいる。

 群衆のざわめきを踏みにじるようにして、男の沓音が迫ってきた。今度は痣では済まないかもしれない。再び蹴りを食らうまで、あと三歩……二歩……一歩。

 ユウは突然、バネ仕掛けの玩具のように跳ね起きた。次の瞬間にはもう、男の懐に飛びこんでいる。両手で木笛の一端を握りしめ、もう一端を男の鳩尾みぞおちのあたりへ、渾身の力をこめて突きこんだ。

 何も考えはなかった。体が勝手に動いたのだ。

 ぐぐ、と、男が変な声を吐いて、その場に膝をつく。

 ユウへの賞賛か男への嘲笑か、どちらとも取れない息が、観衆の間から漏れた。

 二、三歩後ずさって、男が咳きこんでいるのを呆然と見る。逃げだすには絶好の機会だが、興奮のあまり、足が震えて動けない。両手は笛を握ったまま固まって、もう自らの意思では離すこともできなかった。

 男は顔を上げた。眼光が猛々しい怒りに燃えて、ほとんど野獣のようだった。血走った目で周囲を睨みまわすと、観衆の中にいた小太りの町人に駆け寄り、手にしていた杖を強引に奪い取った。

 杖は笛よりも長く、黒々として不吉に見える。それを右手に握り、左手でしごくようにしながら、男は恐ろしい形相で近づいてくる。

 ユウの足はやはり動かなかった。先ほどの奇跡のような瞬発力は、もう体のどこからも出てこない。

 杖が、高く掲げられた。そして、唸りを上げて、振り下ろされる。

 目は閉じていなかった。だから、一部始終を目撃した。風を切った杖が、自分の頭上に迫ったところで急に空へ跳ね上がり──回転しながら宙で弧を描いて、悲鳴を上げる群衆の間に落下し──男が間抜けに口を開いたまま、突如として割りこんだ闖入者と、眼前に迫った真剣の刃を見比べ──茶色の外套に包まれた背中がゆっくりと、ユウの視界を遮るまでを。

「事情はわからぬが、この者はわたしの連れだ。何か苦情があるなら、わたしに言ってもらおうか」

 剣士姿のマツバ姫は、痩せぎすの男にそう宣告した。

「……」

 男は蒼白な面で立ち尽くしている。子どもには居丈高でいられたものの、武人を敵に回すことは予想外だったようだ。

 相手が戦意を喪失したのを見て取り、姫は剣を鞘に収めた。それからユウに歩み寄って、まだ固く笛を握りしめている拳を、大きな掌で包みこんだ。

 それでようやく呪縛を解かれたように、ユウの体は自由を取り戻した。知らず、足を一歩前に踏み出して、主人の外套に顔をうずめていた。

「怪我はないか」

 頼もしい主人の声を聞くと、泣きそうになる。蹴られた肩が、急にじんじんと痛みだした。が、そこを我慢して、「はい」とだけ答えた。

 しかし、これで一件落着とはならなかった。人垣の一角から、不意に野太い銅鑼どら声が上がったのだ。

「よう、どうだ、兄弟。代わってやろうか?」

 観衆が、新たな見物みものを求めて振り返る。そこに立っていたのは、たくましく筋肉の張った腕をした大男だった。無精髭に覆われた顎は四角く、目は鬼面のようにぎょろりとして、眉が黒く太い。

 身なりは痩せぎすの男に似て、いかにも無頼の徒という趣だが、酔っ払ってはいないようだ。片手には、先ほどユウに降り下ろされそうになった、あの杖を持っている。飛ばされて地面に落ちたのを拾ったのだろう。

「俺がカタキを取ってやらあ。その代わり、この前の借りは帳消しにしてもらうぜ」

 痩せぎすの男にそう持ちかける話し口は、どことなく都人らしからぬ訛りがある。

 バン、さむらいとやる気なのか、と、観衆の中から野次が飛んだ。

「へっ、相手が誰だろうと喧嘩は喧嘩だ」

 痩せぎすの男が、黙って場所を譲る。取引は成立したらしい。バンと呼ばれた無頼漢は、左右の肩を交互に回しながら、ゆっくりと前へ進み出てきた。

 観衆はにわかに活気づいた。早くも賭けが始まっている。おい、おまえに賭けたからな、と、誰かが言う。うちのツケを払う前に死ぬんじゃねえぞ、と飲み屋の親父が野次る。

「うるせえな、だったら俺の負けに賭けとけよ。そうすりゃ、俺が死んでも金が入るだろうが」

 バンはうそぶいて、杖の丈夫さを確かめるように両手でしならせる。それは高いんだ、折られちゃ困る、と、持ち主の小太り男が苦情を吐いたが、野次馬の声にかき消された。

 マツバ姫はこの新参者の振る舞いをしばし興味深げに眺めていたが、

「そなたとやり合うつもりはない」

 そう言って、野次馬たちの熱狂に水を差した。

「そっちになくても、こっちにあらあ。借金が減らねえんだ。あんたに勝ちゃ、ちっとは首が回るようになる」

「正気とは思えぬな。その杖で、真剣と争う気か」

「刃物をぶら下げてるってだけで、でけえ面するもんじゃねえぜ」

「たいそうな自信だな。だが、わたしは抜かぬ。喧嘩なら他の相手を探すことだ」

「逃げるのか、腰抜けが」

 野次馬たちもまた、口々に囃したてた。たまらずにユウは「黙れ!」と怒鳴った。

「おまえなんかを斬ったら、剣が汚れるって言うんだ!」

「へっ」

 バンは鼻で笑うと、「だったら、素手でやるか?」と挑発した。

「剣がなけりゃ、喧嘩もできねえんだろうが」

 周囲に嘲笑が起こった。が、長くは続かなかった。

 剣士が外套がゆっくりと脱ぎ、地面に投げ捨てたのだ。

 晒しを巻いて男物の黒い上衣うえぎぬをまとった上半身は、細身だが固く引きしまっている。帯も脚絆も、手甲も黒い。腰に差した剣の鞘だけが赤く、鮮やかに際立っている。

 姫は剣を手際よく取り外し、何も言わずに後ろへ差し出した。昨日も預かったそれを、ユウは再び胸に抱くことになった。

「へっ、女みてえな細腕しやがって、やろうってのか。面白え」

 バンは不敵に笑い、杖を持ち主のほうへ放り投げた。

 相手の肩幅は姫の倍はある。腕など、三倍以上の太さはありそうだ。マツバ姫がいくら強いと言っても、さすがに素手で渡り合えるものか、ユウは少し心配になる。

 だがマツバ姫は平然として半身を引き、腰を落とした。腕を直角に構え、拳法の型をとる。

 相手のほうは特別な構えもなく、悠然と歩み寄り、そのまま前置きもなく殴りかかった。

 姫は苦もなく拳をかわす。観衆が沸いた。

 敵の動きは存外に敏捷だった。洗練されてはいないが、野生の獣が獲物を追うときの、反射の連続のような滑らかさがある。

 一方のマツバ姫はあくまで基本の型に則った、無駄のない所作だ。繰り出される重そうな拳を、横によけ、後ろへかわし、あるいは手刀で受け流す。守りに徹しているが、劣勢には見えない。まるで、運動を楽しんでいるかのような風情だ。

 だが、ユウは気づいた。応酬が続くうちに、マツバ姫の頭部が不安定に揺れ始めたのを。

 どうやら頭巾の結び目が緩んできたらしい。顎を下げた拍子に額からずれ落ちて、眼にかかりそうになる。その瞬間、姫の動きがわずかに鈍った。

 バンはこの機を逃さなかった。草鞋履きの足を、真横から勢いよく振り上げる。

 姫がとっさに身をかがめる。足は姫の頭上を掠めて、大きく空振りした。

 ユウは思わず吐息を漏らした。と同時に、取り巻く観衆は一斉に息を飲む。

 鳶色の頭巾が地面に落ちて、剣士の頭部が露わになっていた。髷を結い上げて余った髪の束が、はらりとうなじに落ちる。まっすぐで、艶やかな黒髪。いや、そんなことより──。

 剣士の耳朶に、銀色の光が環になって揺れていた。

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