5-2

 西府さいふの城で養われるようになってから二月ばかり経ったころの出来事を、ユウは思い出していた。

 栄養失調がようやく回復してきたばかりで、水汲みや掃除といった手伝いもまだ与えられていなかった。他の童子たちはそうした仕事の合間に読み書きや算法を習っていたが、そうした場にも顔を出さなかった。警戒心が人一倍強く、誰とも口を利かないので、最初は何かと世話を焼こうとしてくれた他の童子たちも次第に遠のいていった。だからほぼ毎日、一人でぼんやりと時を送っていた。

 ただ一つだけ、毎日楽しみにしていたことがある。松の庭の隅にある植えこみに潜んで、城の外廊下を見張ることだ。そして、あの人の現れるのをじっと待った。紅の衣服に長身を包み、腕と脛をきりりと巻きしめて、立派な刀剣を腰に佩いたあの姿を一目でも見られたなら、少女の一日は満たされた。

 そんな日々がしばし続いた後、ふと目に留まったのが、隠れ場所のすぐそばに立っていた松の木だった。

 低い位置から生え出た枝が、珍しくまっすぐで節が少なかった。小枝を取って、枝先の部分を折り取れば、ちょうど姫が腰に差している得物と同じくらいの長さになりそうだった。

 誰も見ていないのを確かめて、枝を幹からもぎ取り、常緑の針がびっしりと並んだ小枝をむしってみた。枝は鞭のようにしなって、予測のつかない動きをしては小さな掌を傷つけた。手も頬もやにだらけにしてようやく完成した木刀は、思ったよりも不格好であったが、それでも帯に差しこんでみれば、少しは憧れの人に近づけた気がした。

 それから数日の間、彼女は植えこみの下に隠した手作りの宝刀を、人目を忍んでは引っ張り出して腰に差した。先を地に引きずりながら歩き回り、うまやの裏の壁や、日陰の立ち木に振り下ろした。

 だがこの遊びは、早々に咎められる羽目になる。見事な枝ぶりが自慢の松の庭に一本、惨めに枝を折られた木があるのを庭師が発見した。それから犯人が判明するまで、時間はかからなかった。最近、城に拾われてきたばかりの童女が、大きな木切れをぶら下げた奇態な体で歩いているのを見かけた女官がいたのだ。

 庭師はとても腕のいい、しかしそれ以外はすっかり衰えたように見える、腰の曲がった老爺だった。折った松の木の前にユウを座らせ、叱責もせずに黙って見つめていた。詫びの言葉を待っていたのかもしれない。しかし彼女は一言も発することなく、小さな体をさらに縮めて、じっと下を見ていた。

 そこへマツバ姫がやってきた。すでに事情は知っている様子で、庭師からは何も聞かない。外廊下から軽やかな足取りで庭に降り立ち、ユウに歩み寄った。

──これは、そなたの仕業か。随分、苦心したと見えるな。

 前置きもなく、姫はそう尋ねた。手には、庭師から受け取った松の枝があった。童女は小さく頷くしかなかった。

──だがな、世の中には、ぶんというものがある。わかるか? 生まれ持った質によって、生きるべき道は異なる、ということだ。

 分、と、ユウは口の中でつぶやいた。相手と自分との間が遠く分け隔てられていることを、知らないわけでは毛頭ない。けれど、今ここでマツバ姫の口から聞くには、想像していた以上に辛い言葉だった。

──わかるか、ユウ?

 頭上から降りかかる声。それは、自分の出自すら知らない孤児に、姫自身が与えた名前だった。

 どうにか涙をこらえて、ユウは首を縦に振った。

──もう、枝は折らぬのだな?

 畳みかけるように問われて、さらに大きく頷いてみせると、姫の声がようやく和らいだ。

──ならばよい。枝を木刀に供するのは、からな。爺、蔵に幾本か、古いのが置いてあったろう。

──はい?

──昔、わたしが稽古に使っていた、木刀だ。蔵の中に。

 耳の遠い老爺に向かって、マツバ姫は大きな声で繰り返した。

──ああ、ございますとも。

──軽いものを選んで、この者に取らせてやれ。

 ユウは驚いて顔を上げた。命じられた庭師は、何の疑問も抱かない様子で蔵のほうへ歩きだしていた。

──ユウ。この庭の松は、先の城主から引き継いだ城の備えだ。よって、この枝をそなたにつかわすわけにはゆかぬ。せっかくの力作、惜しくもあろうが、返してもらうぞ。使い古しにはなるが、代わりのものを取らすゆえ、それで我慢するのだ。

 そう言うと、姫は少女の頭をひと撫でして、身を翻した。いつもの颯爽とした身のこなしで、庭から館へ戻っていく。その背中に向かって、知らず、ユウは声をあげた。

──剣を。

 マツバ姫が振り返り、束ねた黒髪が宙を跳ねた。

──剣を……その、木刀、を、持ってもいいのですか?

 城に拾われてから、初めて言葉を発した瞬間だったかもしれない。ひとりでに喉から転がり出た声は、小さくかすれていた。

 姫はその質問に、意表を突かれたとでもいうように目を丸くした。そして、まったく事も無げに、「枝を折らぬのならばな」と答えたのだった――。

「おや、旦那、今日はまた小さなお連れさまで。いつものかたは、ご一緒ではございやせんので?」

「ああ。かれは妻を娶ったばかりゆえ、しばらく暇をやった」

「へえ、そいつはおめでたいことで」

 旅の剣士を装ったマツバ姫が、なじみの行商人と気楽な挨拶を交わしている。ユウは少し離れて、その様子を見守った。

 粗末な露店だった。赤紫の布を地面に広げて、商品を無造作に並べているだけだ。看板もなければ、値札もない。

 売られているのが何なのか、最初はよくわからなかった。宝石のような輝きはなく、しかしただの小石にしては艶がある。姫が手に取って眺めるのを見て、貝殻だ、とようやく気づいた。

 首や腕にかけられるように糸を通した、あるいは何も加工をしないままの、色とりどりの貝殻。海のないこの国では確かに珍しいかもしれないが、姫が興味を示すのはやや意外な気がする。

 国中の逸品が集まるこの市へ来たからには、もっと彼女に似つかわしいものを見るのだろうと思っていた。そう、それこそ刀剣のような……。

 あの松の庭での出来事がきっかけで、マツバ姫のお下がりの木刀を与えられ、それどころか時には直に稽古までつけてもらえるようになった。身に余る幸運だという自覚が、ユウにはある。この上、本物の剣を持ちたいなどというわがままが通じるなどとは、さすがに思っていない。だから刀剣屋に寄りたいという望みは、さっさと封印してしまった。

 しかし、マツバ姫自身の用事で立ち寄るという可能性には、まだ期待しているのも事実だった。

 昨日、預かった姫の剣を抱いたときの高揚を思い出すと、胸がうずく。いつか彼女のような剣士になって、信頼される家来になりたい。そして彼女のそばから離れずに、付き従っていたい。これまでその役目を務めていたのはアモイだったのだろうが、今日からはずっと留守番だ。自分が、代わりに。

 そんな少女の妄想を知ってか知らずか、姫は敷物の前に片膝をついて、貝殻の一つ一つを丁寧に眺めている。

 巻貝に二枚貝、棒のように細長い貝もある。やがてしなやかに伸びた指先は、黒色の、角度によって色艶の変わる、小さな丸い貝殻を拾い上げた。

田螺たにしに似ているが」

「おっしゃるとおり、田螺の仲間でございやす」

 箱椅子に腰かけて上体を前にかがめた貝殻屋は、これといった特徴のない顔立ちをした、若いのか老けているのかさえわかりにくい男だった。布の帽子を目深にかぶり、暗褐色の単衣を重ね着して、袴の裾は履き古したくつの中に差し入れている。

「ただし、ここいらで採れたものではござんせんがね」

「海のものにも見えぬな」

「へえ。山向こうの湖から採って参りやした」

 右手の上で転がしながら、姫は貝殻をじっくりと見つめ、おもむろに左手を懐に入れた。

「いくらだ?」

 ユウは買い物をしたことがほとんどないので、商人が答えた値段が高いのか安いのかよくわからない。だが、姫が言い値よりもかなり多い金額を手渡したのは、端で見ても察しがついた。

「釣りは要らぬ」

「毎度、ありがとうございやす」

「糸を通してくれぬか」

「へえ、少々お待ちを」

 貝殻屋は口笛を吹きながら、脇に置いた箱から錐と天蚕糸てぐすを取り出した。

「そうだ、よかったら一つ、おまけでお付けしやしょう。そちらの坊へ、お近づきのしるしに」

「よいのか」

「旦那は気前がよろしいんでね、ちっとばかし見習わないと。何せ今日はめでたい祭り市、西の姫さまのご成婚祝いでございやすから」

 まさか目の前にいる剣士が、その姫だとは思ってもみないのだろう。男は手際よく田螺の殻に穴を開けながら、「どうぞ、どれでも」と気軽に言った。

 見上げると、マツバ姫も頷いている。ユウはかがみこんで、色とりどりの貝殻を物色し始めた。

「そう言やあ旦那は、北の湖をご覧になったことがおありで?」

「いや。わたしはこの国の外を見たことはない。よほど広きものと聞くが、海とは見て違うものか?」

 頭の上で、大人二人の会話が再開された。

「そりゃあ、広うはございやすが、さすがに海にはかないませんや。そんで似て非なるものってのは、まったく異なるものよりも、かえって反りが合わねえとか申しましてね」

「湖と海が、不仲だと申すのか?」

「まあ、仲よしとは言えないようでやすね」

「しかし北湖国きたうみのくには、古くから美浜みはまの属国であったはず。例年の朝貢みつぎも滞りないと聞いているが」

「その貢ぎでさあ。外見そとみに滞りはなくとも中身が手抜きだと、近ごろになって海の側が言いだしてるそうで。しかしねえ、湖の側にも言い分はあるようでして、要するに年々、海からの要求が高じる一方だと。まあ、北湖のほうも、ここんとこひらけてきたからねえ、美浜としちゃあその分、搾り取ってやろうって魂胆なんでしょうよ」

 北湖国が山峡国の北東方向、険しい山並みを越えた向こう側にある国だということは、ユウも知っている。緑に囲まれた大きな湖と、その畔にある美しい都。噂に聞くかぎりでは、ほとんどおとぎ話のような国だ。

 しかし山越えの道がないため、訪れるには一旦、美浜国を経由しなければならない。実質上、行けないも同然だ。だから山峡の民が見る地図に北湖はほとんど載らず、隣国という意識もない。

 が、こうしてわずかながらも商人が行き来しているのなら、実は思っているほど遠くはないのだろうか。

「けどまあ、どのみち海と湖じゃ喧嘩になりゃしないし、結局は言いなりになるしかないんじゃないですかねえ」

 男の手元で、パチリと音がする。天蚕糸をはさみで切って、どうやら作業は終わったようだ。

「さてと、もう一つはどれにするか、お決まりですかい」

「あ、ええと」

 貝殻選びを忘れていた。ユウは慌てて、手近にあった一つを指差した。三日月のように細く尖った、見慣れない形の白い貝だ。

「じゃあ、それ」

「へえ、そいじゃ、こいつにも糸をつけときやしょう」

「変わった形だが、それは何処いずこの産だ」

「こいつは海のものでさ」

 マツバ姫の問いに、貝殻屋が答える。

「海と言えば、あっちの都にももうすぐ祭市が立ちそうですぜ。商い人には、ありがたいかぎりで」

「ほう。美浜で、何ぞめでたいことがあるのか」

「へえ、何でも、あの名高い若殿さまが、いよいよお妃さまをおもらいになるとか」

「……公子クドオが?」

「ええ、つい最近になって、急に決まったようで。お相手は、王家よりも古くから続く名家のご令嬢だって話──おや、旦那、どうかなすって?」

 貝殻屋の問いかけにつられるように、ユウはマツバ姫の顔を見上げた。

 口元にはやや皮肉めいた笑み、眉根にはどこか憂いを漂わせた複雑な表情。しかしそれを一瞬で拭い去り、姫は何事もなかったかのように話を継いだ。

「かの大国で、次期の王の成婚祝いともなれば、さぞや盛大な市となろうな」

「そりゃそうですとも。だけどこの橋場だって、引けをとっちゃいないと思いやすがね」

「そうか。景気はよいか」

「陛下がお病みつきってんで心配してやしたが、結構な人出でやすね。まあ、せっかくのいい話、こんくらいは盛り上がらないと冬が越せませんや」

「いい話か。しかし、西の姫の婿どのには、何やらよくない噂もあるのではないか?」

「ああ、ひところはねえ。けど、よくよく聞きゃあ、なかなかの男ぶりだってえ話でございやすよ。何しろ、御家老のイノウさまがその人物を買ってるってんですから」

「なるほどな」

 二つ目の貝殻にも糸が通った。姫は黒い田螺を巾着にしまい、白いほうはユウにそのまま渡してくれた。

「よい話を聞かせてもらった。これからも国境くにざかいをまたぐつもりならば、くれぐれも気をつけるがよい」

「へえ、ありがとうございやす。ところで、言おうかどうか迷ってたんですけどね。あっちに立ってる薄気味の悪い爺さん」

「うん?」

「どうもさっきから、ずっとお二人を見てるようなんで」

 マツバ姫とユウはほぼ同時に、貝殻屋の指し示す方向を振り返った。市街の中心部からやや離れた裏路地には、小さな商店と露店が混在し、その間を絶えず人が往来している。だがその中に、不審な老人の姿は見えなかった。

「あれ、さっきまでいたのに。おかしいなあ、見間違えじゃないと思うんですがねえ」

 貝殻屋が、間の抜けた声を出した。

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