第5章 拾う神あり
5-1
橋を渡り終えた途端に、横風がやんだ。川面を走る冷たい気流から解放されてみると、不意に暖かな陽射しに包まれて、かえって鼻の奥がむずがゆくなる。
音を殺して鼻を啜り、ユウは後ろを振り返った。がっしりした手すりを備えた幅の広い大橋は、都の中心部と
「忘れ物でもしたか?」
前を行く旅姿の剣士から声がかかる。煤けた茶色の外套に全身を包み、頭部は耳までを頭巾で覆っていたが、その顔立ちは、すれ違う女たちが思わず振り返るほどの美男である。
だが、彼は、昨日には艶やかな花嫁衣裳を着ていたわけだ。
「いいえ。ただ、本当にすごい風だったので」
「大風水と呼ばれるだけのことはあろう」
「はい」
一方のマツバ姫は、まったく慣れた調子であった。都に上った折には、暇を見てこの
そのアモイを邸に置き去り、自分が供に選ばれたということは、何にも増して誇らしかった。今日ばかりは、時間を持て余している居候の一童女ではない。活動的な筒袖を着た彼女は今、どこから見ても紅顔の少年だ。崇拝する人と同じ秘密を共有する喜びに、弾む足取りを隠しきれなかった。
大橋を渡りきると、さっそく威勢のよい呼び声が聞こえてきた。無数の
とは言え、よそ見をせずに歩くには、目を引くものが多すぎる。香ばしく甘い香りが鼻腔をくすぐり、見ればすぐ脇の屋台の女将が、煮えた油の中から狐色の揚げまんじゅうを取り出したところだ。
早朝に食事もとらず、邸を忍び出てから随分経つ。緊張で忘れていた空腹が、急に目を覚ました。しかし、マツバ姫に買い食いをねだることなどできない。そもそも揚げまんじゅうに気を取られたと知られることすら、恥ずかしかった。だからすぐに視線を前に戻し、茶色の背中にぴったりと離れないようついていった。
その背中が不意に立ち止まり――拍子に、鼻先が姫の外套に触れてしまって、ユウは慌てて一歩、後ろへ下がった。
「何か温かいものでも食うか」
右肩越しに、マツバ姫が見下ろしていた。
ユウはぎくりとした。それから恐る恐る、いえ、お腹は空いていませんと、腹の虫を押さえつけながら答えた。
「そうか。しかし、わたしはもはや限界だ。悪いが付き合うてくれ」
マツバ姫は出店の間をすり抜けて、道筋にある飯屋の暖簾をくぐった。
冷えた肌が、人の熱気に触れて粟立つ。朝食にしては遅い時間だが、箱のような椅子に腰かけて卓を囲む客たちで、店内は賑わっていた。湯気と一緒に立ちこめる出汁の匂いを嗅ぐと、ついに痺れを切らして腹の虫が悲鳴をあげた。
箱椅子に腰を下ろし、マツバ姫が注文してくれた温かい麺を、ユウは黙々と口に運んだ。出汁は熱く、体が芯から温まった。姫も、同じものを旨そうに味わっていた。緑のものが少々散らしてあるだけの粗末な食事だが、何の抵抗も感じないようだ。
いつだったか城の
腹ごしらえが済んで飯屋を出ると、姫は目の前の屋台で、揚げまんじゅうも買ってくれた。ごまかしたはずの視線は、やはり気づかれていたらしい。
「どこか、見てみたい店はあるか」
食べかけのまんじゅうを手に歩きながら、マツバ姫が尋ねた。
油の染みた紙包みを手に、ユウは周囲に目を走らせる。着物屋がある。
目当てのものを商っているところがないか、言葉には出さずに探した。もしもそれらしき店があれば、たまたま目に留まったふりをして、立ち寄りたいと言い出せるかもしれない。
しかし雑踏に慣れない目では、何気ないふうを装って探るのにも限界がある。それどころか、人の多さに少し酔い始めていた。半ばあきらめて、マツバ姫の背中に視線を戻そうとしたとき、違和感は訪れた。
恐怖、というほどではない。不気味、とでもいうべきだろうか。
目が合ったのだ。
「どうした」
思わず足を止めたユウに気づいて、マツバ姫がそばへ歩み寄ってきた。そして少女の視線を追い、路地のほうへ目を向ける。
そのときには、人影はもう消えていた。
「今、あそこに、誰かが立っていて……。こっちのほうを見ていました」
「どのような者だ」
「顔は見えませんでした。頭から、布をかぶっていて。背はあまり大きくなくて、なんとなく年寄りっぽい感じに見えたけれど」
「浮浪者の類か」
「わかりません。ただ……」
言いかけたところで、自信を失う。これだけの人が往来する中で、見知らぬ他人と目がかち合うことなど、さして珍しいことでもないのかもしれない。大したことでもないのに騒ぎたてて、このお忍びの外出が取りやめにでもなったら? そう思うと、黙っていたほうがよいような気がした。
錯覚に違いない――相手の両眼が、赤く見えたなんて。
「いえ、何でもありません。あんまりにも人がいっぱいいて、ちょっと混乱したみたいで。ごめんなさい」
「そうか」
マツバ姫はユウの顔を眺め、それから周りを見回して、揚げまんじゅうの最後の欠片を口に放りこんだ。
「確かにこう騒がしくては、ゆっくり買い物もできぬな。一本、裏通りに入るとしよう」
勝手知ったる様子で、マツバ姫は「こっちだ」と歩きだす。ユウは慌てて後を追った。少し先の十字路を右に折れて、また次の角を左に曲がると、先ほどよりはいくらか落ち着きのある道に出た。
実はその途中に、目当ての場所があった。いかにも老舗らしい重厚な店構えと、鮮やかに染め抜かれた暖簾。その奥に垣間見える売り場では、身なりのいい男たちが店主から品物の説明を受けている。彼らの手に煌めく、白い光。屋根の上に張り出した看板には「刀剣」と大きく刻まれていた。
「ところで、どうだ。気になる店はあったか」
思い出したように、姫は再び尋ねる。
「いいえ、これと言って」
ユウは前を見たまま答えた。
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