第5章 拾う神あり

5-1

 橋を渡り終えた途端に、横風がやんだ。川面を走る冷たい風から解放されてみると、不意に暖かな陽射しに包まれて、かえって鼻の奥がむずがゆくなる。

 音を殺して鼻を啜り、ユウは後ろを振り返った。がっしりした手すりを備えた幅の広い大橋は、都の中心部と市街いちまちとを行き来する人々で混雑している。その誰もが帽子やら荷物やら、風にさらわれそうなものを手で押さえ、体を斜めにして歩いているのが滑稽だ。それはわずかばかり前の自分の姿でもあるはずで、そう思うとまた可笑しかった。

「忘れ物でもしたか?」

 前を行く旅姿の剣士から声がかかる。煤けた茶色の外套に全身を包み、頭部は耳までを頭巾で覆っていたが、その顔立ちは、すれ違う女たちが思わず振り返るほどの美男である。

 だが、彼は、昨日には艶やかな花嫁衣裳を着ていたわけだ。

「いいえ。ただ、本当にすごい風だったので」

「大風水と呼ばれるだけのことはあろう」

「はい」

 西陵せいりょうから都入りする際にも、この橋を通った。しかしそのときはイセホとともに馬車の中にいて、風の音を聞いただけだ。いざ生身で渡ってみれば、小柄な体を吹き飛ばされかねないの強風に、度肝を抜かれてしまった。

 一方のマツバ姫は、まったく慣れた調子であった。都に上った折には、暇を見てこの橋場はしばの市街へ繰り出しているらしい。その際には決まって今日のように男装をして、アモイ一人を供に歩き回っていたと聞いている。

 そのアモイを邸に置き去り、自分が供に選ばれたということは、何にも増して誇らしかった。今日ばかりは、時間を持て余している居候の一童女ではない。活動的な筒袖を着た彼女は今、どこから見ても紅顔の少年だ。崇拝する人と同じ秘密を共有する喜びに、弾む足取りを隠しきれなかった。

 大橋を渡りきると、さっそく威勢のよい呼び声が聞こえてきた。無数ののぼりが、色とりどりに二人を出迎える。常設の店舗のほかにも、祭市まつりいちならではの出店がひしめいて、橋場の市街は噂に聞く以上の活気に満ちている。都の人の多さに驚いたのもつい最近のことだが、この街の賑わいは都の比ではない。まっすぐに見通せる大路の代わりに、店と売り物と人とがはみ出して細くなった通路が猥雑に絡み合い、うっかりすれば迷子になりそうだ。

 とは言え、よそ見をせずに歩くには、目を引くものが多すぎる。香ばしく甘い香りが鼻腔をくすぐり、見ればすぐ脇の屋台の女将が、煮えた油の中から狐色の揚げまんじゅうを取り出したところだ。

 早朝に食事もとらず、邸を忍び出てから随分経つ。緊張で忘れていた空腹が、急に目を覚ました。しかし、マツバ姫に買い食いをねだることなどできない。そもそも揚げまんじゅうに気を取られたと知られることすら、恥ずかしかった。だからすぐに視線を前に戻し、茶色の背中にぴったりと離れないようついていった。

 その背中が不意に立ち止まり――拍子に、鼻先が姫の外套に触れてしまって、ユウは慌てて一歩、後ろへ下がった。

「何か温かいものでも食うか」

 右肩越しに、マツバ姫が見下ろしていた。

 ユウはぎくりとした。それから恐る恐る、いえ、お腹は空いていませんと、腹の虫を押さえつけながら答えた。

「そうか。しかし、わたしはもはや限界だ。悪いが付き合うてくれ」

 マツバ姫は出店の間をすり抜けて、道筋にある飯屋の暖簾をくぐった。

 冷えた肌が、人の熱気に触れて粟立つ。朝食にしては遅い時間だが、箱のような椅子に腰かけて卓を囲む客たちで、店内は賑わっていた。湯気と一緒に立ちこめる出汁の匂いを嗅ぐと、ついに痺れを切らして腹の虫が悲鳴をあげた。

 箱椅子に腰を下ろし、マツバ姫が注文してくれた温かい麺を、ユウは黙々と口に運んだ。出汁は熱く、体が芯から温まった。姫も、同じものを旨そうに味わっていた。緑のものが少々散らしてあるだけの粗末な食事だが、何の抵抗も感じないようだ。

 いつだったか城のくりや番が、マツバ姫の好物を教えてくれたことがある。それらはどれも、当時のユウが嫌っていたものばかりだった。以来、姫のように大きくなれるならと、我慢して食べるようになった。後で聞けば、どうもユウの偏食を直すための策略だったらしい。というのも、そもそも姫には昔から好き嫌いが一切なく、「お出ししたものは何でも美味だと召し上がってくださる、ありがたい城主さま」だったそうだ。

 腹ごしらえが済んで飯屋を出ると、姫は目の前の屋台で、揚げまんじゅうも買ってくれた。ごまかしたはずの視線は、やはり気づかれていたらしい。

「どこか、見てみたい店はあるか」

 食べかけのまんじゅうを手に歩きながら、マツバ姫が尋ねた。

 油の染みた紙包みを手に、ユウは周囲に目を走らせる。着物屋がある。くつ屋がある。金物屋に紙屋。くしやらかんざしやらを店先に並べているのは、小間物屋というのだろうか。他にも、何を売っているのかよくわからない店もある。

 目当てのものを商っているところがないか、言葉には出さずに探した。もしもそれらしき店があれば、たまたま目に留まったふりをして、立ち寄りたいと言い出せるかもしれない。

 しかし雑踏に慣れない目では、何気ないふうを装って探るのにも限界がある。それどころか、人の多さに少し酔い始めていた。半ばあきらめて、マツバ姫の背中に視線を戻そうとしたとき、違和感は訪れた。

 恐怖、というほどではない。不気味、とでもいうべきだろうか。

 大店おおだながいくつか並ぶごとに現れる小路への入り口、その角の一つに、人影が見えた。いや、人の姿など無数にある。その一人だけが妙に気にかかったのには、理由があった。

 目が合ったのだ。

「どうした」

 思わず足を止めたユウに気づいて、マツバ姫がそばへ歩み寄ってきた。そして少女の視線を追い、路地のほうへ目を向ける。

 そのときには、人影はもう消えていた。

「今、あそこに、誰かが立っていて……。こっちのほうを見ていました」

「どのような者だ」

「顔は見えませんでした。頭から、布をかぶっていて。背はあまり大きくなくて、なんとなく年寄りっぽい感じに見えたけれど」

「浮浪者の類か」

「わかりません。ただ……」

 言いかけたところで、自信を失う。これだけの人が往来する中で、見知らぬ他人と目がかち合うことなど、さして珍しいことでもないのかもしれない。大したことでもないのに騒ぎたてて、このお忍びの外出が取りやめにでもなったら? そう思うと、黙っていたほうがよいような気がした。

 錯覚に違いない――相手の両眼が、赤く見えたなんて。

「いえ、何でもありません。あんまりにも人がいっぱいいて、ちょっと混乱したみたいで。ごめんなさい」

「そうか」

 マツバ姫はユウの顔を眺め、それから周りを見回して、揚げまんじゅうの最後の欠片を口に放りこんだ。

「確かにこう騒がしくては、ゆっくり買い物もできぬな。一本、裏通りに入るとしよう」

 勝手知ったる様子で、マツバ姫は「こっちだ」と歩きだす。ユウは慌てて後を追った。少し先の十字路を右に折れて、また次の角を左に曲がると、先ほどよりはいくらか落ち着きのある道に出た。

 実はその途中に、目当ての場所があった。いかにも老舗らしい重厚な店構えと、鮮やかに染め抜かれた暖簾。その奥に垣間見える売り場では、身なりのいい男たちが店主から品物の説明を受けている。彼らの手に煌めく、白い光。屋根の上に張り出した看板には「刀剣」と大きく刻まれていた。

「ところで、どうだ。気になる店はあったか」

 思い出したように、姫は再び尋ねる。

「いいえ、これと言って」

 ユウは前を見たまま答えた。

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