4-4

 たゆとうような弦楽器のおぼろげな音色が、どこからか聞こえてくる。

 アモイは音の源をたどって、西陵せいりょう城主別邸の廊下をさまよっていた。いくつかの部屋の戸を開き、横切り、逆側の廊下に出て、音色は着実に旋律として聞こえるようになってきた。

 まだ軽い頭痛は残るが、二日酔いは治まりつつあった。薄色の寝具の敷かれた広い寝台で目覚めたときは、嘔吐感と記憶の混濁にひどく苦しんだものだ。しかし今はひとまず、雅やかな音曲の出所に興味を引かれる程度には、体調も精神も平静を取り戻していた。

 小春日和の今日にふさわしく、耳に心地のよい柔らかな音色。南端の一室の、わずかに開いた木戸の隙間から、それはこぼれてくるようだ。

 戸口から部屋をのぞきこむと、予想したとおりの人物の姿があった。

 少しうつむき加減に楽器を抱いて、美しい黒髪で腰を覆った、その音色同様に優美な後ろ姿。弓を滑らす腕の動きのしなやかさに、しばし見惚れて立ち尽くす。羽織った打掛は熟れた蜜柑の色をしていた。

 音楽を聴くのは好きだが、奏でるのは苦手だと、マツバ姫が語ったことがある。だから琴の稽古ともなれば、毎回のように替え玉を使っていたらしい。そのころは身長もほとんど同じくらいだった従姉妹は、高齢の師匠には見分けがつかなかったそうだ。

 とは言え今のアモイには、目の前にいる鼓弓の名手が、昨日娶ったばかりの新妻でないことは確かめるまでもない。

 曲が区切りを迎え、弦から弓を離したイセホは、その余韻の中にも人の気配を察したらしい。肩越しに背後を振り返り、アモイを視界に捉えると、驚いたように目を見開いた。姫によく似た切れ長の目は、しかしすぐに穏やかな笑みを宿す。

「お人が悪くていらっしゃいますのね。一声かけてくださったらよろしいのに」

 白い頬に、ほのかに赤みが差していた。

「いや、失礼。聞き慣れぬ音色だったもので、つい。……それは、何という楽器なのですか」

 戸口に立ったまま、アモイは言い繕う。それからすぐに、「聞き慣れぬ音色」ではなく「素晴らしい演奏」と言うべきだったと思った。

「さあ、名は存じませんわ。マツバさまが、いつかの大市で買ってきてくださったものですの」

「大市で」

「ええ。どうぞ、お入りになりません?」

 イセホは楽器を置いて立ち上がり、庭の見える位置に円座を敷いた。

 わずかにためらいつつも、アモイは部屋に踏み入った。縁側の向こうは玉石を敷きつめた、華のない庭であったが、穏やかな陽光に満ちていた。円座に腰を下ろすと、イセホが少し間を置いて座り、裾の広い袴を整えた。

 初夜明けの新郎が一人で所在なくうろついていても、彼女は驚きもしない。他の侍従や小間使いたちは皆、怪訝そうな顔をするので、「さいは祝言の疲れが取れずに自室で休んでいる、呼ばれるまではそっとしておくように」などと片端から釘を刺さなければならなかった。

 実際は自室どころか、この邸のどこを探そうと見つからないはずだが。

「市と言えば、今日も橋場はしばは祭市ですわね。御成婚お祝いの」

 イセホはとぼけたふうで、庭のほうへ目を向けた。

「マツバさまがお忍びで出かけようとされていたのを、知っていたのですね」

「あら、アモイさまはご存知なかったのかしら? マツバさまも困ったものですこと」

「貴女こそ、見かけによらず人が悪い」

 イセホは微笑んだ。その微笑に、アモイはなぜか昨日の花嫁の艶を思い出す。

「……もっとも、今日が祭市だということを失念していたのは私の落ち度ですが。知っていれば、やすやすと貴女がた二人の術中にはまることもなかったものを」

「でも、さすがですわ、アモイさま。マツバさまは、誰にも見咎められずにお出かけになるおつもりでしたのに」

「不思議なことに、マツバさまより早く目覚める習慣が体に染みついているようでしてね。どんなに酔わされてもこればかりは変わりません」

 まだ東の空も白みだしたばかりの早朝、薄暗い廊下の先に、アモイは見慣れぬ旅姿の若者が歩いているのを見た。身長は自分とさして変わらぬ程度で、細身ではあるが凛々しい背中、地味な外套からのぞく刀の鞘。頭部を鳶色の頭巾ですっぽりと耳まで覆っているのは、防寒のためか。

――どちらへお出かけですか。

 誰も起き出してこないように、ごく低い声で尋ねたところから、思えば甘かったのだろう。

――おお、我が殿、早い目覚めだな。なに、朝の散歩だ。紅葉の散り残りを拝むならば、この秋最後の機会であろうかと思うてな。

 マツバ姫は、ぬけぬけと答えた。彼女に限って、紅葉狩りやら花見やらといった風流な趣味など金輪際ありえない。そもそも、紅葉を愛でに行くのに、どうして人目を忍び男装する必要があるというのか。

──無論一人ではない、供を連れてゆく。朝餉あさげまでには戻るゆえ、そなたはいま少し眠ったらどうだ。まだ昨夜の酒が残っているのではないか。

 あの強い酒を飲ませたのは、このためだったのか。思い至って、アモイは舌打ちをした。

 そしてその酒を、彼の杯に何食わぬ顔で酌をしていたのが、目の前にいる弦楽の名手というわけだ。

「昨年の大市のときは、玄関で待ち構えることができたのです。そう――昨年は橋場までお供したのですが」

「今年はお留守番ですのね」

「時節柄、私までもこの邸を空けるのは上策でないとおっしゃって、供は別の者を連れてゆくと。しかし、その供というのが……」

「アモイさまの代わりに、どなたを連れてゆかれたのかしら?」

「剣士見習いの小坊主ですよ。邸のどこにもいない。あいつだけです、今朝からずっと姿を見られていないのは」

「あの子一人だけをお供に? まあ」

 これについては、イセホも本当に知らなかったようだ。アモイは大きく溜め息をついた。

 橋場の市街いちまちは、大風水おおかざみを挟んで都の対岸に位置する、山峡国で最もにぎわう市場である。年に数回行われる大市と、臨時に開かれる祭市では、東西の良品珍品が一同に会して取引される。国内の名産品のみならず、険しい山岳を越えて運ばれた北湖きたうみのくにの織物や、美浜国みはまのくにとの国境をくぐり抜けて届けられた書物や工芸品など、西陵にいては決して手に入らぬ代物があふれるこの機会を、マツバ姫が見逃すはずはなかった。

 実際、姫は今までに幾度となく、身分を隠して橋場の市へ繰り出している。アモイの役目は、それを制止することではなく、護衛としてどこまでもついていくことであった。自分も旅烏の装いに身をやつして、人々の行き交う街中で、一瞬たりとも姫から目を離さず、無事に帰館させる。昨年までは確かにそうだったのだ。

 だからアモイは、厳密に言えば、姫の軽率な行動を嘆いているわけではない。姫が軽率な行動をするとき、そばには自分がいなければならない──その信念を貫けないのが納得できないのである。

「やはり、無理にでもお供すればよかった」

 見事に色づいた紅葉が一枚、庭に飛んできた。と言っても、風というほどの風も吹いていない。ごくゆったりと、静かに、葉は玉石の上に舞い降りた。

 イセホが横で、声を立てずに笑った。

「何が可笑しいのです?」

「いいえ。ただ、昨晩のマツバさまのお言葉を思い出して。アモイさまと結婚して、真に不羈ふきなるものになったという。あれは本当だったのですわね。夫君が他のかたでいらしたなら、マツバさまも安心して橋場などへはいらっしゃらなかったでしょう。翼を折られた鳥になってしまうところだったのですわ」

「それは、さすがに、買いかぶりすぎというものです」

「でも、今日のところは危ういことは起こらないという確信がおありだからこそ、マツバさまはお出かけになり、アモイさまも強いてお止めにならなかった。そういうことなのでしょう」

 それを言われては、返す言葉もない。実を言えばマツバ姫もアモイも、何かが起こるなら今日ではないと踏んでいる。それがテイネの御方おんかたの身辺を探り、手の内を読んだ結果だった。

 もっとも、王の前で結婚の許しを得てから今日までの間に、物騒な出来事がなかったわけではない。刺客か密偵かはわからないが、西陵城の周辺で不審者がたびたび目撃されている。城の警護が堅く大事に至ってはいないが、背後に何かしらの企みがあるのは疑いなかった。

 二人が都へ到着してからは、ひとまず不穏な気配は鳴りをひそめている。当然と言えば当然だ。今や臣民の誰もが、この新郎新婦に注目している。誰の差し金かわからないように暗殺するには、人目がありすぎるのだ。それに万が一、成功したとしても、都での狼藉となればイノウやムカワが黙ってはいまい。

 それよりは、ひとまず夫婦を西陵へ返し、何かしらの落ち度を捏造して世継ぎの座から遠ざけるほうが、後顧の憂いがない。老獪な御方ならば、それぐらいは考えるだろう。

 だが、もしも待ちきれずに、一刻も早く邪魔者を除こうとするなら……。

 絶好の機会は、明日だ。結婚披露の宴を行うために新郎新婦と郎党が西府さいふへ向かう、その行列を待ち伏せて襲う。両家の親代わりとして同行するイノウとムカワも、もろともに始末する。宮軍本営のミヤノ総督を抱きこんだなら、それぐらいの兵は手配できるはずだ。そして都から離れた山中で事を済ませ、山賊の仕業とでもいうことにして人々のそしりを免れる。

 昨日、イノウに出立の日取りを再確認したのは、そうした危険への備えが万全かどうかを問う意味が含まれていた。もちろん先方も、それを承知の上で、遅延の必要はないと返答している。何もなければそれは重畳ちょうじょう、仮に何かあるならば、いっそ逆手に取って御方の陰謀を暴いてみせよう……それが西に向かう彼ら一党のはらなのだった。

 そんな一大事を明日に控えて、祭市を見物に行くマツバ姫の胆の太さには恐れ入る。朝餉には戻ると言いながら、もはや日は上天にあった。窮屈な花嫁衣裳に耐え抜いた代償とでも言わんばかりに、すっかり羽を伸ばしているに違いない。

「よろしければ、何かお弾きしましょうか」

 黙りこんでしまったアモイを気遣ってか、イセホが横に弦楽器を再び手に取った。

「ああ……それでは、先ほどの曲を、もう一度」

「かしこまりました」

 アモイは立ち上がって縁側へ歩み出、石庭に満ちた秋気を吸いこんだ。柔らかな陽射しが、庇の先から降り注いでいる。やがて背後から、弓が弦を優しく撫でる音色が響いてきた。

 玉石の上の紅い落葉が一枚、微風を受けてはらりと裏返る。


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