4-3
燭の置かれた机の下の暗がりに、少女はいた。体を小さく丸め、その細い腕の中に、赤鞘の剣を抱いている。
微かな寝息を立てるあどけない顔をのぞきこんで、マツバ姫は頬をほころばせた。
「お出かけになってから、一度も席を立たずに、ずっとこうしているのですよ」
イセホが姫にささやく。
「厠へも立たずにか?」
「ええ、そのために、水も飲まずに」
「そうか」
その健気さに打たれたように、マツバ姫はしばしユウの寝顔を見守った。
「ならば、いま少し眠らせておこうか。風邪を引かぬよう、頃合を見て起こしてやれ。甘いものでも取らせてやるといい」
「はい。マツバさまもお疲れでございましょう。お着替えになって、お茶でも召されませ」
「そうだな」
ユウの腕の下からそっと剣を抜き取り、花嫁衣裳の帯に押し通して、マツバ姫は言った。
「アモイも、まずはその窮屈な束帯を解いて参れ。今日の務めは仕舞いだ」
「はっ」
「後で呼びの者を遣わす。それまで一休みするといい」
イセホを従えて隣の部屋に去っていくマツバ姫の、両の耳に揺れる銀の光を、アモイは黙礼して見送った。
後には健やかな寝息だけが残った。イセホが気を利かせたのだろう、羽織を掛けられたユウの小さな体が、規則的に膨らみ、萎む。
マツバ姫がこの童女をはるばる都まで連れてきたのは、何のためだろう。身の回りの雑事をこなす人間には事足りているし、仮に人手不足だとしても、戦力の足しになるとも思えないのだが。
夏よりはいくらか伸びた黒髪に、指を触れてみる。やや硬い癖毛は、本人も気にしているように、マツバ姫のまっすぐな髪にはとても似つかない。その小柄な体も、平坦な面立ちも。姫に憧れれば憧れるほど、ユウは鏡の中の自分を呪わなくてはならない。
それでも彼女は、不幸ではない──少なくとも二年ばかり前、田舎町の路傍でうずくまっていたころに比べれば。
我知らず手綱を引くと、マツバ姫が気づいて「どうかしたか」と声をかけた。すると裸足の童女は、にわかに顔を上げた。
耳を立てた野良猫のような、警戒心に満ちた顔だった。通りがかる騎馬の一行、その中の一人が自分を凝視しているのに気づくと、見廻りの役人とでも思ったか、弾かれたように走りだした。童女の手にしていた残飯が、水溜まりに落ちて沈んだ。
マツバ姫の反応は早かった。愛馬の腹を蹴り、童女の逃げていった狭い路地裏へ一直線に駆けていった。町人たちが何事かと目を丸くする中、紅の外套をなびかせた姫は瞬く間に標的を追い越した。そして見事な手綱さばきで馬を止め、鞍から舞い降りた。
そのとき童女は、湿った大地に手をついていた。大きな蹄の音に
――そなたを迎えに来たぞ。長い間待たせてしまったな。
マツバ姫はそう言って、しなやかな腕を伸ばして童女の肩を抱いたのだった。
身寄りのない子どもを拾って城に連れ帰ろうとするとき、姫はいつもこうして声をかけた。しかしユウにとっては、生涯で初めて聞いた神の声だったのだろう。雷にでも打たれたかのように硬直して立つこともできず、アモイが抱え上げてやらなければならなかった。
そう昔のことでもないのだが、アモイはその日のことを懐かしく思い出す。子どもにとっての二年間は、長い。その間に、ユウは少しでも身長を伸ばし、剣の腕を磨き、姫のような切れ長の目やまっすぐな髪を得ようと、鏡の前で健気な努力を重ねてきた。不可能と知りながら、少しでも神に近づこうとするその姿を、彼は口で言うほどに軽んじてはいない。
ふうっと、童女が寝息の下から声を漏らした。そろそろ目覚めそうな気配に、アモイは急いで髪に触れた手を引っこめ、足音を殺して部屋を去った。
崇拝する神を奪われた者に、奪ってしまった者が今さら何を言えるだろう。
邸の外廊下に出て空を見ると、月は上天にかかり、夜更けと言ってもよい頃合いだった。慣れない儀式に緊張し続けて強張った身体に、夜風がしみる。しかし、ひと風呂浴びて寝るというわけにもいかない。
何となれば、今日は彼の結婚初夜だからだ。
「おお、アモイ。いや、我が殿であったな。今日は大儀であった。入ってくつろぐがよい」
そう言うマツバ姫の手には、すでに杯が握られている。燭台のいくつかの肴が並んだ膳を前にして、胡坐をかいていた。
向かい側にもう一つ、膳が設えられて、こちらはアモイのために用意されたものらしい。一礼をして席につき、足を崩した。
とは言え、くつろげるはずもない。呼ばれてやってきたこの部屋は、邸内でも最奥に当たる姫の私室。衝立一つ隔てた隣は、彼女の寝所なのだ。
姫の着衣はさすがに寝巻きではなかったが、髪を低い位置で緩く束ねて羽織を肩に掛けた、気楽なものだった。隣にはイセホがいて、相変わらず優美な仕草で酌をしている。
「今日は、ろくに飯を食う暇もなかったな」
「はい。酒はかなり飲まされましたが、酔う暇もありませんでした」
「酔えぬ美酒か」
そう言う間にも、イセホがアモイの杯に濁酒を満たす。ほとんど水のようだった神酒とは違い、強い芳香が鼻腔を刺激した。
「ならば、飲み直しが必要だな、我が殿」
「恐れながら……その呼びかたはお許し願えませんか」
「慣れてもらわねば困るぞ」
「それは重々、承知しておりますが」
「と言って、わたしも実は
「かたじけなく存じます」
「ではアモイ。乾杯といこう」
「頂戴します」
押し頂いて、一息に飲み干す。張りつめた喉を解かす、心地よい熱さが広がった。
マツバ姫もまた豪快に杯を空ける。これで何杯目になるのか、いつもながらの酒豪である。
「フモンが遣いを寄越したが、会ったか」
肴に箸を伸ばしながら、姫が尋ねてきた。
「はい、先ほど」
「披露の準備は滞りなく整ったようだな」
「甥御どののことですから、抜かりはないでしょう。出立は、予定どおり、明後日で?」
「老公は何と?」
「差し支えないとのことでした。ムカワ将軍も同様のお返事です」
「ならば後らす理由もあるまい」
「では、明日のうちに手配りを」
「頼む。時にアモイ」
「はい」
「先ほどから、なぜわたしの顔を見ない?」
指摘されて、慌ててアモイは視線を持ち上げた。そこにあったのは花嫁姿のときとはまったく雰囲気の違う、昔から見知った主君の顔だった──ただ一点を除いては。
「失礼しました。目を逸らしていたわけではないのですが」
「これが見慣れぬか」
左手の指先で、耳朶から下がった銀の環に触れながら、マツバ姫は皮肉に笑う。
「見慣れぬかと言われれば……見慣れません」
「慣れねばならぬことが多いな。もっとも、それはわたしも同じだが」
実際のところ、正視できない最大の理由は耳環よりも、この部屋にあり、衝立の向こうにあり、あるいはこの強い酒にあるのかもしれなかった。
再びアモイは視線を手元に戻した。少しの沈黙が訪れ、イセホが杯に酒を注ぐ音だけが聞こえる。
「この環は、わたしの足枷にはならぬ」
ややあって、マツバ姫がつぶやいた。
「二十歳までのわたしは、傍目にはさぞや野放図に見えたろう。だが、わたしは決して自由ではなかった。今日をもって初めて、真に
「……」
「そなたが重荷に思うことは、何もない」
マツバ姫の言っていることを完全に理解できたか、アモイには自信がなかった。ただ一つ、はっきりしていることがある。この結婚を悔いてはならないということだ。
マツバ姫は覚悟を持って、自らの耳朶に環を通した。婿となったアモイも、同じ覚悟を持たなければならない。
とすれば──。
胸の内に封印してきた問いが、ついに答えを要求する。初夜がすでに更けつつある今、新郎新婦は夜明けまでの時間をどのように過ごすのか、と。
どうやら、酔いが回ってきたようだ。思考がまとまらない。しかし満たされた杯は、干さねばならない。不必要に大きな音が、喉から鳴った。顔面が熱くなり、汗が噴き出す。
「アモイさま」
それまで一声も発しなかったイセホが、心配した面持ちで顔をのぞきこんできた。
「注いでやれ。まだ飲めるであろう?」
マツバ姫の唇が、挑発するように尋ねる。そしてまだ何とも答えないうちに、
「なぁに、宴の宵だ、酔いつぶれてもかまわぬではないか。これなるイセホも、もはやそなたの身内なのだ、気兼ねは要らぬ。なあイセホ」
「畏れ多うございますわ」
「酌ばかりではつまらぬであろう。そなたも飲め。この酒は、なかなか飲み応えがあるぞ」
「いいえ、わたくしは。ご夫婦へのお祝いの品ですもの」
「そなたは我が半身ではないか。わたしへの祝いならば、そなたも引き受けなければ具合が悪い。アモイ、まだ瓶を握れるか。イセホに注いでやってくれ」
言われてアモイは、イセホの手からためらいつつ瓶を取った。
イセホは抵抗することなく、姫から手渡された杯に手を添える。その中に半分ほど、芳香を放つ濁酒を流し入れた。
「それでは足りぬな」
「え?」
マツバ姫の言葉の意味がわからず、アモイは聞き返した。姫は横目に従姉を見やりながら、含み笑いをする。
「そなた、この部屋のうちで最たる酒豪が、よもやわたしだと思っているわけではあるまいな?」
姫の言葉にイセホは反論せず、曖昧な、そして艶然とした笑みをたたえていた。
その口元が、マツバ姫のそれと区別できなくなり、アモイは目を閉じた。頭の中が揺れている。しかしここは、意地でも倒れるわけにはいかない。
「どうした、アモイ。いつもより早いのではないか」
「お疲れなのですわ、きっと」
「そうか。ならばアモイ、遠慮せず休んでもかまわぬぞ。床の用意は調っておる」
「床の用意……」
朦朧とした意識の中で、アモイは鸚鵡返しにつぶやいた。
「仮にも新婚初夜に、新郎が新婦の部屋から出ていくわけにもいくまい。今宵はわたしの寝台で休むがよい。わたしはイセホと共に休むゆえ、気にせずゆっくり疲れを癒やすことだ」
意思に反して上体がぐらりと傾き、左の肩が、誰かによって支えられた。その力強さはマツバ姫のものか、その温かさはイセホのものか。不覚にもアモイは確かめることができなかった。
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