4-2

「お美しゅうございますわ。本当に……よく、お似合いでいらっしゃるわ」

 吐息混じりの声は、イセホのものだった。衝立の向こうで、先刻から何度も繰り返している。

「代わってやってもよいのだぞ」

 マツバ姫の軽口が答える。

「嫌ですわ、わたくしなどに似合うはずもありません」

「わたしに似合うと言うなら、そなたに似合わぬ道理はない」

「祝言の日に花嫁が入れ替わるだなんて」

「なに、少しばかり沓底を厚くしてやれば、誰も気づかぬ」

 冗談とは言え、かなり物騒なやりとりである。衝立を隔ててアモイが聞き耳を立てているのを、二人の女は知っているのだ。

「花婿さまがお気づきになるでしょうに」

「かまうまい。アモイならば気づいても、式が終わるまでは黙っているであろうよ。無論、その後は真っ赤になって怒るであろうがな」

「さようでしょうとも」

 衣擦れの音がする。侍女が姫の帯を結うさまを、アモイは思い浮かべた。

「……ですから、花嫁はマツバさまでなくてはならないのですわ」

 ふと沈黙が訪れて、しばらくは花嫁の身支度を整えるせわしない音だけが続いた。

 ようやく入室の許しが出たのは、それから少し経ってからだった。アモイは強張った頬を掌でひと撫でして、衝立の脇から一歩、室内に足を踏み入れた。

 イセホが橙の衣の上に白い打掛うちかけを着て立っていた。その横に腰かけてこちらに背を向け、艶やかな黒髪を腰まで垂らしているのが、我が花嫁なのだろう。

 アモイの気配を感じ取ったか、髪が音もなく波打って、形のよい耳がのぞいた。今日ばかりはイセホに引けを取らない、白い頬も。常から血色のよい唇が一層赤いのは、紅を差しているからだろう。

 マツバ姫は籐の椅子から立ち上がり、アモイに向き直った。

 薄紅色の花嫁装束は、袖も裾もゆったりとしている。普段の活動的な姿を見慣れているせいか、いつにも増して大柄に見えた。しかしそれはそれとして、淡い色彩と柔らかな風合いの衣装を来た姫は、まったく、この上ないほど女性的でもあった。肩幅も腰も腕も、別人のように華奢に映る。

 装い一つで、これほどまでに変わるものか。アモイは己の顔に、血が昇るのを感じた。

「物珍しいのはわかるが、そうして黙って立っているのも芸のないことよ。世辞くらい申すがよい」

 やや皮肉めいた笑みも、どこかいつもと違う。生来のくっきりとした面立ちが、化粧のせいか、柔和かつ優美に整えられていた。

「アモイさまも、凛々しいお姿でいらっしゃいますわ。眩いくらいに」

 無芸と言われてもなお黙って突っ立っている彼を、イセホがそう言って誉めた。花嫁によく似た侍女の目は、気のせいか少し潤んでいるようだ。

 返す言葉を思いつかずに目を泳がせると、部屋の片隅に束ねられた帷幕の裾が不自然に揺れるのに気づいた。誰かが隠れ潜んでいる気配。

「こら、曲者!」

 渡りに舟とばかり、アモイは大股に歩み寄った。

「のぞき見とは行儀が悪いぞ」

 たっぷりと襞を作るように束ねられた帷幕の、一番細くくびれたあたりから、烏の羽のように黒い頭髪が見えた。小さな手がそっと幕の裾を押しやり、妙に縮こまった体躯が姿を現す。

 上目遣いにこちらを見る面を見て、少しほっとした。ユウがとりあえず、泣いてはいなかったからだ。

 突然木刀で襲いかかられた初秋の日以来、この童女とは口を利いていなかった。避けられているのは明白だったし、アモイはアモイで忙しかったのだ。

 ユウは今日も、アモイと目を合わせようとはしなかった。ただマツバ姫の花嫁姿を盗み見ては顔を伏せ、もじもじしている。

「ユウ」

 姫が声をかけると、ようやく口を開いた。

「おめでとうございます……とても、きれい、です」

「そなたは我が婿と違って、世辞が言えるのだな。偉いものだ」

「お世辞じゃありません。本当に……」

 滑らかな絹の裳裾の下で姫の足が楚々と動き、ユウの前へ進む。袂の長く下がった袖口から差し伸べられた右手が、童女の短い髪に触れた。

 たおやかな所作だった。聖母のように、あるいは、女神のように。

 しかし、何かが違う。

 そう思った瞬間、まったく突然に、アモイの目は本来の視力を取り戻した。彼女の左手に握られているものに、初めて気づいたのだ。

「ユウ。一つ頼みがあるのだ」

 澄んだ声が、少女の赤い耳にささやく。

「わたしが式から戻るまで、預かっていてくれぬか」

 彼女はそう言って、左手に持ったそれを差し出した。いつも姫が腰に佩いている、赤い鞘の長剣だ。

「あたしが……?」

「この衣装に、よもや剣を帯びるわけにもゆくまい。しかし何しろ、年中離さずにきたものゆえ、わたしがおらねば寂しがるかもしれぬ。そなた、わたしの代わりに、こやつのそばにいてやってくれ」

 ユウは昂揚した表情で、押し戴くように剣を受け取った。

 それを見届けると、マツバ姫は再び花婿に向き直る。その眼差しの鋭さは、いつもの主君と寸分違わない。

「行くぞ」

「はっ」

 アモイはもはや、唇の艶などにたじろぎはしなかった。


 都の中心部、王宮からほど近くに構えられた西陵せいりょう城主別邸――この邸は、数日前に執り行われた印章の受禅により、すでにアモイのものと認められていた――その正門から、錦で飾った輿が運び出された。

 アモイは房飾りの賑やかな白馬に騎乗して、輿を先導した。その向かう先は、王宮の敷地内にある祭殿まつりどのだ。だが彼は、戦場へ出陣するかのような覚悟で手綱を握っていた。輿の中の花嫁もまた、同じ気持ちにだったに違いない。

 仰々しい赤銅の門をくぐると、マツバ姫とは分かれて、本堂に通される。そこには王家の婚儀にふさわしく、錚々たる顔ぶれが並んでいた。

 まずは新婦の父の名代である国老のイノウ・レキシュウ。盛装して例の宝剣を携え、胸を張って座した姿は、さすが威厳に満ちている。

 その傍らにいる、紗布を額から垂らした女は、言うまでもなく新婦の義母、テイネ・チャチャだ。

 さらに隣には、古池の鮒のような顔をした初老の男がいる。新婦の義弟にして東原とうげん城主のウリュウ・ハルの代理人だ。普段は補佐官として東府とうふに仕えているらしいが、テイネの御方おんかたに呼び出されたのだろう。

 ハルは国葬以外の儀礼の場にはほとんど顔を出さない――出させてもらえない――ので、多くの場合、人前に出るような公務も家臣がこなす。それ以外の城主の職務も、ほとんどすべて補佐官たちが代行している。テイネの御方が愛息のために選んだ人材のおかげで、東原の地はそれなりに治まっているのだった。

 当の城主は今ごろ、大好きな姉の祝言が執り行われているなどとは思いもよらず、任地で毬遊びにでも興じていることだろう。

 本堂には他に、宰相や大臣といった重臣が席を連ねている。中には、噂のミヤノ総督の姿もあった。年のころは五十代半ば、もと貴族だけあって礼式には慣れていると見え、装いも居住まいも堂に入っている。ただ残念なことに、顔がいけない。家柄と経済力と、あとは権力者への追従とで世を渡ってきた生きざまが、そのまま人相に表れている。西陵の城ならば、早々に淘汰されているに違いない。

 アモイにとって唯一、心安い顔と言えば、ムカワ・カウン将軍だけである。彼は、新郎のすぐ後ろの席に陣取っている。今は亡き父の名代を引き受けてもらったのだった。

 代理だらけの列席者たちは、仮面でもかぶっているかのように、皆一様に無表情に見えた。それが厳粛な儀礼の場というものなのだろう。だが仮面の下に蠢く思惑は、それぞれに、祝福以外のものを含んでいるのは疑いない。

 何より、設えられた立会人の席に、一人分の空きがあるのがその証拠ではないか。新婦のもう一人の義弟、四関しのせきの長官ウリュウ・シュトクは、代理人さえも送らなかったのだ。

 ともあれアモイは、居並ぶ人々に深く頭を垂れた。それから一同に背を向け、設えられた席に着いた。花嫁がやってくるまでは口を利かず、霊山のある真北の方角を向いて正座して、ただ待つのが慣わしだ。

 マツバ姫はその間、祭り殿の最奥の部屋で「合環ごうかん」の儀に臨んでいる。神官と巫女が祖先神に祈祷を捧げ、それから花嫁の耳朶に孔を穿ち、耳環を通すのである。

 姫はかつてアモイに、亡き母の形見だという銀の耳環を見せてくれたことがある。繊細な彫刻の施されてはいたものの、王妃の遺品にしては意外に質素なものだったことを覚えている。

 何とも居たたまれない心持ちで待っていると、ようやく背後の扉から、新婦の入室が告げられた。

 神官が大仰な節回しで、祝詞を唱える。その中を、微かな衣擦れの音が近づいてくる。列席者たちの身じろぎする気配も、背後から伝わってきた。 

 薄紅色の裳裾が視界の隅に映り、隣に人が座る。そのわずかな空気の流れを、左半身が感じ取った。しかし儀式は続いていて、顧みることはできない。神官が目の前で何事かめでたい詞を並べたてるのを聴き、イノウが右からやってきて神酒を注ぐのを、杯に受け止めなければならなかった。

 神酒を飲み干して漆塗りの杯を置くと、それは次に新婦の前へ運ばれる。今度はムカワが進み出て、酒器を傾けた。

 再び満たされた杯を、マツバ姫がゆっくりと口へ運ぶ。アモイはその様子を、横目に盗み見た。

 白粉をはたいた横顔と、まっすぐに肩へ流れる黒髪との間に揺れる、銀色の煌めき。そして、赤く腫れた耳朶。

「アモイどの」

 イノウに促されて、我に返る。気がつけば神官の祝詞は終わり、新郎の出番が訪れていた。

 アモイは大きく息を吸う。それから、ひと月余りを費やして暗記した長い長い誓言を、一音の誤りもなく唱え上げてみせた。

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