3-2
「アモイ、覚悟!」
人影は、背後から斬りかかる瞬間、確かにそう叫んだ。
敵の切っ先が、まっすぐに背中に向かってくるのを、身を横に引いてかわす。刺客は突風のようにその脇を行き過ぎたかと思うと、勢い余って盥を蹴った。
ひどく小柄な刺客だった。第一撃を仕損じても逃げる気はないらしく、即座に振り向いて刀を構え直す。そのときには、アモイもすでに剣柄を握っていた。
――が、彼はすぐに、握った右手を柄から離した。肩から力が抜け、安堵の息をつく。
「何だ、おまえか」
刺客に向かって、気安く呼びかける。
「不意討ちとは卑怯ではないか。そんなことは、誰にも教わっていないはずだろう?」
視線の先には、木刀を真っ赤な手に握りしめ、身じろぎもせずに立つユウがいた。アモイの呼びかけにも微笑みにも、応えない。負けん気の強い目が、いつもに増してきつくアモイを睨みつけている。
「どうした。決闘ならば次の機会にしてくれ、今は時間がないのだ」
「黙れ!」
怒鳴ったかと思うと、ユウは再び木刀を振りかざして飛びかかってきた。左耳の横を掠めた切っ先に、渾身の力がこめられていた。
普段と様子が違う。アモイは童女の丸い目の中に、火が燃えているのを見た。
ユウは歯を食いしばって一言も喋らず、ただひたすらに剣を繰り出してくる。笑って身をかわし続けるには、あまりにも執拗であった。
「どうしたと言うのだ、一体、何のいたずらだ」
少し声を荒らげて、アモイは問う。しかし相手は黙ったまま、どこまでも真剣な顔で食い下がってきた。もはや息も切れ、剣先もぶれ始めて、それでも攻勢をやめようとしない。
さすがのアモイも痺れを切らして、
「いい加減にしろ。言いたいことがあるなら口で言え!」
肩口に差し向けられた刀身を片手で捕まえて、強く引いた。
木刀は予想外に重かった。得物だけ取り上げるつもりが、持ち主ももろともに引っ張られてきたのだ。
ユウは、アモイの足元にのめって転げた。横っ面から砂利に落ちたのに、なおも手を離さないので、木刀から仰向けにぶら下がる格好になる。その体勢のまま、まだ真下から睨むような視線を射かけてきた。
いつも剣の据わりの悪いユウが、この執念はどうしたことか。
アモイは静かに木刀を下ろす。「すまん、大丈夫か」と、片膝をついて少女を助け起こした。意外にも、抵抗はしなかった。
「ユウ。一体、何があったというのだ」
改めて事情を尋ねてみると、ユウは急にまた目を剥いて、アモイの手を振り払った。擦りむいて血のにじんだ頬が、憤りに引きつっている。やがて、震えた声が絞り出された。
「あたしは認めない。あんたみたいなやつと」
声が出ると同時に、少女の丸い目から、一挙に涙が溢れ出した。
「あんたなんかがマツバさまと結婚するなんて、絶対に認めないからな!」
そう叫んで、両手で思い切りアモイの胸を突き放した。
さほど強い力というわけでもなかったが、虚を突かれた。アモイはわずかにのけぞり、左手を地面につけて身を支えた。揺れた視界の隅に、
裏庭には蝉の声だけが残る。蜻蛉が飛んできて、井戸の
アモイは土の上に座りこんで、少女の消えたほうをぼんやりと眺めていた。背後から歩み寄る足音に、今度は気づかなかった。
「あんなうら若き乙女を泣かせるとは、アモイも案外、隅に置けんな」
突然降ってきた若い男の声に、驚いて天を仰いだ。日に焼けた彫りの深い顔が、真上から見下ろしている。
「タカスか……」
真白の手拭いを頭に巻いた、アモイよりいくらか長身の男は、微笑みながら手を差し出す。演武場で稽古でもしていたのだろう、頬には汗のしずくが滴り、その白い歯と同じく照り輝いていた。
タカス・ルイの男ぶりは、
一方のタカスは、世慣れした男だ。未だ独身ではあったが、流す浮き名の数は西府の誰にも勝っている。
それはそれとして、武人としての彼は槍の名手でもあり、名誉ある騎馬隊長を任じられている。位は親衛隊長であるアモイのほうが上だが、年も近くまた十年来の友であるので、腹を割って話せる間柄だった。
だが、たとえ相手が親友でも──。
「いつからそこにいた?」
立ち上がったアモイは、何気ないふうを装って尋ねた。ユウが「あんたがマツバさまと結婚するなんて」と叫んだのを聞いたかどうかを知るためだが、尋ねるまでもなかったと、口に出してから思った。
タカスは微笑むばかりで答えない。徐に鉢の手拭いを外すと、首の周りの汗を無造作に払う。こうした所作も、アモイにはよくわからないが、女心を惹きつけるらしい。
「留守中に、何か変わったことは?」
質問を変えると、タカスは「いや」とまた微笑んで、
「だが、おまえがここにいるということは、そろそろ身支度をしなければならんな。アモイが帰ったらすぐに参集せよと、館さまからのお達しだ」
秀でた眉の下から、夏日のように強い眼差しが、アモイを射た。問いただしたいことがあるということを、その目ははっきりと訴えていた。
しかし、タカスの知りたいことは、まもなくマツバ姫の口から明かされるのだろう。ならば今ここで朋友に語るべき言葉はなく、タカスのほうでも、言葉に出しては何も聞かなかった。
その日のうちに、西陵の将官たちは召集された。広間にはムカワ・フモンを筆頭に文武の官が居並んで、マツバ姫が現れるのを待っていた。
西府の城に仕える将は、他のどこよりも少壮の者が多い。何しろまだ三十代のムカワが、筆頭を務めているほどだ。八年前に城主が代替わりして以来、一気に若返りが進んだこの城では、二十四のアモイも古参の重臣である。
下座の最前列、ムカワの隣に座を占めた彼は、広間を埋め尽くした若者たちの顔を振り返る。
誰も、自分に対して不審げな眼差しを向けてくる者はいない。そのことに安堵しつつ、同時に訝しく思う。マツバ姫との縁談の件は、どうやらまだ周知されてはいないようだ。
だとすればユウは、どこからその話を聞いてきたのだろう。国の大事を、姫が自分から小間使いの童女に漏らしたとも思えないが……。
考えているうちに、部屋の中が静まった。廊下から勇ましい足音が響き、戸が開かれると、いつものように真紅の衣を纏った城主・マツバ姫が立っていた。
姫は身のこなしも軽やかに上座へ進み、群臣に向き直って安座する。無論、簾など下げたりはしない。
「皆の者、大儀」
腹からそのまっすぐな背筋を駆け上ってくるような、低く澄んだ声で姫は言った。
「集まってもらったのはほかでもない。先般、都へ上った折に陛下に申し上げたことを、皆に知らせておきたいと思ったのだ」
座は静まり返って、主君の言葉に聞き入った。が、彼女の口から「結婚」という一言が発せられた途端、その静寂の質は一変した。一同、息すら止まってしまったように身じろぎもしない。
アモイは後ろにいるタカスの視線が、自分の背に向けられているさまを想像した。
「わたしが結婚できるなどとは思っていなかった……とでも言いたげな顔をしておるな、そなたたち」
場をなごますつもりなのか、姫は冗談めかして言った。普段ならばアモイが皆を代表して、そんなことはございませんと受け答えるところだが、今日は黙っているしかない。主君もそれをわかっていて、
「なあ、フモン?」
と、アモイの隣の男に話を振った。
するとムカワは背後に居並ぶ面々を軽く振り返り、「確かに、私を含め、
マツバ姫は頷いて、
「ゆえに、これから説明する。なぜ今このときに、わたしが婿を取らねばならぬのか、そのわけをな。だがその前に、新しくそなたたちの主となる者を紹介しよう。……アモイ、これへ」
その名を聞いて、低い唸りのようなざわめきが広間に渦巻いた。
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