第3章 花婿心得
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マツバ姫から遅れること数日、アモイは
もちろん、親衛隊長である自分が主君を一人で先に帰らせるなど、本意であるはずがなかった。しかし、姫からの命令である。彼は都や近郊に住む知己に、挨拶回りをしなければならなかったのだ。
というのも、アモイは都にいくらかの人脈を持っている。数は必ずしも多いとは言えないが、その顔ぶれは侮るべからざるものだった。
たとえば、彼は成人したときに、国老のイノウ・レキシュウからたいそうな祝い金を贈られている。イノウはすでに政治の第一線からは身を引いたとは言え、国の重鎮として一目置かれる大物である。アモイの母親がもともとイノウ家の遠縁にあたり、そのつながりで生前の父親も懇意にしていた。ありがたいことに、父が亡くなり母が故郷に戻り、アモイも都から離れてしまった今でも、年始の礼を交わすほどの付き合いは残っている。
イノウには、正式に婚約を発表する前に、あるいは噂話として伝わる前に、今回の縁組みについて経緯を説明しておいたほうがよいと、マツバ姫は判断した。本来ならば二人で打ち揃って訪ねるべきところだが、テイネの
「そなたはもはやテイネどのにとって公然たる政敵なのだ。わたしの身より、今からは己の身を案ずることだな」
別れ際、マツバ姫はそう言ったが、もちろんこれはできぬ相談であった。
イノウ翁の邸宅は都の中心部からは少し外れた、小さな丘の上にある。丘の上、というより、丘全体を覆うようにして建てられていると言ったほうが適切かもしれない。平屋で外観はさして
アモイが訪ねたとき、イノウは書斎の窓から外を見ていた。考えごとをしているようだったが、家中の者が来客を告げると、相好を崩して迎え入れてくれた。顔見知りとは言え相手は国家の重鎮、かなり身構えていたアモイだったが、
「立派になられたのう、若かりしころの父君を思い出すわい」
そう親しげに語りかけ、召使いたちに命じて酒食を用意してくれた。亡父の思い出話をし、郷里にいる母の容態についても尋ねられた。
だが、イノウとて、アモイがただの挨拶に立ち寄ったのだとは考えていなかったようだ。ひととおりの世間話をすると、イノウは酔いを醒まそうと、アモイを庭園に誘った。
なだらかに傾斜した黒土の庭園には、無数の白樺が植えられていた。月明かりを浴びて、その樹皮は青ざめて見えた。
「実は、マツバ姫さまと私めの縁談がまとまりました。陛下にもお許しをいただき、年内にも祝言を挙げる予定です」
イノウは驚かなかった。ただアモイの顔をしげしげと見て、しばらくの後にようやく「さようか」と言った。
「打ち揃ってご挨拶申し上げるべきところを、まことに勝手ながら叶わず、私一人でまかりこしました。いずれ日を改めて参上します」
「かまうまい。姫君はお忙しいおかたじゃからのう」
国老はそう言うと、何か思案するように黙りこむ。
「つきましてはご老公に一つ、お願い申し上げたき儀があるのですが」
「ほう。何かな」
「ご病床にあられる陛下の名代として、祝言にご臨席賜りたいのです。無論、陛下のご了承を得た上での話ではございますが」
もちろん、アモイや姫が望んでいるのは、ただ言葉どおりの代理人ではない。二人の婚儀にイノウが関わることこそが、是非とも重要なのだ。そうなれば、この国の誰も、テイネの御方も保守主義の重臣たちも、アモイが山峡国王の家系に名を連ねたことを認めざるを得なくなる。それだけの効果が、この宿老の言動にはある。
この依頼を受けるか否か、は、取りも直さず、どちら側に付くかの立場表明になる。イノウ自身も、当然ながらそのことを理解しているはずだ。
固唾を飲んで返答を待っていると、彼は不意にこんなことを尋ねてきた。
「
いきなり核心を突かれて、やや狼狽する。もちろんアモイはこの問いに、きっぱりと肯んじなければならない。が、心の内では、本当はマツバ姫に継いでもらいたい、自分はその準備が整うまでの時間稼ぎに過ぎないのだという想いが渦を巻く。その揺らぎを、イノウ翁は見逃さなかった。
「忠節を尽くす者と尽くされる者とは、異なる資質を求められるものじゃ。もし其許が我が国の主となるならば、姫君を主と仰ぐことはできぬ。あくまで姫君に忠ならんとするならば、人臣の上に立つことなど思わぬがよい。たとえ主命であろうとも、それに従って
霜のごとき口髭を撫でながら、老人は諭すように言った。アモイは黙って聴いていた。そして老人の深い洞察に感銘を受けつつ、同時に落胆も禁じえなかった。
もしもイノウが自分の考えに共感してくれたなら、いずれマツバ姫を王座に押し上げることが叶うのではないか。アモイは心中ひそかに期待していたのだ。
仮に一時的に世継ぎとして立つことになっても、ほとぼりが冷めたら姫こそが王位に就いて、この国を治めると約束してほしい──。求婚に際してそう願い出た彼に、姫は返事を留保した。今はまずシュトクとの、そしてテイネの御方との決着をつけることが先決、その後の話は時期尚早だと。だが姫の話しぶりを聞くかぎり、自身が王座を継ぐのはすっかりあきらめてしまっているように思えてならない。
姫は確かに姫である、しかしそれが何ほどのことか。他の女子ならともかく、ウリュウ・マツバがそのような理由で己の可能性を棄ててしまうのは、国にとっても大いなる損失ではないか。
だからイノウには、是非とも今のうちから理解を得ておきたかった。しかし国老は、どうやら自分の想いに頷いてくれそうにない。むしろ、アモイが姫婿として腹をくくり、臣であるという意識を捨てることを求めている。その覚悟があるならば、我が国のために協力しよう──イノウの説諭はそう示唆していた。
迷いはありませんと、アモイは答えた。月光の下で、深い褐色の瞳が若い客人を見据える。そこに何を読み取ったかは知れないが、老人はふと穏やかな笑みを漏らした。
「実を言うとな。その儀、陛下より直々にご下命があった」
「は……陛下から、でございますか」
「今朝がた、
「その場に、シバはいなかったのですか」
「おったとも。うろたえておったわ。急なこととて、小細工の弄しようもなかったのであろうの」
やはりイノウも、シバとテイネの御方の癒着には気づいているようだ。
「ともあれ、陛下の名代とは、この年寄りの生涯最後の大役となろう。名誉なことじゃ」
──どうやらアモイ自身の思惑はともかく、マツバ姫から下された命は無事に果たすことができたようだった。
さらにアモイにはもう一人、都を出る前に会っておきたい相手がいた。宮軍本営第二師団のムカワ・カウン将軍――西府の城で家臣筆頭を務めるムカワ・フモンの叔父である。
彼はかつてアモイと共に西陵城に仕え、まだ少女だったマツバ姫の補佐官と剣術指南役を務めていた。武骨で磊落な性格ゆえか姫とは馬が合うらしく、暇があれば二人で剣やら弓やら格闘術やらの稽古をしていたものだ。何度かアモイも交ざってみたが、都の名門道場で修行を積んだ彼でもついていくのが精いっぱいという、厳しい内容だった。もとから筋がよかったとは言え、姫があれほどの手練れに育ったのには、ムカワの功績が大きい。
そういう経緯もあって、彼は日ごろから、マツバ姫こそ王家の跡取りにふさわしいと公言してはばからない。病弱で癇癪持ちのシュトクと相性がよくないのはわかるが、都にありながらテイネの御方を堂々と敵に回す度胸は、さすがは歴史ある武門の生まれであった。
「まさか貴公が、姫の婿となるとはなあ。いや、めでたいことだ。これで姫が都に戻られ、王の跡目を継がれれば、この国も安泰というものだ」
ムカワ将軍は、うれしそうに杯の酒を飲み干した。年相応に広くなった額と高く張った頬が赤らんで、上機嫌の様子だ。昇進しても相変わらず直情径行、昔から遠回しを好まない気質である。
おかげでアモイも、気兼ねなく本音が言える。
「そのことなのですが、将軍。実はマツバさまは、どうも奥御殿に入られるおつもりのようで……」
「何? 奥に?」
「はい、つまり、私を婿養子として、世継ぎに立てようと。いえ、もちろん、私自身はそのような大それたことは考えもしませんが」
「いや……大それているとは言わぬが。一の若が王になるぐらいなら、貴公のほうがよほど適任だろう」
しかしなあ、と、ムカワは未練を口にする。
もっとも彼にしたところで、マツバ姫の判断が現実的なものであることを理解できないというわけではないだろう。女子が王座に就くという前例がない以上、重臣たちの同意は得がたい。テイネの御方が陰謀を巡らす中で、仮にも嫡男であるシュトクに対抗しようとするなら、少しでも人々を説得するに易き道を選択するのは当然だ。
「私も不本意ではありますが……。世の趨勢を思えば、確かにマツバさまのお考えのとおり、段取りを踏む必要があるかもしれないとは思います」
「まずは一の若を退け、御方さまの実権を削ぐのが先ということか」
ムカワ将軍はそう合点して、頷いた。しかしさすがに、テイネの御方が次男のハルを即位させたがっているということまでは想像していないようだ。
もしそれを知れば、間違いなく誰もが御方の正気を疑うだろう。しかしアモイはマツバ姫から、この事実を広めることを禁じられていた。どうやら姫は東原城主を政争に巻きこむことなく、シュトク対アモイの二者で後継争いの決着をつけたいと考えているらしかった。
数日前に対面した義弟の、邪気のない笑顔が思い出される。
「アモイどの、貴公は」
不意に将軍に名を呼ばれ、アモイは我に返った。
「確か、東方の生まれであったな。
「はい。つい先日、里帰りから戻ったばかりですが」
「ならば聞き及んでいよう、一の若君の噂を」
「噂?」
「四関は紫煙の城。民がそう噂しておる」
「ああ、それなら聞いています。かの若君は、長く煙草を嗜まれておいでのようですね。東原の城におわしたころから、執務室は竈のようだったとか。いや、噂ゆえ、大げさに言っているのでしょうが」
「そう大げさでもないようだぞ。煙幕の中では、昼夜分かたずいかがわしい宴が開かれておるとも聞く。表沙汰にならぬのは、御方の遣わした小利口な補佐官が
さすがに豪胆な将軍も、声を低めて苦々しげに言った。
「だがな、わしの見るところ、一の若君の狼藉ぶりは噂以上だ。いや、かれは狼藉者というより――病み人だ」
二人の大物とのやりとりを思い起こしながら、アモイは西府への帰途を急いだ。
しかし途中でふと思い立ち、わずかに回り道をして、数日前に通った
そんなこともあって、城に着いたころには午後も遅い時分になっていた。
馬を下りた瞬間、アモイは妙な違和感を覚えた。気のせいか、城内の空気がいつもと異なっている。演武場からは鍛錬をする男たちの声が聞こえ、虫の声はやかましく、しかしそれにも関わらず、静かだ、とアモイは思った。
城内の水仕事全般に使われる大井戸は、敷地の反対側にある。こちらの古井戸は庭師が水撒きに使う程度で、日ごろからあまり
桶と地面が湿っていて、誰かが使った形跡だけはある。
盥から手桶に溜め水をすくい、腕を濡らした。次に前かがみになって、頭に水をかぶった。ぬるんだ水が頭皮を伝い、短髪の先から地面に落ちた。
城が変わったのではない。変わったのは、それを見る自分の心のありようなのだろう。
だとすれば、この妙な気分は、ずっと続くのだろうか。自分がマツバ姫の
それとも、いつしかこの感覚にも慣れてしまうのだろうか……。
手ぬぐいを取り出すのも忘れ、アモイは長い間、前髪の先から垂れるしずくを目で追っていた。
背後の植木に潜む何者かの気配に気づいたのは、そんなときだった。ただの人気ではない、殺気だ、と思った。
――わたしの身より、己の身を案ずることだ。
マツバ姫の忠告が、耳に蘇る。
アモイは手桶を放り投げ、左手を帯剣に添えた。桶が盥に当たって、鈍い音を立てた。
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