2-4

 幼子の泣き声はやまなかった。

 少女はその声に背を向けると、足早に水際へ戻り、土の上にかがみこんだ。草の根の間にうずくまる小さな黒い塊を両手で包み、抱き上げる。

 尾の長い雉色の、一匹の仔猫……の、死骸。その毛皮はじっとりと水を含んで、少女の手にはずしりと重かった。

 踏み荒らされた岸辺、地面に飛び散った水の跡。自分が来る前にここで何が起こったのか、彼女にはわかっていた。そしてこの哀れな亡骸を見たら、背後にいる無垢な幼子が恐慌に陥るだろうということも。

 だから彼女はそれを自分の身で隠して、振り返らずに歩きだした。幼子はまだ殴られた衝撃の中にいて、追ってくる気配はない。泣き声は次第に遠のいていく。

 人気のない庭園を、早足で歩いた。花々の株をかき分け、庭木の枝をくぐっていく。

 これでいいと、彼女はつぶやいた。

 あの幼い少年がなぜ、腹違いの姉である自分のことを好きなのか、わからない。取り巻きたちがどんなに引き離そうとしても、会いに来るのだ。彼女のほうで気を遣って姿を隠しても、不思議と嗅ぎつけてやってくる。

 だが、その煩わしさも、これで終わりだ。顔を殴るなどとはかわいそうなことをしたが、痛い目を見た幼子は、これでもう自分のもとに通うことをやめるだろう。

 子どもの足に、御殿の庭園は広い。ようやく、泣き声がまったく聞こえないところまで行き着いて、彼女は立ち止まった。その場にひざまずき、猫を地面に下ろして、素手で土を掘り始めた。踏み固められていない花畑の土は柔らかかったが、時折指先が砂礫に当たり、爪が剥がれそうになる。袖をまくればよかったと思ったときにはすでに遅く、猫の毛皮から染みて濡れた腕に、土埃は遠慮なくこびりついた。

 ようやく穴が掘り上がり、その中に、仔猫のしかばねを横たえる。目と口を閉ざしてやると、まるで生前に受けた残酷な仕打ちを忘れたかのように、安らかな死に顔になった。

 彼女は腕で頬をこすった。頬にも、土の汚れが移った。

 弔いはこれが初めてではない。この庭園では以前から、小動物の死骸を見かけることがままあった。蛙や鼠のときは放っておいたが、御殿の鳥籠に飼われていた文鳥が籠ごと捨てられているのを見たときは、さすがに大人を呼んだ。水も餌もなく放置されていた文鳥はもう衰弱していて、しばらくして動かなくなった。年配の女官が庭の隅に穴を掘って埋めるのを、彼女はじっと見ていた。以来、死骸を見つけるたびに、彼女は独りで埋葬を行うようになった。

 そのたびに、まぶたに蘇る光景がある。遡ること数年前の、夏の宵だ。祭殿まつりどのの外廊下の途中に、彼女は立っていた。まだ四歳になったばかりの――そう、今、頬を腫らしているあの幼子と同じぐらいの年のころだった。

 庭に面した廊下は、薄暗かった。

 多くの羽虫が飛び交い、前髪のあたりをうようよと舞った。

 暗がりの中から、誰かが、自分を呼んだ。

 ぼんやりと、行灯の明かりに浮かび上がる人影は、こちらも小さい。廊下に尻をついて座っていたその子どもは、紺色の法衣を着ていた。自分と同じで、葬儀の席から抜けてきたのだろう。整った顔立ちをした少年だったが、その片頬は不自然に黒ずんでいた。

――かなしいのか。

 影は、そう、尋ねてきた。

――母さまが死んだのが、かなしいのか。

 彼女は何も答えなかった、と、思う。実を言うと、その後の記憶は鮮明ではない。

 目を固くつぶって、頭を振った。古い記憶を追い払い、墓穴を見下ろす。仔猫の毛皮は、すでに乾き始めている。汚れた手で、掘り出した土をかぶせてやった。

 思い起こせばあのとき、行灯の傍らから問いかけてきた子どもも、真っ黒に汚れた手をしていた。明かりに惹かれて集まってくる蛾や羽虫を、彼は指で潰して遊んでいたのだ。片頬の黒ずみは、何かの拍子に指先から移った、虫たちの体液であった……。

 手近な草花を手折って墓に供えてから、彼女は泉へ戻ってみた。泣きじゃくっていた幼子の姿は、もうそこにはなかった。誰か大人が探しに来て、御殿へ連れ帰ったのだろう。

 それでいい。あの稚児から、もう目を離さずにいてくれればいい。最初からそうしてくれていれば、あの無垢な笑顔に、拳を振るう必要などなかったのに。

 ふっくらとした色白の頬に、くっきりと赤く残った跡を、大人たちは何と見たことだろう。

 泉のほとりにしゃがんで、ぬるい水で手を洗った。爪の中に深く入りこんだ汚れを落としながら、水面に映る自分の顔を見た。頬にも土がついているのに気づいて、こちらも水で落とした。濡れた頬にそよ風が当たると、まるで泣いた後のようにひやりとした。

 鳶が鳴く。

 泉の面は青天を映していた。それを縁取るようにたわわに咲き乱れる、秋桜の花々も。

 こんなにも清らかな水に──。

 想像するまいとしても、目の前に浮かんでくる。もがく仔猫を水中に押さえつける、汚れた手。その黒ずんだ指に、虫を潰して遊んでいた子どものそれが重なる。

――かなしいのか。

 不意に、戦慄が走った。水面に、彼が映っている。仔猫のあがくのを見て笑っている、少年の顔。手に爪を立てられる、その痛みさえ愉しんでいるような。

 その面立ちは父親に似ており、母親にも似ている。だが、弟には似ていない。

 とっさに懐から短剣を抜き出し、鞘を払った。しかしよく見れば、映っているのは自分の顔だった。小顔にはやや均衡を欠く、切れ長の眼。死んだ母に似ているという、少女の顔。だが、父にも似ている。つまり、あの残虐な少年に、どこか似通っているところがある。

 あの無垢な幼子の笑顔とは、似ても似つかない。

 目を閉じて、深呼吸をする。当たり前のことだ。彼は、この王宮にいる誰にも似ていない。

 そろそろ御殿に戻らなければならない、と思った。身代わりに置いてきた従姉も、あまり遅くなっては不安がるだろう。その前に、泥汚れの言い訳を考えなければならないが。

 彼女は取り落とした藤蔓の鞘を拾おうと、腰をかがめた。と、視界の隅に、何か白いものがよぎった。

 水際に生えた草の根本に隠れて、白い秋桜の花が一輪、泉の縁に浮いていた。彼女が切り落とした、あの秋桜だ。まだ花弁は水を弾き、そのしずくが照り輝いていた。

 剣を鞘に収めて懐に戻した。それから、ゆっくりと水上に手を伸ばして、花を拾い上げた――。


 二十歳のマツバ姫は、重たげにまぶたを閉じてその光景を思い出す。蝉時雨の降る庭で、草の匂い立つ野原で、夕闇に包まれた空室の窓辺で、あるいは、帰っていく異母弟の馬車を見送りながら。

 そんなとき、アモイは何も問わない。だから彼女も、語らない。今まで誰にも、イセホにさえ話したことがなかった。そうしているうちに、本当にあったことなのかどうか、自分でも判然としなくなっている。

 しかし、少女だった自分と二人の異母弟の姿は、色褪せることなく脳裏によみがえる。仔猫の墓に人知れず捧げた秋桜の花の、ほのかな香りと共に。

 そして追憶の行き着く先には、いつも一つの後日譚があった。

 幼子は翌日も、彼女のもとへやってくる。頼りない足取りで、痣の残る頬に屈託のない笑みを浮かべて。彼女が西陵に赴任する日まで、同じようなやりとりは何度も繰り返されることになる。やがて少年は、ねえさま、と彼女を呼び始める。

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