2-3

 王宮からほど近くに、西陵せいりょう城主の別邸はある。マツバ姫が都に上った折に使う宿舎である。

 姫は領内を視察することが多い一方で、西陵を離れて都に来るのは少ないほうだ。公務で上洛しても長居することがなく、用が済めば一両日中には西府さいふに戻る。だから年に何日も利用する邸でもないのだが、手入れの行き届き具合は、都に建つ他のどの官邸にも引けは取らなかった。

 この別邸に東原とうげん城主ハルが訪ねてきたのは、王宮でテイネの御方おんかたと対面した翌日のことであった。早々に西府への帰り支度を進めていたマツバ姫は、義弟の来訪を告げられて、

「東の若君が、都に?」

 と、眉をひそめた。

「数日前より逗留されておいでのようです。陛下のお見舞いでございましょう」

 アモイが答えた。それが口実に過ぎないことは、承知の上である。実際は、母親を訪ねているに違いない。成人した男子が奥御殿に足を踏み入れるなど許されるはずもないのだが、もはや公然の秘密である。

 東の若君は西の姫とは対照的に、任地に独立するのを好まない。赴任してより一年近く経つが、おそらくその半分も、自らの城にいる日はないだろう。何かにつけて都に上り、長逗留する。どうせ城にいても政治は代理の者が執っているのだから、それで一向に差し支えはないのだった。

「お会いになりますか」

「会わぬわけにもいくまい」

「私も同席をいたしますか」

「そうだな。これより兄弟けいていとなるのだ。顔見せをしておくとするか」

 と言いながら、マツバ姫の口ぶりは、どことなく歯切れが悪い。継母を相手に口上を述べていた昨日の彼女とは、まるで違う様子だ。

「何かお気がかりでも?」

「いや」

 マツバ姫は頭を振ったが、決まりの悪そうな表情で付け加えた。

「ただ、何と説明すれば、この事態を呑みこんでくれようかと思ってな」

 無理もない。東原城主に状況を理解させるのは、誰にとっても難題であった。

 二人は連れ立って、応接の間へと向かった。と、中庭に面した廊下の途中で、マツバ姫が不意に足を止める。つられてアモイも立ち止まり、庭に目をやると、なぜかそこにくだんの客人の姿があった。うちばきのまま土の上に下りて、植えこみのそばにしゃがみこんでいる。わずかに吹きこむ秋風に草の穂がなびくのを見ながら、同調するかように体を揺らしていた。

 傍らには若い女官が一人、困ったような顔をして立ち尽くしていた。この客人を扱いかねているのだろう。主人がやってきたのを見ると、なおさら焦りを募らせて、どうかお戻りくださいまし、と懇願した。が、客人の耳に届いた様子はない。

 女官は申し訳なさそうに面を上げた。アモイは頷いてみせ、目顔で退くように促した。その後ろ姿が消えるのを待って、マツバ姫が廊下から声をかける。

「東の君」

 その声は、すぐに聞き取れたらしい。呼ばれた客人は勢いよく振り返った。

 今年で十六歳になる、この国の第二王子。その面差しは、父ウリュウ・タイセイ、母テイネ・チャチャのいずれにも、驚くほど似ていない。腫れたように大きく膨らんだ頬。栗色に近い髪の毛。鼻は丸く、口は下顎が少しずれた様子で、わずかに開いている。細い目の中で淡い色の瞳が一等星のように輝いて、異腹の姉を見上げている。

 その顔はまた、四関しのせきの長官を務める兄・シュトクと対照的であった。彼は母に似た輪郭と、父に似た目鼻立ちを備えた容貌をしている。まずは美丈夫と呼んで差し支えない部類であろう。中背で、どちらかと言うと痩身。生来血色の悪いのが玉に瑕とは言え、年を重ねればいずれ貫禄も付いてこようと期待しうる見目であった。

 が、今アモイの目の前にいる、この若者は――。

「ねえさま」

 甲高い声だった。声変わりを経ていない稚児ちごのような声。

 マツバ姫は苦笑して目を落とした。そして、ふと、客人の足元に目を留める。白い襪が、庭土にまみれて黒ずんでいた。

「アモイ。替えの襪を用意して差し上げよ」

 姫に命ぜられて、アモイは「御意」と答えた。それからもう一度、客人を見て、「東の君さま、少々お待ちのほどを」と、初めて直に話しかけた。

 未来の義弟は、素直にこっくりと頷く。幼児のように、あどけない仕草だった。

 襪を履き替え、応接の間へいざなわれた客人は、姉の後ろをうれしそうについていく。そのさらに後ろに、アモイが従った。

 マツバ姫の、筋の通った細い背中を追う、ふっくらとした丸い背中。王家の御紋入りの、肩の張った装束が、ひどく不釣り合いな背中であった。

 テイネの御方が、継娘のマツバ姫を敵国に差し出してまで王座に就けようと画策しているのは、シュトクでなくこのハルのほうなのだ――と聞いたときは、さすがのアモイも言葉を失ったものだ。

 いや、本来なら、驚くことではないのかもしれない。二人の息子を持つ御方が、長男以外に父の跡を継がせたい人物がいるとするなら、まずは次男を思い浮かべる、それは自然なことであろう。ましてや、彼女が昔から下の息子を溺愛していることは周知の事実である。

 が、このハルという人物について少しでも知る者は、彼を王位に就けようなどとは考えもしないはずだ。アモイはそう信じていた。

 しかしマツバ姫は、断言した。テイネの御方は、当面はシュトクに王位を継がせても、やがては実弟に禅譲させる算段なのだ、と。

――そうでなければ何ゆえ、ハルどのを東府とうふくんだりへ行かせたと言うのか。一の若を国境に追いやってまで?

 そのときマツバ姫は、苦みを帯びた笑みを浮かべながら言った。

 都に次ぐ人口集積地である東原の府は、昨年までは一の若君・シュトクのものだった。四関の長官を務めていた叔父が急死して、彼が後任に指名されるに及んで、ちょうど成人の儀を迎えた弟に城を譲ることになったのだ。

 美浜との国境を守る要地である四関の長官は、東原・西陵両城主と、地位としては同等である。軍権も強い。しかし、いかんせん辺境の地である。この人事は確かに、印象としては左遷と言えなくもない。

 数年間、東原城主としてさしたる落ち度もなく過ごしてきたシュトクが、なぜ急にこのような異動を命ぜられたのか。テイネの御方がシバを使って命じたに違いないと、マツバ姫は見ている。というのも山峡史上、王位継承者は大抵、東西いずれかの城主を経験しているのだ。だからハルにも、今のうちにその地位を与えておきたかったのだ、と。

「ということはもしや、あの時機に成人の儀を執り行ったのも……」

「無論、東府の城に入れるためだ」

「では、御方さまのはかりごとは、一年前から始まっていたということですか」

「いや。二年前だ」

「二年前?」

「そなたは知らぬであろうな。キサラどのの御子みこが流れたいきさつを」

 キサラというのが、シュトクの妻の名であることは知っている。テイネの御方が選び、息子に娶らせた貴族の娘だ。二年前、身ごもった子を流産したのがきっかけで口が利けなくなり、館の奥に引きこもるようになったと、風の噂に聞いている。

 この流産が、マツバ姫によれば、人為的なものであったというのだ。シュトクが国を継いだとして、子があっては、弟たるハルのもとに王座は巡ってこない。だからテイネの御方は、嫁の安産のためと称して医者を派遣し、ひそかに胎児を堕ろさせた。シュトクはつまり己が母親に、子を奪われ、妻の声を奪われ、城を奪われたというわけだ。

 今、テイネの御方は、ハルにふさわしい花嫁を探している。やがて王妃となるべき嫁を。

 だが、ハルは、誰もが内々に知っているとおり、十六歳の赤子である。東原城主の肩書きですら、彼にはその装束同様、身の丈に合わぬおくるみに過ぎないはずだ。王座や妃が、彼の掌に納まるものかどうか、テイネの御方にはわからぬとでもいうのだろうか。それほどまでに、母の子を思う心とは、盲目なものか。

 アモイは昨日、図らずも目撃した、御方の瓜実顔を思い起こす。あの若々しさ。圧倒的なまでの婀娜あだ。視線を合わせれば囚われてしまいそうなあの目には、次男のハルしか映っていないということか。

 なぜ?

 アモイには理解できない。同じ夫との間に二人の息子をもうけながら、なぜこれほどの差が、母の胸に生まれるというのか。

──テイネどのの気持ちも、わからぬではない。

 マツバ姫はあの日、窓の外を見ながら独り言のようにつぶやいたが、そのわけを語ろうとはしなかった。

 さて、西陵城主別邸の応接間に通されたハルは、用意された円座の上に足を崩して座っている。体格のせいか、胡坐をかくのが苦手のようだ。手で足首を押さえつけるようにして股を広げたさまは、不格好に丸々としている。

 マツバ姫の言いつけで、菓子と茶が運ばれてきた。糖蜜をかけた豆羹に、匙が添えられている。その匙から、真新しい襪の上に幾滴も蜜をこぼしながら、客人は豆羹を舐めた。アモイとマツバ姫は、黙ってその様子を見守った。

 ひととおり食べ終わったところで、姫は女官に命じ、手拭きを持ってこさせた。べたべたした掌を拭うことくらいは、自分でもできるらしい。

「東府でのお勤めには、慣れましたか?」

 弟が唇を拭き終わるのを待って、マツバ姫は問いかけた。

「おいしかった」

 と、ハルはにこにこして答えた。

「それはよろしゅうございましたな」

 姫は辛抱強く調子を合わせる。

「ところで、東の君」

「はい」

「今日は、いかなるご用でお立ち寄りくだされたか?」

「はい」

「わたしに、何か、話すことがおありなのでしょう?」

 もう一度、姫は、噛み砕くように尋ねた。ハルは、ようやく質問の意味を解したらしく、「さっき、かあさまのところにいったのです。そうしたら、ねえさまがきているといわれました」

「わたしが都にいると言われた? 母君が?」

「はい」

「母君が?」

「いいえ」

奥御殿おくの女官どもか」

「はい。それで、ねえさまにあえるとおもって」

「母君は、お止めにならなかったのですか」

「ねえさまにあえて、うれしい」

「わたしのもとに行ってはならぬと、昔から何度も言われているのでしょう。何ゆえ、母君のお言いつけを守らないのです」

「ごめんなさい」

「わたしに謝られるは筋違いだ。今度、また御殿へ上がった折にでも、母君に申し上げなされ」

「はい」

 そしてまた、にこにこと笑っている。

 マツバ姫は、アモイを少し振り返った。それから、徐に威儀を正して、改まった声でハルに向き直った。

「とは申せ、ちょうどよい折でありました。実は、東の君に、お話ししたいことがあるのです。……わたしは、もうすぐ、これなるアモイ・ライキどのの妻になります」

 反応がない。ただ、笑っている。そこでもう一度、姫は言い直した。

「ハルどの。ねえさまは、お嫁に行きます」

「およめさまですか」

「そうです。このかたが、わたしの婿になってくださる。御身おんみにとっては、兄君になるのです」

「にいさまですか。にいさまは、くにざかいにいらっしゃるのでしょう」

「それはシュトクにいさまのこと。もう一人、にいさまができるのです。ライキどの、ご挨拶を」

 話を振られたアモイは、ハルの前に進み出て、できるだけ平易に挨拶を述べた。義弟は、まだ、事態がはっきりとは呑みこめていないようだ。しかし、ともあれ、挨拶を返してきた。

 その挨拶とは――不意に、美しい硝子細工を見るときのような感覚が襲ってきた。ハルが返したものは、アモイの述べたような、うわべの社交辞令ではなかった。飾る言葉のない、ただ心からの親しみをこめた、微笑みだったのだ。

 アモイの心の奥にひそんでいた蔑みの感情が、その笑顔に溶かされるように萎んでいく。

 彼は、何も知らないのだ。

 母親の画策など、この青年には知りようもないこと。責任を問うべき相手ではない、そう、アモイは思った。そして微かながら、テイネの御方が彼を溺愛する理由がわかった気がした。

「ねえさまは、このひとと、けっこんするのですね」

 ハルがそう義姉に尋ねて、ようやく話が一歩、前に進んだ。

「そのとおりです」

「おめでとうございます」

「ねえさまの結婚を、喜んでくれますか。東の君」

「うん。でも、ねえさま」

「何です」

「わたしとは、いつけっこんしてくれますか」

 マツバ姫が、少しの間、口を閉ざした。吐息を一つして、ゆっくりと、「結婚は、できませぬ」と答えた。

「御身も、まもなく嫁の君をもらわれるのでしょう。母君が、よいお相手を探してくださいます」

「はい」

「きっと、素晴らしい姫君を娶られるのでしょう。そのかたを大切になされませ」

「はい。そうしたら、ねえさま。わたしが、およめさまをもらったら、みんなでなかよくくらしましょう」

 アモイは、その言葉に胸を衝かれた。

 再び、マツバ姫は黙りこんだ。目を逸らし、庭のほうへ顔を向ける。その横顔が、哀しげに曇っていた。

「わたしと、およめさまと、ねえさまと、にいさまと、かあさまと、とうさまと、わたしと。みんなで、いっしょに」

 透き通るような微笑みだけが残って、義弟との顔合わせは幕を閉じた。馬に乗れない客人は、馬車に揺られて東原城主別邸へと帰っていったのだった。

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