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藤色のゆったりとした装束に五色の肩掛けをまとい、女は王に寄り添うように姿勢を崩して、寝台の傍らに座っていた。
顔は扇の端からのぞくだけだが、肌の白さはイセホにも劣らない。長く重たげな黒髪は艶やかに、立ち居振る舞いもなまめかしく、王とはまったく異なる意味において、テイネの
対するマツバ姫は、まっすぐに背筋を伸ばし、病床からは少し退いて、綾目模様の走る敷物の上に正座していた。
「姫君には、しばしお目にかからぬ間に、ますます美しゅうなられて。亡くなった母君によく似通うておいでじゃ」
落ち着き払った声が、扇の向こうから親しげに話しかける。
「テイネどのこそお変わりなく」
マツバ姫も平然と応えた。
それは単なる社交辞令に過ぎないやりとりに聞こえた。しかし姫はその中に、アモイには読み取れぬ密かな棘を、確かに感じ取っているようだった。紅い衣に包まれた肢体から、緊張が伝わってくる。
御方のマツバ姫に対する悪意は、もとをただせば、姫の母、ユリへの悪意である。ユリは十六年前に亡くなっていて、アモイはその風貌を知らない。しかし聞くところでは、御方の言うとおり、姫は亡母によく似ているらしい。
そもそも、テイネ・チャチャが今の地位を手に入れたのは、ユリがマツバ姫を身ごもったことに端を発している。正妃ユリがひどい
正妃ユリの産んだ子は女であった。遅れること数か月、テイネ・チャチャは男子を産み落とした。彼女は有頂天になった。病弱な正妃はもう子を産めそうになく、とすれば我が子シュトクこそ
ところが彼女の目算とは裏腹に、王はあくまで正妃のもとに通った。出産直後こそねぎらいの言葉をかけることもあったが、次第に足は遠のいて、日に日に衰弱していく正妃ばかりを気にかけているようであった。
無論、指をくわえて見ている彼女ではない。シバ・マンジや御殿の女官たちを抱きこみ、王が自分のもとに通うように仕向けて、結果、二人目の子をも身ごもることになった。いよいよ、彼女の地位は磐石となるかに思えた。
それもまた誤算であった。二人目の出産とほぼ時を同じくして、正妃ユリが病死したのだ。悲しみに暮れた王は、テイネ・チャチャにも、産まれたばかりの次男にも、まったく目をくれなかった。そのときの彼女の落胆と悲憤は、目を覆うほどの取り乱しようだったらしい。
その後ようやく、テイネの御方は望みどおり、正妃に格上げされた。だが、前妻を失った王が心の慰めにしたのは、彼女ではなかった。また彼女の産んだ二人の息子の、いずれでもなかった。前妻の忘れ形見であるマツバ姫の成長のする姿こそが、唯一の光であった。そのことが、自尊心の高い御方にとって、どれほどの屈辱であったろう。
マツバ姫の婿などに、王座を渡してなるものか──。穏やかな声音の奥に、継母の敵愾心は燃え立っているに違いないのだった。
「その
テイネの御方はそこで言葉を切り、初めて扇の陰から、マツバ姫の後ろに控えるアモイの顔に目を留める。糸のように細い金属を束ねた、重たげな耳環が、しゃらりと音を立てた。
同席を許されて再入室してからしばらく、アモイは一切の言葉も視線も受けることがなかった。そうである以上、下座から声をかけるわけにもいかず、先方をあからさまに観察もできず、アモイはただ座してうつむき、女同士のやりとりを密かに盗み見ることしかできずにいた。
だがさすがの御方も、いつまでも彼を無視し続けるつもりはないようだ。アモイはその気配を察して、わずかに身を強ばらせる。
「――そなたさまがご郎党のうちより婿を取るのを、お許しになるとは信じがたきことじゃ」
「陛下は有り難くも、わたくしの心とアモイどのの誠意を汲んでくださりました。テイネどのにもご理解いただけるならば、幸いに存じまする」
マツバ姫は毅然として言い返す。
「……もしもお疑いならば、いま一度ここで、陛下にお確かめ申し上げてもよろしいが? テイネどのに証人となっていただけるなら、わたくしどもも心強いかぎり。なあ、アモイどの?」
「はっ」
アモイは久しぶりに声を出し、その勢いでテイネの御方を仰ぎ見た。一瞬のことではあったが、扇の端に細い目尻がのぞき、その脇に幾筋かの小さな皺が寄っているのを、彼は視界に捉えた。
挑発的なマツバ姫の物言いを、御方は何と思ったのだろう。少しの間、沈黙があった。病室には蜜のような甘い香りが漂い、アモイの鼻腔をくすぐる。
「姫君には、いつごろから、婿を取らんとお思いになられた?」
テイネの御方は、不意に話の向きを変えた。
「さて、いつと聞かれましても、わたくしがアモイどのをお慕い申すようになってから随分になりますゆえ」
「陛下には以前より、そなたさまにこそは、四海に又となき立派な殿方を
「わたくしのごときじゃじゃ馬の大女、妻にせんと思うような物好きな殿方など、陛下にもお心当たりがおありでなかったのございましょう」
マツバ姫は鷹揚に微笑んでみせる。
「されど陛下は、八年前すでに、その物好きな殿方をわたくしにお引き合わせくださっておりました。つまりこのご縁は、ほかならぬ陛下が取り結ばれたもの。ゆえにこそ、何の
王は聞こえているのかいないのか、何も言わない。
どうやら自らの分が悪いと見たらしく、テイネの御方はいくらか声音を和らげて、
「そなたさまは、ひとたび決めたことは雷に撃たれても曲げぬご気性じゃ」
溜め息交じりに言った。アモイと姫の釣り合いについて、これ以上追及することはあきらめたようだ。
「おおかた陛下も根負けなされたのであろう。さらば、わらわはただ、姫君のご縁をお祝い申すばかりじゃ」
「恐れ入ります」
「亡くなった母君もさぞお喜びであろう。祝言はいつ執り行うおつもりかえ」
「年の内には準備も調いましょう。それはともかく、テイネどのにはわたしから一つ、お礼を申し上げねばなりませぬ」
「礼……?」
「わたしをご心配くださったことへの礼です」
マツバ姫は、まっすぐに伸ばした背筋を丁寧に折った。手をついて頭を低くしながら、殊更にはっきりとした口調で、
「血もつながらぬ娘に過分なるお心遣い、まことの母にも劣らぬご厚情には、感謝の言葉もありませぬ」
王にマツバ姫と美浜国の太子との縁談を持ちかけたことを言っているのだと、テイネの御方は察したらしい。すでに知られているとは思わなかったのか、しばし口をつぐんで、継娘の顔を見返していた。
すると姫はゆっくりと体を起こし、顔を上げた。
「陛下より、お聞き申しました。わたくしに、どなたかをご紹介くだされようとしておいでだったとか」
「陛下が……?」
いつしか眠ってしまったらしい病床の夫へ、御方は目を向けた。
「陛下より、お聞きあそばされたのかえ」
「確かに、そううかがいました」
「ならば、お忘れになるがよい。今となっては要らぬ節介じゃ」
「さようなことは思いませぬ。テイネどののお気持ちは、心よりありがたく存じます。ただ一つ気になるのは、一体どなたを、わたくしの夫にお選びくださったのかということです。よろしければお教え願えませぬか」
無論、アモイも姫も、その答えを知っている。知っていることを警告するために、わざと尋ねているのである。
「今はもはや、余計なことはお耳に入れるまい」
テイネの御方の声色は、相変わらず落ち着き払っているように聞こえた。
「しかし、よもやテイネどの、先方へ打診もなさらずに陛下のお耳に入れたのではございますまい。とすれば、こちらから事情をご説明申し上げねば、テイネどののお顔をつぶしてしまうことになりましょう。そうなっては、わたくしの立つ瀬がありませぬ」
「ご心配はご無用じゃ。わらわの一存で計らったこと、そなたさまは何も気になさることはない」
扇の端から下がって揺れる宝飾が、わずかな光を照り返して瞬いていた。要を握る手の甲には、細い血管が透けて見える。
正妃として二人の王子を持ち、奥御殿で気ままに暮らしながら、なぜ満ち足りることができないのだろう。扇越しの眼差しにこめられたものは、継娘への憎しみだけではなかった。死を間近に控えた夫に対してすら、言葉とは裏腹に、冷たい蔑みが向けられていた。その敵意を、今度は、アモイも浴びることになるのだ。
ここにきてようやく、マツバ姫だけに見えていた棘が、わずかながら肌に感じられるようになってきた。
「では、無理にとは申しますまい。そちらのことは、テイネどのにお任せいたします」
姫がゆっくりと間を持たせて、そう言った。それからアモイを振り返り、
「陛下はお休みになられた。そろそろおいとまをいたしましょう」
「はっ」
御方が現れてから、声を発するのはこれでようやく二度目だ。アモイは拳を敷物に押し当てて立ち上がった。
姫と共にテイネの御方に黙礼し、戸口へと踵を返した。そのときだった。
「アモイどのと、申したかえ」
テイネの御方から、初めて、声をかけられた。足を止め、床を振り返る。
そこには色白の瓜実顔があった。美しい額に、薄墨を引いた眉。金粉を刷いたまぶたが瞬くと、目元にあの小皺が浮かぶのだが、それさえもなぜか艶っぽく見えた。絡め取るような眼差し。ゆったりと波打つ黒髪に包まれた肩。
何を思ったか、テイネの御方は扇を閉じて膝に置き、アモイの前に容貌を晒していたのである。その濃艶な姿に圧倒され、アモイは無作法と知りながら、しばし突っ立ったまま御方の顔を凝視した。
「婿に入るということは、わらわの息子になるも同然じゃ。よろしゅう頼むぞえ」
紅色の鮮やかな口元には、優美な笑みさえ浮かんでいた。アモイはすぐに膝をついて顔を伏せ、差し障りのない感謝の言葉を述べた。平常心を装ったつもりだったが、声がかすれた。
その背後で、マツバ姫が思い出したように、
「そう言えば、テイネどの。東原城主のハルどのにも、花嫁を探しておられるとか」
継母は、笑顔のまま頷いた。
「よいお相手が見つかることをお祈りいたします」
マツバ姫はそれだけ言うと、身を翻して戸口へ歩きだした。
アモイも素早く身を起こして姫の後を追った。背中にまとわりつく視線を感じたが、決して後ろを振り返らなかった。
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