1-5

 その言葉を聞いたとき、アモイは第一に自分の耳を疑った。

「……今、何と?」

 気の抜けた声で聞き返したアモイに、マツバ姫は再び同じ言葉を繰り返した。それでわかったのは、どうやら聞き違いではないらしいということだけだった。

「夫になってほしい、……というのは、つまり」

 しばらくの沈黙の後、アモイはようやく途切れがちに言葉を継いだ。

「結婚する、という……」

「他にどうして夫となるつもりか?」

「私と……マツバさまが、でございますか」

「そうだ」

 マツバ姫は事もなげに頷いてみせた。

 主君がいきなり予測もつかないことを言い出すのは、今に始まったことではない。にしても、あまりに衝撃的な言葉であった。わたしの夫になってほしい――到底信じられるものではない。それでも努めて平静であろうとして、咳払いを一つすると、アモイはマツバ姫の顔を真正面から見改めた。

 冗談を言っている顔ではない。

「それは、一体、どのような意味でおっしゃっているのでございますか」

「どのような意味とな。わたしと結婚して夫婦めおとになってくれというのに、何がわからぬと申すのか?」

「文字どおりの意味ではございますまい」

「と言うと?」

「つまり、マツバさまがよもや私ごとき――」

 その先を何と続けてよいか迷って、アモイは口ごもった。

 一方のマツバ姫は、普段の彼らしくもないそのうろたえようを、不思議がっている様子だった。が、ふと思いついたように身を乗り出して、

「アモイ。そなた、もしや、すでに将来を誓い合った女子おなごでもあるのか?」

「はあ……」

 何を訊かれているかも判然とせず、つい曖昧な返事が口を滑り出た。途端に、姫の表情が一変する。驚きと好奇心の入り混じった感情が相手の瞳に閃いたとき、アモイはようやく自分が誤解を招いたことに気づいた。

「あっ、いえ……」

「何と、そうか。そなたもついに嫁を迎えるか。いや、許せアモイ、そなたには色恋など無縁と決めつけてしまった、これはわたしの落ち度であったわ」

 アモイ自身は認めたつもりもないが、周りに女嫌いだと思われているのは知っている。しかし朋友のタカス・ルイが数々の浮き名を流しているのと比べるからそう見えるのであって、決して朴念仁というわけではないのだ。ただ少しばかり奥手なだけで──いや、今、弁明すべきはそこではない。

「そうよな、二十四ともなっていつまでも独り身では、病床の母御も心配しようからなあ。しかしそなたと縁談だの嫁取りだのという言葉は、どうにもわたしの中では結びつかなんだわ」

 自分のことを棚に上げて、マツバ姫はうれしそうに独り合点している。

「申し訳ありませんがマツバさま、実はその……」

「ああ、気にするな。先ほどの話は忘れてかまわぬ。それよりも、相手は何処いずこの娘だ。郷里の者か? わたしとてそなたの主人、紹介くらいはあってもよさそうなものではないか」

「……」

 アモイは殊更にゆっくりと息を吐き、吸った。

「マツバさま、お聞きください」

「うむ」

「私は、誤解を招いてしまったようです」

「誤解?」

「私には、今のところ、お考えになっているような者はおりません」

「まことにか」

「はい、残念ながら」

 姫の視線が、アモイの顔をまっすぐに見つめていた。そして、そこに偽りのないことを見て取ると、彼女は残念そうに苦笑して、膝を打った。

 その様子を見て、少しばかり安心した。マツバ姫は彼に許婚いいなずけがいると誤解しても、嫉妬や悲しみの感情を表すどころか、かえってうれしそうに笑っていた。やはり、主人と自分の間に、男女の情けなどはあるはずもない。そこには、より確固として動かしがたい絆がある。そのことを、改めて確認できたように思った。

 しかし、だとしたらなおさら、彼女からの突然の求婚にいかなる意図があるのか、なぜそれをなかなか明かそうとしないのか、合点がいかない。

 マツバ姫はそんなアモイの思いをよそに、ひとしきり残念がった末、気を取り直して話を本筋に戻した。

「しかし、そういうことであれば、そなたを婿に取られて泣く娘はおらぬということになろうな?」

「それはそのとおりです」

 今度はアモイもうろたえることなく、冷静な答えを返した。

「しかし、我が家にはすでに父もなく、私は跡取り息子でございます。その私が家督を捨てて婿入りするとなれば、それなりのわけがなければなりません」

「ふむ。もっともなことだな」

「一体いかなるわけで、私を婿に取られようなどとおっしゃるのでございますか」

「わけか……」

 マツバ姫は、視線を落として口を閉ざした。西側の窓から差しこむ陽射しが、その横顔を茜色に染め上げる。

 いつの間にか日暮れになっていたようだ。窓にはめられた格子の間から、微風が漂ってくる。

 マツバ姫が静かに立ち上がった。風の流れをたどるように、格子窓へと歩み寄る。その下には、先ほどまで彼女がユウと手合わせをしていた松の庭がある。今は人も絶えたであろうその庭を見下ろしながら、しばし姫は無言であった。

 西日の中に立つ姫のその姿が、アモイからは、まるで炎のように見えた。

 マツバ姫は平素から濃い赤色を好んだ。紅衣に紅の袴、腰当てや帯・帯留めに至るまで真紅、そして今彼女の半身を染めている夕日の色。身じろぎもせず、背筋を伸ばして立っている長身の影は、まさしく炎をまとっているかのようだ。

 突然、アモイの脳裏に、一つの光景が思い出された。窓から差しこむ光。その中に立つ女の、姿勢のよい後ろ姿。

 それはやはりマツバ姫の姿だった。今と同じく長い黒髪が風に揺れて、しかし、あれは春風だった。身体のほうは今ほど長身ではなく、骨格にも肉付きにも幼さを多分に残していた。

 八年前の春、急死した前城主に代わって、弱冠十二歳の王女がこの城に赴任した当日の記憶だ。

 護衛を任じられたアモイは、駕籠かごに乗った王女に付き従って、都から西府さいふまでの道程を旅した。それは十六歳の若者にとって、破格の名誉ではあった。が、成人して初めて国王にまみえ、ようやく与えられた任務が女子の付き添いであったことは、血気盛んな当時の彼には不満でしかなかった。都でもっと重要な役に就きたい、そうでなければ、せめて国境の砦へ行って国と故郷を守りたい。城に着いて控えの間で休んでいる間も、そんなことを思っていた。

 すると姫から、労をねぎらうために茶を賜る、との召し出しがあった。本心を腹にしまいこみ、形ばかりの感謝を申し述べるつもりで、彼は主君のもとへ出頭した。

 このときに初めて目にしたマツバ姫の姿が、それであった。

 窓の外に顔を向けて、振り向こうともしない。一本筋の通った、美しい立ち姿。まどろむような春日の中で、彼女の周りだけ、空気が冴えていた。背中は鮮やかな紅色の上衣に覆われ、腰には剣を帯びていた。片手に茶碗を持っているのが見え、同じものが侍女の捧げ持つ盆の上にもあって、こちらはアモイのために用意されたものであった。

 アモイは、姫の後ろ姿に、何と声をかけたのだったろう。参上を報告し、心遣いに対して礼を述べたのは間違いないが、はっきりとは覚えていない。だが、それに答える代わりに主人が放った言葉は、今でも鮮明に耳に残っている。

──あの鷹は牡であろうか、それとも牝であろうか?

 以来、幾度となく耳にすることとなる問いを発して、ようやく姫はアモイを振り返った。それが彼女の顔を直に見た最初であり、声を聞いた最初でもある。

「そなたは」――八年前のマツバ姫の声と、現在のそれとが重なった。「どう思う?」

 気がつけば、二十歳の彼女もまた、夕暮れの窓辺から振り返って、その鋭利な眼差しでアモイを見つめていた。

「は。……どう思う、とは?」

「そなたの目から見て、いかなる殿方ならばわたしの夫にふさわしいと思う?」

「マツバさまに見合う――となれば、まず高貴であって国王陛下の覚えもめでたく、文武に秀で、なおかつ聡明にして清廉、仁にして義理堅く、礼を知り、忠孝を重んじ、そして何より、マツバさまのお心に、真に理解あるお相手でなければなりますまい」

「なるほど。して、そのお相手とは誰か? 名を挙げてみるとすれば?」

「名前は、今のところ思い当たりませんが」

「思い当たらぬと申すか。八年もの間、そば近くにありながら、わたしに見合う男の一人も見つけられぬか」

「面目ありません」

「まったく不面目なことよな、アモイ。あのおかたに先を越されてしまうとは」

「あのおかた、と仰せられますと」

「テイネの御方おんかただ」

「テイネの……」

 と言えば、マツバ姫の母が十数年前に病死した後、国王ウリュウ・タイセイの正妻となったテイネ・チャチャ。つまり姫の継母である。

「慈悲深き我が義母はは君は、ご親切にもわたしの嫁ぎ先を世話してくださったのだ」

「嫁ぎ先ですと?」

「相手は誰だと思う」

 主人に縁談が持ち上がったと聞いただけで頭に血の昇るアモイが、その問いに答えられるはずもない。もちろん、いずれはマツバ姫もよい夫を迎え、幸せになってもらいたいと考えてはいる。その一方で、心の奥では、彼女の夫たるにふさわしいほどの器量人がこの国に存在するなどとは思ってもみないのだった。

「この国の者ではないのだ」

 彼の疑念を感じ取ったかのように、マツバ姫は補足した。

「文をとって俊才、武をとって勇壮、為人ひととなりは高潔と、若くして名声は諸国に鳴り響き、しかもいずれ一国の主となることを約束された貴紳。――とあらば、そなたといえども文句のつけようもあるまい?」

「……まさか」

「公子クドオ。美浜国みはまのくにの若殿だ」

 マツバ姫はきっぱりとそう言った。いつしか西日は衰え、うら寂しい空室はますます薄暗く、姫の表情は不明瞭であった。

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