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 他国の者は時折、山峡国やまかいのくにのことを「鍋底」と呼ぶことがある。無論、蔑称である。

 しかし、切り立った山々に縁取られ、ややいびつながら円形を描く国土を、天に蓋された鍋と見るのは、客観的に見てもなかなかの譬えと言えよう。

 とするならば、それは注ぎ口のついた鍋である。国境を縁取る山並みには一箇所、途切れている部分があるのだ。北西の山腹から盆地を横切って流れる大風水おおかざみが、海を目指して流れ出る東南の一角、そこだけは、特別に険しい峰もなく、山裾の隆起と渓谷とがあるに過ぎない。

 要するにこの盆地が唯一、外界に開かれた方角が東南であり、その東南の国境を越えた先に広がっているのが、美浜国みはまのくになのである。従って山峡国にとって、美浜との外交は非常に微妙かつ重要な問題となるわけだが、実のところ、両国の関係は良好とは言えなかった。

 いさかいがいつの時代に端を発したものなのか、正確なところはわからない。山峡国に伝わる話によれば、かつて東南の海岸地域に住んでいた祖先は、後からやってきた美浜の者たちに土地を奪われたのだという。追いたてられた先住者たちはこの盆地の中に身を寄せ合い、小国を作った。そして、住みよい海辺の一帯に大国を築いた土地盗人たちへの憎しみを子々孫々に受け継いで、今に至るのだと。

 もっとも相手側の伝承にも耳を貸すならば、話はまるで違ってくる。曰く、盆地の内もその外側の臨海地域も、もともとは美浜のものであって、鍋底に立てこもって離反した一派が後々、山峡国を名乗ったのだ。つまり両国の争いとは元来、一大国における内乱に過ぎなかったのであり、いずれ鍋底の山猿たちが無駄な抵抗をやめれば、すべてはもとの鞘に納まるであろう……。

 しかし今を生きる者にとっては、いずれが真相であっても、あるいはいずれも作り話であったとしても、大した問題ではない。

 事実だけに目を向ければ、山峡国は天然の要害に守られた一国である。美浜国は海岸の豊かな平地を支配する、そして北西の山地に載った小国を蝿のようにうるさがっている、こちらも一国である。時には剣戟を交わし、また時には平和裏に互いを牽制し合いながら、何代にもわたって共存してきた。その間、国境線が変わることもなかったが、真に友好が結ばれることも、ついぞなかったのだ。

 現在の両国の関係は、形ばかりの講和を結んで小康状態を保っているが、それが長続きするなどとは子どもさえ思っていない。

 東南の国境付近の守りは、だから、山峡国にとっては特に重要な役目と言える。四関しのせきと呼ばれる塞城で、その任務を負っているのはウリュウ・シュトク。現国王の嫡男にして歳はマツバ姫と同年の、この長男を産んだのが、テイネの御方おんかただ。

 ちなみに彼女にはもう一人、ハルという名の次男もいるが、こちらは今春に成人の儀を挙げたばかりの十六歳で、国の東部から北部にかけて広がる低地・東原とうげんの城主となっている。東原の府は、西府さいふよりも先に栄えた国内第二の都市だが、近年はその繁栄にもいささかの陰りが見え始めている。

 二人の王子は、人物として評価するなら、マツバ姫よりはるかに劣っている。だが母親のほうは、なかなか一筋縄ではいかない女性にょしょうであるらしい。王妃という立場を利用して、王宮の中に人脈を作り、息子たちの有利になるよう暗躍している。母心としては理解できないことでもないが、それが主人の不利に働くとすれば、アモイも黙っていられない。

「イセホ」

 マツバ姫が木戸を開き、階下へ向かって呼びかけた。まもなく、澄んだ声で返事があった。

「灯りを持ってきてくれぬか」

 それからしばらくして、イセホがしずしずと燭台を捧げて上がってきた。座の傍らに蝋燭が置かれ、代わりに空の茶碗を持って侍女が退くまでの間、マツバ姫もアモイも、無言のまま向かい合って座っていた。

 姫の左顔が、炎に照らされて赤く揺らめいている。

 木戸が再び閉ざされ、イセホの足音が遠ざかった。先に口を開いたのは、アモイのほうだ。

「テイネの御方が、マツバさまを美浜国のクドオ家へ輿入れさせるよう、陛下に進言なされたとおっしゃるのですか?」

「そうらしい。三日前、王宮みやへお見舞いに上がられた折にな」

「しかし、まさか陛下が聞き入れなさるなどということはありますまい。愛娘を自ら人質に差し出すような、無慈悲なことをなさるはずは」

「そう思うか」

「違うのですか?」

「我らには悪い冗談にしか思えぬ話も、宮内にあっては、そうではないらしい」

「何ゆえでございます。この縁談を機に、かの国と盟約を交わそうなどと、まさか本気でお考えでもないのでしょう」

 答える代わりに、マツバ姫はただ皮肉な笑みを返してみせた。アモイは愕然として息を飲む。

「馬鹿な!」

「陛下もそう仰せられたかもしれぬ。病を召される前であったならば、あるいは、な」

 マツバ姫は、父上という呼称を好まない。代わりに、家臣たちと同様、父王を陛下と呼んでいた。

「だが、陛下はもう永くはおられぬ。ご自身でもうすうす感づいておられるはず、焦ろうとも無理はあるまい。そこへ来て、英明の誉れ高い美浜の若殿との縁組だ。心惑っても不思議はない」

「とは言え、積年の敵対国に……。私にはとても、考えられません」

「一の若君が国境の守りに就いたのを利用して、テイネどのがたびたび美浜と密書を通じているのは知っていた。しかし、まさかこのわたしをかの国へ売り払うための交渉であったとはなあ」

 マツバ姫は、まるで他人事のように笑ってみせる。

「では……かの国へも、すでに御方さまから話が通っているということでしょうか」

「当然、そうなろうな。陛下に進言なさったからには」

「では、あとは、陛下のお心一つで決まってしまうと……」

「陛下のご意思など、この期に及んでは問題ではない。テイネどのがすべての手はずを調えたなら、わたしはどうあってもかの国へ嫁がねばならぬわ。陛下への進言など、その手はずのうちの一つに過ぎぬのだからな」

 自分の父親が病のために気弱になっていることを、またそうでなくてさえ、二人の男子を産んだ後妻に頭の上がらないことを、マツバ姫ははっきりと認識している。

 それはテイネの御方も同じだろう。二十歳の愛娘の行く末も見ずに死にゆこうとする夫の耳に、どんな言葉が甘く響くか。それを知り尽くした上で、継娘ままこを他国に追い出すための企みを、今まさに推し進めているのだ。

 ただし、マツバ姫自身が断固として拒絶したなら、おそらく父王は縁談を強要しない。だから密かに外堀を埋めて、姫が拒むことのできない状況を先に作り出そうとしている。

 アモイの腹の底で、怒りが煮え立つ。

 マツバ姫は山峡の宝である。女の身に生まれはしたが、テイネの御方の産んだ一の若君・シュトクなどよりも、王にふさわしい人物であるのは間違いない。西陵せいりょうに住む民ならば皆、賛同するところだろう。

 その不満を口に出さずにいるのは、ひとえに姫の立場を思いやればこそだ。誰よりも国を想っているマツバ姫は、自らを跡目争いの種とすることを望まない。若い娘が王位に就くなど、この国では前代未聞だ。だから彼女は、西陵という任地の外ではあくまで控えめに振る舞ってきたし、アモイを始めとする部下たちも、あえて焚きつけるようなことは言わなかった。

 この西府の城でのびのびと馬を駆り、剣を振るうマツバ姫の姿を見れば、惜しいと思う心も少しは慰められようというものだ。王とはならずとも、一城主のままでも、人々に一目置かれた存在としての姫に仕えていけるならば、そう悪いことではない。

 そんなささやかな居場所さえも、テイネの御方は、継娘に与えたくないのか。

 とすれば、アモイも手段を選ぶつもりはない。敵国の太子にマツバ姫を売り渡すくらいならば、身一つで美浜の大軍に斬りこむことすら厭わない。まして破談のために姫と結婚するくらい、造作もないことだ。八年前から今に至るまで、この年下の女主人を守るのは、いつでも彼の役目だったのだから。

 ただ――アモイには一つ、どうにも解せないことがあった。

「御方さまが、マツバさまを目の敵にしておられるのはよく存じております。しかし、なぜそこまでする必要があるのでしょう。四関におられる若君が国を継がれるのは、もはや決まっているも同然ではありませんか」

 そう問うと、マツバ姫は深い頷きを返しながら、憂いを口元ににじませた。

「何か他に、理由でもあるのでしょうか」

 アモイは問いを重ねた。

「そなたの申すとおりだ。ただ一の若君に継がせたいのならば、あえて隣国の太子まで持ち出すことはあるまいよ。だが、もしも、テイネどのが真に国を継がせたがっているのが、シュトクでなかったら」

「えっ?」

「やはりわたしは邪魔者になるのではないか?」

 あまりに意外な言葉に、アモイはしばし口をつぐんだ。テイネの御方が継娘のマツバ姫を憎むのは、姫と同年の息子・シュトクを思ってのことと、今まで信じて疑わなかった。しかし、そうではないと、姫は考えているらしい。テイネの御方は、別の人物を王位に就けたがっていると。

 幾分身を乗り出したアモイの肩を軽くたたいて、マツバ姫は立ち上がった。アモイはその姿を追って、半ば腰を浮かせ、尋ねた。

「御方さまが、一の若君以外の誰に、我が国を継がせたがっているとおっしゃるのです?」

 マツバ姫は、再び格子窓の前に立った。すでに日の光はなく、灯火の届かぬ姫の後ろ姿はあくまで黒い。

 虫の声が、部屋の中に満ちていった。

 何か遠い日の出来事を、姫は思い出しているようだった。アモイはこれまでにもたびたび、主人のそうした姿を目にしたことがある。蝉時雨の降る庭で、草の匂い立つ野原で、穏やかな陽射しを照り返す泉のほとりで、あるいは、ユウが木刀を手に一人で稽古をしているのを眺めながら。

 我に返れば、マツバ姫はいつも、何事もなかったかのごとく話を続ける。だからこのときも、アモイははやる気持ちを抑えて、急かさずにただ待った。

「先に、そなたの答えを聞きたい」

 やがて、闇の中から、低く這うような声がアモイの耳へと伝わってきた。

「今、わたしの夫となるということの意味はわかるであろう。わたしは、ただ美浜の太子との縁談を破約するために、婿を取ると言うのではない」

「はい」

「シュトクに国璽を渡してはならぬのだ。あの男が王になったとてテイネどのは、早々にかれを廃して、次なる王を立てようと動くであろう。さようなことで王宮みやを騒がせていては、美浜から我が国を守ることなどできぬ。ゆえにわたしは、女であるわたしの代わりに、そなたを陛下の養子として、この国の世継よつぎに立てんとしているのだ。生半可の心づもりならば断れ」

「……」

「だが、そなたの協力があれば心強く思う」

 最後の一言は、アモイの心の奥深くまで沁みて、知らず、膝に載せた拳に力がこもった。

 断る気などあるはずもない。たとえ事情を聞かされなかったとしても、姫のためになるのであれば、どんなことでもする覚悟はできている。ましてや、かつてない重要な任務を前に、後へ退くことなど考えられない。

 だが、アモイの口を突いて出たのは、自分でも意外な言葉だった。

「一つ、お願いがございます」

 それを聞くと、マツバ姫は訝しげに美しい眉をひそめた。

「お願い?」

「はい」

「その条件に従わねば、わたしの求婚を受けられぬのか?」

「条件などとは滅相もない。求婚するのは私のほうで、お受けになるか否かはマツバさまのお心次第でございます。しかし、是非ともお聞き入れいただきたい、お願いがございます」

 円座を下りて板の間にひざまずき、頭を深く垂れた。マツバ姫は少しの間を置いてから、穏やかな声で、「聞こう」と言った。アモイはそれに合わせるように、できるかぎり静かに言葉を継いだ。

「仮に夫となったとしても、マツバさまは私の主でございます。時機が熟すまでは、畏れながら、世継の座をお預かりもしましょう。しかし、もし時勢が変わり、すべての準備が調ったならば――世界が貴女に追いつく日が来たならば、」

 マツバ姫の瞳が、暗闇の中で、閃いたように見えた。

「そのときには、マツバさまこそがこの国の主となると、約束していただきたいのです」

――よい奥方を娶られれば。

 夕風に紛れて、耳元で誰かがささやいた気がした。


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