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 着替えを済ませたアモイが通された場所は、城館の奥側、城主の私邸として使われている領域の、二階にある一室であった。掃除以外には、人が立ち入ることのない空室である。

 かつては姫の勉強部屋に使われていたという、さして広くもない室内には、古びた文机以外にほとんど調度も残されていない。板張りの床は木目も古く、頭上は屋根裏がそのまま露出していて天井がない。格子の組まれた窓が南と西に一面ずつあって、西から傾きかけた陽が差している。部屋の中央に円座が二枚、アモイはそのうちの下座に腰を下ろし、主人が来るのを待っていた。

「まもなくおいでになるでしょう。それまで楽になさってくださいませ」

 そう言って冷茶を差し出したのは、橙色の装束に長い黒髪を垂らした若い女だ。

「かたじけない」

 答えつつも、アモイは椀に手をつけなかった。するとこの侍女、イセホは、可笑しそうに目尻を緩めて、

「この陽射しの下を、息もつかず駆け通していらしたのでしょう。どうぞ一杯だけでも、お先にお召しくださいませ。わたくしからはお願い申し上げるよりほかございませんが、マツバさまならきっとそうお命じになりますわ」

 と重ねて勧めてきた。アモイが郷里から戻ってくるときの風体は、マツバ姫に仕える者で知らぬ者はない。

 イセホの言葉に甘えて、椀の冷茶を一息に飲み干した。実を言えば一杯で足りる程度の渇きでもないのだが、丁重に礼を言って、また襟を正して座り直した。イセホはそれを見届けると、微笑みながら何も言わずに空椀を盆に載せ、漆塗りの木戸を静かに開けて立ち去っていった。

 去りがけに少し振り返った面差しに、一瞬ぎくりとした。秀でた眉目、血色のよい唇。これまでもたびたび驚かされたが、イセホの容姿は実にマツバ姫と似通っている。二人は従姉妹の関係にあるから、似ていても不思議はないと言えばそうなのだが、何しろ額も顎も耳も、声まで瓜二つである。ただ、女としては並外れた長身であるマツバ姫に比べれば幾分小柄で、また透けるような白い肌をしているのが、違いと言えば違いであった。衣服化粧を除けば、見分ける材料はその程度しかない。

 イセホの母は、かつて姪であるマツバ姫の乳母を任じられていた。その関係で、一歳違いのイセホも姫と共に育てられたのだという。勉強や稽古事も一緒だったというから、奥御殿から西府さいふに移って以後も、二人はこの部屋で机を並べていたのかもしれない。

 アモイは姫の私室にまで立ち入ることは滅多になく、イセホの方はいつも邸の中にいて、外へ出ることがほとんどない。だからお互いを見知ってはいても、間近に接して話をするのは珍しかった。

 さて、今や周囲からはまったく人気が失せてしまった。どうやら二階全体が人払いされて、イセホのみが階上へ立ち入ることを許されているらしい。アモイの緊張している理由はこれであった。郷里から戻って帰還の挨拶にうかがうと、もうよいから今日は下がって休めと、それだけを言われるのが毎年の例である。沐浴を勧められ、着替えを与えられたことも過去にはあったが、今回は明らかにいつもと様子が違う。

 二日前からアモイの帰還を待っていた。その用事をすぐには言いつけずに、人払いをした部屋に待たせて、普段は人前に出すことのないイセホだけを寄越すというのは――。

 階段を上ってくる足音がする。イセホのものではなさそうだ。裾を気に留めて、ゆるゆると歩む音ではない。爪先で段を打つような、軽やかで力強い足取り。

 多少の摩擦と共に、木戸が開かれた。目も冴えんばかりに鮮やかな紅色の上衣と袴、その袖と裾のゆとりを巻きしめた凛々しい姿で立っているのは、紛れもなく主人のマツバ姫であった。

「待たせたな」

 そう言っていつものように、まっすぐに射るような眼差しのまま微笑んだ。まだ濡れていていっそう艶やかな長い黒髪が、目鼻立ちのはっきりした相貌を引き立てている。

「お話が済みましたら、片づけに参りますわ」

 姫の後から、今度は二人分の茶を携えて、イセホが入ってきた。アモイに直面して正座した姫の膝元に椀を置き、次いでアモイに二杯目の冷茶を差し出す。

「もしもお代わりがお要りなら、下に声をかけてくださいましね」

 そう言い残して、イセホは再び姿を消した。

 外見はよく似ているものの、マツバ姫とイセホとは鏡に映したように対照的だ。イセホの柔らかな物腰と穏やかな物言いは、人の心を和ませる。マツバ姫は、ただそこにいるだけで、凛として空気を引きしめずにおかない。

 姫は無言で茶を啜っている。アモイは黙って、それを見守った。

「イセホの出す茶は美味い、そうは思わぬか、アモイ?」

 空にした椀を茶托に置いて、姫は問いかけた。アモイはその表情を探りつつ、素直に「はい」と答えた。

「ならば飲め。そう固くなるな」

 そう言ってアモイをじっと見つめる眼を見れば、すぐに口を割る気はないらしい。となればこちらも腰を据えて聴くしかないと、アモイは椀を取った。

「母御の容態はいかがであった」

「は」

「目はやはり見えぬか。先に送った医者は、役に立たなかったようだが」

「いえ、おかげさまで幾分、食欲も戻り、顔色もよくなっていたように見受けられました」

「そなたが帰ったときには、そうであろうよ」

「マツバさまにはいつもながらお心遣いを頂きまして、妹も感謝しておりました」

「妹か。妹はいくつになった」

「今年で十七になりました」

「そうか」

 そこで不意に、マツバ姫は足を崩して安座した。世間話に正座はふさわしくないと思ったのだろう。そうしてくつろいでみせても、姫の居住まいは決してだらしない印象を与えない。

「今年も、説得には失敗したと見えるな」

「はい。妹はともかく、母はどう言っても首を縦に振りません。いかに西府が住みよいところであっても、父の墓のある土地から離れることはできない、と」

「では、まだ当分そなたも不安が絶えぬな」

「はい。今年こそはと思っていたのですが、歳のせいか、近ごろは前にも増して頑なになったようで……」

「ふむ。歳のせいか」

 妙なところで首を傾げると、マツバ姫はまた得意の、意地の悪い笑みを見せた。

「ならばわたしも歳をとったら、今より頑固になるものであろうか?」

「今より……と言うと、石にでもなるおつもりですか」

「石とはまた随分だな。世の中には、わたしより頑固な者もあるぞ」

「そうでしょうか」

がそうだ」

 と、イセホの去った戸口のほうへ、姫は顎をしゃくってみせる。

「イセホどのが?」

「先だってもまた、親の薦める縁組みを断ってな。なぜかと聞けば、わたしのためだと申すのだ。わたしが幸せになるのを見届けた後でなければ、先に嫁入りなどできぬと」

 意外な話の展開に戸惑う。縁組みやら嫁入りといった言葉と、目の前の主人の顔が、うまく結びつかなかった。

「わたしのことなど待っていたら、いつになるかわからぬ。だから気にせずともよいと説いてはみたが、ならば死ぬまで独りでもよいと言って聞かぬのだ。手弱女たおやめに見えて、あれは昔から、言いだしたら手をつけられぬ強情者だ。幼いころには喧嘩もしたが、一度として向こうから先に謝ってきたことはない」

「とすると、マツバさまから先に謝られたのですか」

「いや」

「それでは五分ではありませんか」

「しかしあやつの好きな花を摘んで、部屋の前に置くほどのことはしたぞ」

「それで、イセホどのはどうしたのです」

「押し花にして、知らぬうちにわたしの本に挟んであった」

 第三者の立場で聞けば、意地を張ることにかけては姫もイセホも五十歩百歩だ。

 子どものころの話を、主君の口から聞くのは珍しい。アモイが出会う前の姫について知っていることは、古くから仕える召使いたちに聞いた話がほとんどだった。その話題の中でも、マツバ姫と従姉の似通いようは頻繁に語られていた。よく聞くところでは、針事や音曲などの苦手な稽古事のときに、姫がイセホを替え玉にして姿をくらませていたという話がある。

 横目で壁際の文机を見やり、アモイは頬を緩める。二杯目の茶碗も、空になった。

 その時機を見計らっていたのだろうか。マツバ姫はくつろいだ姿勢のまま、「アモイ」と彼の名を呼んだ。

「はい」

 いよいよ本題に入る気配を察して、しかし明るい表情を変えずに、アモイは返事をした。マツバ姫がどんなに突拍子もないことを言いだしても、受け止める用意ができているつもりだった。

 だが、彼は次の瞬間、そう思った自分の甘さを知ることになる。


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