1-3

「ただ今戻りました」

「うむ」

 短くそう答え、マツバ姫は微笑んだ。やや日に焼けた顔に、白い歯が光る。

「汚い手で、いつまでつかんでいるんだ。放せ!」

 童女が甲高い怒声をあげて、アモイの手を払いのけた。彼女はマツバ姫の私邸に仕える小間使いの童子の一人で、名をユウといった。もともと孤児であったところをマツバ姫に拾われ、身辺に置いてもらっているのであって、実質的には大した仕事は与えられていない。要するに居候のようなものである。

「余計なことをして。あんたなんかに、助けてもらいたくなんかない!」

 ユウは姫に対してはあくまで従順だが、アモイに対しては事あるごとに反抗的だ。一方のアモイも、十歳余りも年下の少女がむきになって食ってかかってくるのを面白がって、しばしば自分からちょっかいを出すのだった。

 だがこのときはあえて何も答えず、アモイは再び主君に向かって言った。

「中の間のほうにうかがうつもりでしたが、こちらにおいでだと聞きましたので」

「うむ。手が空いていたのでな、久しぶりにユウの剣を試していたのだ」

「しかし御自らお手を煩わすなど。磨いてどうなる腕とも思えませんが……」

 そう言ってアモイは童女に一瞥をくれる。すると、主従のやりとりを不機嫌そうに聞いていたユウは、いっそう眉を吊り上げて、

「黙れッ。今に見てろ、あたしだって、いつかマツバさまみたいな剣の使い手になってやるんだから!」

「相変わらず、威勢だけは一人前だな」

 アモイは笑って受け流す。

「だが、剣の使い手とは、剣を思いのままに操ってこそ言うのだ。剣に使われる者のことを言うのではない」

「……」

「握りが甘いから、振り回されるのだ」

「うるさいッ」

「刀が滑って、マツバさまに危害を加えでもしたら何とする」

 少女は言葉に詰まって、数歩先の松の根本に砂をかぶって転がっている、自分の木刀を見やった。

「それにだ、なぜおまえは相手の動きを見ないのだ? だから攻めてもよけられてしまうし、自分がよけようというときには間に合わないのだ。稽古だから死なずに済んでいるというもの、実際の敵の前であったら、斬ってくれと言っているも同じではないか」

「アモイ」

 マツバ姫にたしなめられて、アモイは笑顔のまま口をつぐんだ。ユウの顔はもはや真っ赤に膨れ上がっている。冷やかしにしろ的を射ているだけに、何も言い返せないのが悔しいのだろう。

 このようなやりとりは、日常茶飯事である。二人の応酬が始まるや、マツバ姫は審判役となる。今回の勝負はアモイの勝ちと踏んで矛を収めさせたのも、いつもどおりの彼女の役目であった。

「確かにユウ、アモイの言うとおり、少々剣の据わりが悪かったようだな。今日のように暑い日は、掌の汗にも気をつけることだ。相手の動きを見ていないというのは、自分でもわかっていよう」

「……はい。マツバさま」

「したが、身のこなしは随分よくなった。息の上がるのも遅くなってきている。朝夕の鍛練の成果であろう。これからも続けるがよい」

 その言葉を聞いた途端、意気消沈していた少女の顔は、一遍に生気を取り戻した。

「今日はここまでとしよう」

「はい! ありがとうございました!」

 ユウは両手をそろえて、勢いよく頭を下げた。それから落とした木刀を拾い上げ、そのまま洗い場のほうへ身を翻す。

 が、立ち去る前に、ふとアモイの顔を上目に睨みつけ、よく通る声を張り上げた。

「いつかあんたなんか打ち負かしてやる!」

 アモイは苦笑しながら、飛ぶように駆けていく童女の後ろ姿を見送った。小さな体はさらに小さくなって、瞬く間に邸の陰に消えていった。

「まったく、あいつは、なぜああも利かん気なのでしょうか……」

 傍らの主人に、視線を戻した。マツバ姫はまだ、お気に入りの童女が去った方向を黙って眺めやっている。

「それにしても、随分と短くしたものですね」

「ユウの髪のことか?」

「はい。あれではまるで男子おのこのようです」

「わたしが切ってやったのだ」

「マツバさまが、御自ら?」

 思わず聞き返したアモイに対して、マツバ姫は涼しい顔で頷いた。

「暑くて鬱陶しいと申すのでな。なかなかうまく切れていたと思わぬか? あのほうが、あやつには似合っていよう」

「はあ……」

「わたしにも似合うだろうか、短くしたら……?」

 言いながら彼女は自らの束ねた黒髪を手に取り、少々意地の悪い笑みを浮かべた。そうして返答に窮したアモイを置いて、さっさと館の外廊下へと上がっていく。

「マツバさま」

 アモイも主人を追って、廊下へ上がった。姫は侍従に木刀を渡し、代わりに受け取った手拭いで汗を拭っている。

「私に何かご用がおありと聞きましたが」

「誰に?」

「中の廊下で、甥御どのにお会いしまして」

「ああ、フモンか。確かに、アモイはいつ帰るのだったかと、あやつの前で口にした覚えがある」

 マツバ姫は、得心したように頷いた。

 玄関から城の奥に向かう内廊下の途中でムカワ・フモンと行き会ったとき、心に何のやましいところがあるわけでもないのに、アモイはいささか決まりの悪い気持ちを覚えた。テシカガに脅されたせいもあるだろうが、元来このムカワという壮年の男は他者を気安く寄せつけない空気を持っており、その意味ではアモイとは対照的な人間なのだった。

 ちなみにムカワ・フモンを甥御どのと呼ぶのは、かつてこの城でマツバ姫の剣術指南をしていた武官、ムカワ・カウンの甥であることが由来となっている。叔父のほうのムカワは豪放磊落で面倒のいい男だったため、まだ十代であったころのアモイも随分と世話になった。しかしその性格は、どうも血筋で受け継がれるものではなかったようだ。

 くたびれた襟を無理に正して、アモイはひとまず、型どおりの帰還の挨拶をした。手首まで覆った苔色の袖に汗染みの一つもないムカワは、それに対して小さな頷きを返した。が、口を開くなり発せられたのは、「用があるのは私ではない」という、かなり唐突な言葉だった。思わず「は?」と訊き返すと、

──貴公に用があるのは私ではない。館さまが貴公をお捜しだったので、手近の者に確かめたのだ。

 眉一つ動かさずに、ムカワは答えた。

 要するに、アモイが戻る日を周囲に尋ねたのはもともとマツバ姫であって、その問いを耳にしたムカワが、たまたま執務室にいたテシカガに確認をとったという、それだけのことだったらしい。お咎めがあるなどというのは、テシカガの単なる早とちりだったのだ。

「何のご用かご存知ですかと尋ねても、甥御どの、直にお聞きするがよいと言って早々に立ち去ってしまわれまして」

「まったくフモンらしいな」

「それで、マツバさまは、何ゆえ私をお捜しだったのですか」

 そう尋ねると、不意にマツバ姫はアモイに向き直って、

「アモイ」

「はい」

「また郷里さとからまっすぐに上って参ったな」

 髪も乱れ服にも皺が這った、野武士のようなアモイの風体を改めて見ながら、彼女は言った。

「自宅に立ち寄ってから参れと言うのに」

「はい。しかし八年目ともなりますと習慣になってしまい、つい」

 マツバ姫はそれを聞くと、呆れたように薄く笑った。

「誰ぞに水を汲ませて、汗を流してくるがよい。イセホに着替えを用意させよう」

「かたじけなく存じます」

「いや、ちょうどわたしも湯浴みしたいと思っておったところだ」

 姫はそう言い残し、いつものように颯爽とした足取りで館の奥へと消えていった。


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