1-2
北西から南東へと国土を二分する大河、
斜めに日を浴びて輝いている萌黄色の屋根を、アモイは誇らしげに見上げる。あの不思議な老人と丘の上で別れてから一刻余りを経て、ようやくここにたどり着いた。城門をくぐり、城館へ続く石畳の上で下馬すると、わずか数日離れていただけとは思えぬ懐かしさが胸に迫ってきた。
独り、白光のする石畳の上を歩きだす。連れの者は先に家へ帰して、湯の支度をしておくよう託けてあった。そうしておいて、自身はまっすぐに愛馬を駆って登城したのである。
「おう、アモイどの。今お戻りか」
「
すれ違う同僚たちは、汗だくの旅姿のまま出仕したアモイに驚きもしない。彼らはこの時期、帰省を終えたアモイがとる行動を、毎年のように見て知っている。脇目も振らず主君の前まで馳せ参じて、その無事を自分の目で確かめてからでなくては、落ち着いて風呂にも入れないのだ。
だから皆、このときばかりはアモイに世間話をしかけるのを差し控える。いつも演武場で腕比べをする一つ年下の武官、タカス・ルイも、今日はただ「暑かったろう」と一声をかけてきただけだった。
ところが、馬を
「どうした、テシカガ。何かあったのか」
「ああ、アモイどの、お疲れさまです」
テシカガ・シウロはいつもの柔らかい声で、腰の低い挨拶をした。小振りの剣こそ提げているものの、執務室勤めのせいかまったく武人という雰囲気がない。
「あのう、実は、
テシカガは粉をはたいたような色白の顔に、深刻そうな表情を浮かべて付け加えた。
「私を?」
「ええ、一昨日だったか、執務室で訊かれたのです、アモイどのはいつ帰るのかと。何か心当たりはありますか」
「いや……」
甥御どのと呼ばれる男の浅黒い細面を思い浮かべると、なるほど、テシカガが心配するのもわからないではない。
甥と言っても、アモイの親類ではない。西陵城の家臣筆頭を務めるムカワ・フモン、つまり彼らの上役の
何かお咎めがあるのではないか、だとしたら身なりを正して出頭したほうがよいのでは……そう忠告したくて、テシカガは慌てていたらしい。とは言え、たった今故郷から戻ってきたばかりで、アモイに心当たりなどあるはずもない。
「ともかく、館さまへのお目通りが済んだら、執務室に寄られるほうがよいかと思いまして」
「わかった。わざわざすまんな。ところでその腕はどうしたのだ」
「え、これは」
左腕の袖に垣間見える包帯を、テシカガは隠すようにして、
「昨日、馬場で……」
「また落ちたのか」
いやあ、と、テシカガは日に透けて赤く見える髪を掻いた。馬術の訓練をするたびに怪我をする男は、アモイの率いる親衛隊への配属を希望しているのだが、どうやらまだしばらく執務室勤めが続きそうである。
さて、テシカガと出会った玄関前の石畳とはちょうど反対側、城館の裏手にある松の庭には、二人の剣士が向かい合って木刀を構えていた。
と言っても、二人のうち一人はまだ十歳ばかりの子どもである。短い黒髪の上に鉢巻を結んで、薄汚れた胴着を身につけた姿。一見すると下町の餓鬼大将のようだが、よく見ればまだあどけなさを多分に残した童女であった。自分の身長ほどもある木刀を抱えるように握りしめて、荒い息を整えている。
「どうした、もう息が上がったか」
挑発するように声をかけたもう一人は歳
童女はまだ動きだしそうにない。それを見て取ると、柳の枝のしなうように、長身の女は木刀の切っ先をすいと引いた。するとそれに釣られるように、童女が一歩、前に出た。まだ肩で息をしている。だが、そこを何とか腹の底へ押しこめるようにして、
「……ヤァああッ」
喚声をあげて振りかぶった。
堅い木と木のぶつかり合う音が響く。鍔迫り合いが始まった。相手の刀を押し上げるようにして鍔を合わせる童女の周りに、熱気が見えるようだ。長身の女が横に払うと、童女は自らの武器の重さに引きずられて、後ろへ下がってしまう。だが必死に足を踏ん張っては、急いで体勢を整え、また斬りかかる。女は、真剣な眼差しでそれを受け止める。
二人はこうして、今までに何合も打ち合っていたのだろう。全身を汗で濡らし、土埃を浴びている。
こうしたときの主人の姿――眩しい日の光の下に、剣を握って立ち回るときの姿にこそ、アモイは息を飲むほどの美しさを感じる。だがそれは女としてではなく、人として、否もっと崇高なものとしての美しさである。
西陵の城主にして、国王ウリュウ・タイセイの一の姫。そうした肩書きをすべて忘れたとしても、ウリュウ・マツバは彼の宝に違いなかった。
嫁入り前の王女が馬に乗り、弓を引き、剣を振るう。そんなことが気兼ねなくできるのは、彼女のものであるこの西陵城だけだ。この地の民は城主を崇拝し、いずれ国王となるべきものと期待しているが、都や
だからマツバ姫がいつまでも彼女らしく生きていくためには、この城を離れずにいるほうが正解なのかもしれない。近ごろのアモイは、自分にそう言い聞かせている。
――いずれにせよ自分は、どこであれマツバ姫の行くところに従うだけだ。
アモイはその気持ちを新たにして松の庭の隅に立ち、二人の女剣士が打ち合うさまを飽きることなく眺めていた。
「まだまだッ」
声ばかりは威勢よく、童女が腕を振り上げる。
しかし、やはり木刀が重すぎるのだろうか、打てば打つほど童女の攻撃は標的から逸れていく。切っ先は大きく揺れ始めた。もはや童女が木刀を振り回しているというより、木刀が童女を振り回しているといった体である。だがマツバ姫は一向に剣を収める様子がない。むしろ今まで守りに徹していたのが、隙を突いて攻撃を仕掛け始めた。
童女は身を泳がせるようにして後ろへ逃げる。そして最後の力を振り絞って剣を振り上げると、体ごと相手にぶつかっていった。
「やッ……!」
ささくれ立った木刀が勢いよく振り下ろされる。それに呼応するように、マツバ姫の剣は水平に空を切った。
次の瞬間、童女の木刀は勢いよく上へ弾かれていた。車輪のように回転しながら弧を描いて飛んでいく。と同時に、その持ち主である童女自身も、衝撃に耐え切れず横ざまに宙へ投げ出された。
「あっ」
童女とマツバ姫が、そろって声をあげる。
木刀は、近くの松に当たって落ちた――が、童女のほうは、木の幹にも地面にも打ちつけられてはいなかった。その細い肩は、ほかならぬアモイの掌に、しっかりと支えられていたのだ。
童女が恐る恐る、固くつぶった目を開き、不審げに振り返る。
アモイは陽気な笑い声を立てた。
「何が飛んできたかと思えば、見習い剣士の小坊主だったか」
「アモイ……!」
再び、二人の女が声をそろえた。
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