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 西陵せいりょうの府、略して西府さいふはその名のとおり、山峡国の西部一帯に広がったなだらかな丘陵地帯にある。

 北西から南東へと国土を二分する大河、大風水おおかざみ。その上流から分かれてきた幾筋もの支流に潤うこの地域には、牧歌的な農村にしろ賑わう市街いちまちにしろ、他の地域にはない空気が満ちている。それは活気とも言えるし、単に明るさと呼んでもよい。ここ数年――とは要するに、西陵城主が八年ほど前に交代して以来ということだが――国内の人口は東部から西部へ流れる傾向があり、その背景には、直接の理由ではないにせよ、こうした空気のよさが影響しているに違いない。

 斜めに日を浴びて輝いている萌黄色の屋根を、アモイは誇らしげに見上げる。あの不思議な老人と丘の上で別れてから一刻余りを経て、ようやくここにたどり着いた。城門をくぐり、城館へ続く石畳の上で下馬すると、わずか数日離れていただけとは思えぬ懐かしさが胸に迫ってきた。

 独り、白光のする石畳の上を歩きだす。連れの者は先に家へ帰して、湯の支度をしておくよう託けてあった。そうしておいて、自身はまっすぐに愛馬を駆って登城したのである。

「おう、アモイどの。今お戻りか」

やかたさまなら松の庭におられるようだぞ」

 すれ違う同僚たちは、汗だくの旅姿のまま出仕したアモイに驚きもしない。彼らはこの時期、帰省を終えたアモイがとる行動を、毎年のように見て知っている。脇目も振らず主君の前まで馳せ参じて、その無事を自分の目で確かめてからでなくては、落ち着いて風呂にも入れないのだ。

 だから皆、このときばかりはアモイに世間話をしかけるのを差し控える。いつも演武場で腕比べをする一つ年下の武官、タカス・ルイも、今日はただ「暑かったろう」と一声をかけてきただけだった。

 ところが、馬をうまやに預けて玄関に向かう途中で、アモイは一人の男が自分の名を呼んで駆け寄ってくるのに気づいた。落ち着かない様子で、長身をかがめるようにして小走りに近づいてくる。その姿は何とも滑稽だが、しかし少し不安になり、アモイは立ち止まってその男に呼びかけた。

「どうした、テシカガ。何かあったのか」

「ああ、アモイどの、お疲れさまです」

 テシカガ・シウロはいつもの柔らかい声で、腰の低い挨拶をした。小振りの剣こそ提げているものの、執務室勤めのせいかまったく武人という雰囲気がない。

「あのう、実は、甥御おいごどのがお捜しのようでした」

 テシカガは粉をはたいたような色白の顔に、深刻そうな表情を浮かべて付け加えた。

「私を?」

「ええ、一昨日だったか、執務室で訊かれたのです、アモイどのはいつ帰るのかと。何か心当たりはありますか」

「いや……」

 甥御どのと呼ばれる男の浅黒い細面を思い浮かべると、なるほど、テシカガが心配するのもわからないではない。

 甥と言っても、アモイの親類ではない。西陵城の家臣筆頭を務めるムカワ・フモン、つまり彼らの上役の渾名あだなである。どんなに暑くても襟を開かず袖も折らず、笑い顔など人に見せたこともない、謹厳を絵に描いたような男だ。そんな男が人を捜して、よもや碁の相手を頼むつもりでもないだろう。

 何かお咎めがあるのではないか、だとしたら身なりを正して出頭したほうがよいのでは……そう忠告したくて、テシカガは慌てていたらしい。とは言え、たった今故郷から戻ってきたばかりで、アモイに心当たりなどあるはずもない。

「ともかく、館さまへのお目通りが済んだら、執務室に寄られるほうがよいかと思いまして」

「わかった。わざわざすまんな。ところでその腕はどうしたのだ」

「え、これは」

 左腕の袖に垣間見える包帯を、テシカガは隠すようにして、

「昨日、馬場で……」

「また落ちたのか」

 いやあ、と、テシカガは日に透けて赤く見える髪を掻いた。馬術の訓練をするたびに怪我をする男は、アモイの率いる親衛隊への配属を希望しているのだが、どうやらまだしばらく執務室勤めが続きそうである。

 さて、テシカガと出会った玄関前の石畳とはちょうど反対側、城館の裏手にある松の庭には、二人の剣士が向かい合って木刀を構えていた。

 と言っても、二人のうち一人はまだ十歳ばかりの子どもである。短い黒髪の上に鉢巻を結んで、薄汚れた胴着を身につけた姿。一見すると下町の餓鬼大将のようだが、よく見ればまだあどけなさを多分に残した童女であった。自分の身長ほどもある木刀を抱えるように握りしめて、荒い息を整えている。

「どうした、もう息が上がったか」

 挑発するように声をかけたもう一人は歳二十はたち、腰にまで及ぶ黒髪を一つに束ねた、長身ながらこちらも女であった。簡素な練習着を身にまとっているが、その合わせ襟や帯には大鳥を象った家紋が銀糸で刺繍されている。背筋を伸ばし、木刀を構えている立ち姿に、風格が漂っている。大きく切れた眼に宿る光は、優しさの中にもどこか鋭さを感じさせた。

 童女はまだ動きだしそうにない。それを見て取ると、柳の枝のしなうように、長身の女は木刀の切っ先をすいと引いた。するとそれに釣られるように、童女が一歩、前に出た。まだ肩で息をしている。だが、そこを何とか腹の底へ押しこめるようにして、

「……ヤァああッ」

 喚声をあげて振りかぶった。

 堅い木と木のぶつかり合う音が響く。鍔迫り合いが始まった。相手の刀を押し上げるようにして鍔を合わせる童女の周りに、熱気が見えるようだ。長身の女が横に払うと、童女は自らの武器の重さに引きずられて、後ろへ下がってしまう。だが必死に足を踏ん張っては、急いで体勢を整え、また斬りかかる。女は、真剣な眼差しでそれを受け止める。

 二人はこうして、今までに何合も打ち合っていたのだろう。全身を汗で濡らし、土埃を浴びている。

 こうしたときの主人の姿――眩しい日の光の下に、剣を握って立ち回るときの姿にこそ、アモイは息を飲むほどの美しさを感じる。だがそれは女としてではなく、人として、否もっと崇高なものとしての美しさである。

 西陵の城主にして、国王ウリュウ・タイセイの一の姫。そうした肩書きをすべて忘れたとしても、ウリュウ・マツバは彼の宝に違いなかった。

 嫁入り前の王女が馬に乗り、弓を引き、剣を振るう。そんなことが気兼ねなくできるのは、彼女のものであるこの西陵城だけだ。この地の民は城主を崇拝し、いずれ国王となるべきものと期待しているが、都や東原とうげんの人々はそうではない。姫は姫として生きるべしという凝り固まった思想は、彼女が帯刀して歩くことすら咎めたてようとする。

 だからマツバ姫がいつまでも彼女らしく生きていくためには、この城を離れずにいるほうが正解なのかもしれない。近ごろのアモイは、自分にそう言い聞かせている。

――いずれにせよ自分は、どこであれマツバ姫の行くところに従うだけだ。

 アモイはその気持ちを新たにして松の庭の隅に立ち、二人の女剣士が打ち合うさまを飽きることなく眺めていた。

「まだまだッ」

 声ばかりは威勢よく、童女が腕を振り上げる。

 しかし、やはり木刀が重すぎるのだろうか、打てば打つほど童女の攻撃は標的から逸れていく。切っ先は大きく揺れ始めた。もはや童女が木刀を振り回しているというより、木刀が童女を振り回しているといった体である。だがマツバ姫は一向に剣を収める様子がない。むしろ今まで守りに徹していたのが、隙を突いて攻撃を仕掛け始めた。

 童女は身を泳がせるようにして後ろへ逃げる。そして最後の力を振り絞って剣を振り上げると、体ごと相手にぶつかっていった。

「やッ……!」

 ささくれ立った木刀が勢いよく振り下ろされる。それに呼応するように、マツバ姫の剣は水平に空を切った。

 次の瞬間、童女の木刀は勢いよく上へ弾かれていた。車輪のように回転しながら弧を描いて飛んでいく。と同時に、その持ち主である童女自身も、衝撃に耐え切れず横ざまに宙へ投げ出された。

「あっ」

 童女とマツバ姫が、そろって声をあげる。

 木刀は、近くの松に当たって落ちた――が、童女のほうは、木の幹にも地面にも打ちつけられてはいなかった。その細い肩は、ほかならぬアモイの掌に、しっかりと支えられていたのだ。

 童女が恐る恐る、固くつぶった目を開き、不審げに振り返る。

 アモイは陽気な笑い声を立てた。

「何が飛んできたかと思えば、見習い剣士の小坊主だったか」

「アモイ……!」

 再び、二人の女が声をそろえた。


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