第1章 帰還早々
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風切り羽の一枚一枚の唸りも聞こえんばかりの、力強い羽ばたきだった。丘の中腹にそびえ立った
丘の頂上には、一人の若武者が立っていた。中肉中背の引きしまった体に汗ばんだ
が、その双眸には精気が満ちて、どこか子どものような明るさがある。眼下に続く山毛欅の木立と、そこに羽を休める大鷹のたくましい影を、彼はわずかに笑みを含んだ表情で眺めていた。傍らに体中から熱を発している栗毛の馬を従え、水筒を手にしているのは、まだ残暑の厳しい折、旅の中途で一息入れている最中なのだった。
名をアモイ・ライキという。歳は二十四、数日ばかりの里帰りを終えて、東南の国境近くにある故郷から、任地である
この小高い丘は、いつもの通り道だ。馬で登るのに不都合なほどの勾配ではないが、ただ頂上から見て北西の一角のみ、おそらくは過去に土砂が崩れた跡なのだろう、崖と呼んで差し支えないほどの急斜面となっている部分がある。そこからは、目的地である西陵の城下町を望むことができた。
斜面を吹き上がってくる、いくらか秋の匂いを含んだ清風を、アモイは胸の奥底まで吸いこんだ。
「おい、爺さん、大丈夫か?」
不意に、後ろで声がした。振り返れば、木蔭で休憩していた年若い従者の一人が、草深い野道のほうへ呼びかけている。
「誰かいるのか」
アモイも木蔭に歩み寄り、従者の指差すほうへ目を向けた。自分たちがたった今、馬を駆って通ってきた道の途中、三十歩ほど先に、何やら座りこんでいる人影が見える。枯れ葉色の大布を頭からかぶっていて、遠目からはわかりにくいが、よく見ればそれは猿のように小さな一人の老人だった。
「来たときに追い越したろうか?」
「気づきませんでしたが、道端にああしてうずくまっていたなら、見落としたかもしれません。何気なく振り向いたら、あそこに――」
「そうか。どうやら暑さにやられたようだな」
道の両脇には野草が生い茂っているが、太陽がちょうど真上にあって、蔭は少ない。アモイはすぐに従者を連れて野道に分け入り、老人を抱えて山毛欅の大樹の下まで運んだ。土の匂いが染みついた老人の体は、たとえようもなく軽かった。
旅姿ではあるが、手荷物は少ない。大布をかぶっているのは、日よけのためらしい。深く皺の刻まれた目元を見れば、六十は下らないだろう。その目は細く開かれ、意識はあるようだが、どうやら声を出す力はないようだ。
「水だ」
と、アモイは水筒を取らせて、乾いた白い唇にあてがってやった。宿場を出たときに汲ませた井戸水は残り少なかったが、老人はそれすら飲みきることなく、わずかに口に含んだばかりで顎を引いた。木の根元に寄りかかった様子は、そのまま幹の中に消え入ってしまいそうなほどに頼りない。
「話せるか。連れはないのか?」
アモイの言葉に、老人は頭を振る。そして、か細くしわがれた声音で、何事かつぶやいた。感謝の言葉を述べたようだ。
「もっと飲んでかまわんのだぞ。我々は
「西府……」
老人は微かにつぶやくと、目を空に向けた。つられてアモイも頭上を見ると、梢のあたりを一羽の鳥影がよぎった。飛んできた方向からして、先ほどの大鷹であろうか。
鳥は真一文字に翼を広げ、西陵の府とは逆方向へまっすぐに飛び去っていった。
「鷹というものは、牝のほうが大きいそうでございます」
その声が妙にはっきりと聞こえたので、アモイは驚いて老人を見下ろした。
「今、何と言った?」
「……」
「あれは牝鷹だと言うのか?」
老人は答えなかった。ただ、蚊の鳴くよりも細い嗄れ声で、また曖昧な言葉を吐くだけだった。
「アモイさま。この者、あるいは少々……」
頭がおかしいのではないか、という意味だろう、従者の一人が声を落として言った。
だが、この老人の言葉を、アモイは聞き流せなかった。あれは牡か牝か――それはまさに、枝をつかもうとする大鷹を眺めながら、彼自身が心の内で思い出していた問いだったからだ。まるでそれを察したかのような発言を訝しく感じて、アモイは老人の独りごちる口元を凝視した。
「貴方さまは、ご出世なさるでございましょう」
またも唐突に、老人の声がはっきりと告げた。
「……よい奥方を
それを聞いて、いよいよ従者たちはこの薄汚れた老人を気狂いと確信したごとく、顔を見合わせた。
もっとも汚れ具合では、彼らもアモイも人のことは言えない。大雨を浴びたかのように汗に濡れ、皺の走った衣服は、土埃が貼りついて斑になってしまっている。だが年十四、五ばかりの奉公人たちは自分の風体を棚に上げ、若者らしいあけすけな嘲笑を浮かべた。
「爺さん、そのようなことは、おまえが口出しすることではない。このおかたはな、西陵城主さまの御親衛だぞ。ご出世なさるのは当然なのだ」
「そうだ、城主さまがいずれ
「余計なことを言うな、おまえたち」
アモイは、先走る家人をたしなめた。それから片膝をついた姿勢のまま、老人に言う。
「我々は先を急いでいる。もしも行く道が同じならば、里まで馬に乗せてもよいが」
「いやいや」
老人は、力なく首を横に振った。またか細い声に戻って、切れ切れに答える。
「この坂ならば、年寄りにも、少し休めば下りられまする」
「ならば、よいが」
「かまわずにお行きくだされ」
「うむ……」
薄い褐色の瞳から送られる視線には、どこか居心地の悪さを感じさせるものがあった。さすがに少し不気味になり、言われたとおりに老人を木蔭に残して出発することにした。
いくらか中身の残った水筒に栓をして、肉の削げ落ちた手に握らせてから、アモイは立ち上がって馬を引き寄せた。騎乗して振り返ると、布の下から老人の両目がこちらを見上げている。大布を掻き合わせた胸元には、首飾りだろうか、赤い石のようなものが揺れていた。
「行きましょう」
従者に促されて、アモイは頷いた。
「ではな、爺さん。気をつけるのだぞ」
殊更に明るい声でそう呼びかけると、老人は座ったまま、縮んだ背をさらにかがめて、深々と腰を折った。
残暑を吹き払う涼風が、短い髪をなびかせ、草を揺らす。
アモイを乗せた栗毛の馬は、なだらかな坂を瞬く間に下っていった。目的地はすぐそこまで迫っている。丘を下れば小さな農村があるが、もはや休憩をとるまでもなく、平野の道を一刻ばかり行けば、日の落ちる前には西陵の府へ着けるはずだ。
年に一度の里帰りのたびに、アモイは自分のいるべき場所を改めて実感する。故郷で病床にある母には悪いが、赴任より八年の月日を過ごした西府の城、その城主たる主君のそばこそ、彼の帰るべき場所であった。
しかし今年のアモイには、はやる気持ちとはまた別に、どこか心の隅に引っかかるものがないでもない。
先ほどの老人である。
思い返せば、何もかも奇妙だった。降って湧いたように現れ、まるで心中を見透かしたかのような発言をし、予言めいたことまで口にした。
そして何より、あの目だ。色の薄いあの瞳が、最後にアモイを見上げたとき、まるで人ならぬもののように赤く光って見えた気がした。いや、あれは、首飾りの石の色だったか。
アモイは手綱を引いた。後ろを振り向いて、下りてきた坂道をたどるように丘を見上げる。だが丘の頂に見えるのは、日傘代わりにした大きな山毛欅の、緑濃い梢ばかりだった。その下にまだいるかいないかもわからぬ老人の姿など、遠目にうかがい知れるはずもない。
「どうかなさいましたか」
従者たちが、怪訝そうな視線で尋ねる。
「いや……。おそらく気のせいだろう」
アモイは誰にともなくそう言うと、馬の首筋をひと撫でして、改めて鐙に力をこめた。
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