序章
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はるか遠く眺めやった丘の中腹に、城下にひしめく家並みの向こうに、あるいは頭上に枝を伸ばした木々の梢に。
真一文字に翼を広げて滑空する猛禽の影を認めると、その人は決まって近侍の者に尋ねたという。
「あの鷹は、牡であろうか、牝であろうか?」
もっとも、上空を飛ぶ鳥の雌雄など、地上の素人目に見極められるはずもない。だが「わからない」などという無粋な返事は歓迎されず、当て推量であろうが何であろうが、問われた者は必ずどちらかを答えるというのが暗黙の約束事となっていた。
「あれは、牡でございましょう」
「何ゆえそう思うのか?」
時には、さらに問いが重ねられることもあった。
「羽ばたきが雄々しゅうございますもの」
「ではそなたは、女々しく飛ぶ鷹を見たことがあるのか?」
「いいえ、ですからわたくしは、きっと今まで
機転の利く侍女が澄ましてそう答えれば、その人もようやく満足そうな笑みを見せた。それからすぐに別の話に移ることもあり、また時には気紛れに、当人のみの知りうる「正解」を披露してみせることもあった。
「あれは牝だ――よく見ておくがよい、そなたが生涯で初めて目にした牝鷹だ」
*
(
あえて断定しないのは、原本がとうに散逸してしまい、確かな証左がないからだ。とはいえ最初期の写本にはすでに同様の記述が見られ、おそらくは原本にもあったはずだというのが定説である。
もちろんそれは、エピソードが実話であるということを証明するものではない。この書物は、伝記の名を借りた歴史物語である。いくらかの史実は踏まえているものの、基本的にはフィクションとして書かれたものだということは忘れてはならない。
たとえば同書には、次のような場面も記されている。)
*
人気のない庭園の片隅に澄んだ水をたたえた、小さな泉の傍らにその人は立っていた。
真紅の筒袖の
色とりどりの秋桜が微風に揺れ、まるで笑いかけているかのようだ。花々の間にひっそりとたたずむ水面もまた、まだあどけない横顔に、優しげな反射光を投げかけている。
しかし少女の眼差しは、あどけなさとも優しさとも無縁だった。およそ花を愛でるには似つかわしくない鋭利な光を放ちながら、長く首を伸ばした秋桜の白い一輪を、瞬きもせず見据えている。
紅葉色に染まった手には、藤蔓を巻いた短い鞘を握っている。
泉の水面はわずかに波立った。うららかな昼下がりの静けさは、波紋が音もなく広がるにつれ、不吉な沈黙へと変わっていった。
筒袖から差し出た腕に、力がこめられる。
鳶の声がどこからか響いてきた。
その声が長く尾を引いて消えたとき、小さな握り拳と鞘との間に強い光が閃き――。
次の瞬間にはもう、秋桜は笑いやめていた。純白の花弁が水の上に落ちて青ざめ、取り残された茎はわななくように小刻みに震えていたのだった。
少女は短剣を藤蔓の鞘に収め、懐にしまった。ゆっくりと呼吸をし、静かに唇を噛む。それから身をかがめて、水面に浮かぶ花へ手を伸ばした。
と、にわかに少女は顔色を変える。どこからともなく聞こえた甲高い喚き声と、無遠慮な足音。誰かが近づいてくる気配に、体をこわばらせる。
顔を上げ、数歩前へ歩んだ。振り返ると、水際の草の根に、黒っぽい塊がうずくまっている。それを自分の体で覆い隠すように仁王立ちになり、少女は来るものを待ち構えた。
やがて茂みの中から姿を現したのは、少女よりもさらに幼く、未だ歩みもおぼつかない一人の少年だった。草の葉をいくつも衣服に引っかけて、ここに至るまでさんざん歩き回った後と見える。
幼子はその人の顔を見て、歓声をあげた。澄んだ晴天に、鳶よりもよく通る声。まだ言葉にならない、ただ喜びだけが満ちた音だ。
少女は、露骨に嫌そうな顔をしてみせる。そして彼とは対照的に低くつぶやくような声で、「来るな」と言った。
だが幼子はそんな言葉など耳に入らないかのように、うれしそうな笑みを満面に浮かべ、頼りなく一歩ずつ土を踏みながら歩み寄ってくる。細い髪の毛が陽光を浴びて栗色に見え、饅頭のような頬は
少女は微動だにしなかった。幼子がついに目の前までやってきて、ふっくらとした両手を差し出してきたところで、
「帰れ」
と、精いっぱいの厳しい声で警告した。しかし、相手は動じない。丸い小さな目が、まっすぐな、朝日の中の露のような無垢の輝きに満ちて、一緒に遊ぼうと訴えかけていた。
「帰れ」
再度、その人は告げた。
「わたしはおまえが嫌いだ」
どうやらこの言葉も、幼子の心には届かなかったらしい。彼は体いっぱいに親愛の情を表して、少女に笑いかける。何ものをも包み隠さない、純粋な瞳。花を見てただ花を慈しむことのできる者の目。
それを間近に見て取ったとき――。
先刻まで短剣を握っていた掌は拳となり、幼子の横っ面をめがけて風を切った。
耳をつんざくような泣き声が、庭園に響く。
頬を真っ赤に腫らして泣きじゃくる幼子から目を逸らし、泉の水面を見やった。
そこには、少女自身の姿が映っていた。波紋に揺らめく紅い胸のあたりに、何か白いものが浮いている。切り落とした秋桜の花が水に浮かび、頼りなく漂っているのだった。
*
(山峡国の王女として生まれたその人が、十二の歳まで都にある王宮の奥御殿で育てられていたのは事実である。また幼少より武芸を好み、養育係の目を盗んで刃物を持ち出しては、人目につかないところで剣術の真似事をしていたというのも確からしい。
とは言え『紅鷹君伝』に描かれたこの場面は、まったくの創作に違いない。でなければ、幼い二人だけしか知りようのない出来事が、かくも詳細に描写されるのは不自然に過ぎる。
同書の著者は、その人と同じ時代に生きていた。しかも隣国である
もっとも同書の記述によれば、著者には卜人の血が流れており、常の者には見えないものが視えたという。それゆえ本来ならば余人が知りえないような場面も克明に描かれているのだと一部の者は吹聴するが、まさか信じるわけにはいくまい。
繰り返しになるが、『紅鷹君伝』は物語である。はるか昔に滅びた盆地の小国・山峡国の歴史において最も名高き女傑と、彼女に焦がれた者たちの
*
「マツバさま」
背後から呼びかける声に、その人は長い睫毛を押し上げるようにしてまぶたを開いた。
目の前に広がる景色は泉のほとりに秋桜の揺れる園ではなく、まだ若い松の木々がまばらに植えられた裏庭だ。
そこでは十歳ばかりの童女が一人、細腕に木刀を掲げていた。枝から荒縄でぶら下げた古い木片を、一心不乱に打ちこんでいる。短い髪を振り乱し、粗末な胴着を汗と埃とで斑にしている。小柄な体に木刀はかなり重いようで、しかも手汗で滑るらしく、何度も握り直しては、おぼつかない足取りで標的めがけて突進する。威勢のよいかけ声と、鈍い打音とが繰り返し、緑濃い松の梢に響き渡る。
「どうかなさいまして?」
後ろに立った侍女から、再び声がかかった。
「どうということもない。ただ、昔を思い出していた。まだ都に暮らしていたころのことをな」
振り向きもせず、マツバという名で呼ばれたその人は答えた。
「あれを見ていると、いつも思い出す」
視線の先で、童女は息を切らして木刀を杖にしていた。
裏庭に面した階上の部屋は、格子窓と古びた文机が一つあるきりの、殺風景な空室であった。窓辺に立つその人と、後ろに控えた侍女のほかに、人の気配はない。
鮮やかな紅の衣服に身を包み、腰に一振りの剣を佩いたその人は、女にしてはかなりの長身ということもあって、今にも戦場に赴こうとする美少年剣士といった風情がある。束ねた長い黒髪はその気性を表すかのようにまっすぐだ。少し日に焼けた顔は、長く切れた眼の印象が強い。その眼差しはしかし、秋桜を睨む少女のそれよりはいくらか鋭さが和らいで、独り稽古に励む童を慈しむように見下ろしているのだった。
「今日も暑いな」
しばし訪れた沈黙を断ち切るように、その人はつぶやいた。
「水菓子でもお持ちいたしましょうか?」
「いや。それより、湯の支度をしておいてくれぬか」
「お湯を」
「そうだ」
窓に組まれた格子の継ぎ目を、指でなぞりながら答える。裏庭では、童女が息を整えてまた木刀を握り直すところだ。
「少し汗をかいてくる」
束ねた髪を翻らせて振り返った先にはもう、侍女が両手に手拭いを捧げて立っていた。艶やかな橙色の
「お着替えもご用意しておきますわ。お怪我などなさいませぬよう、お気をつけくださいませ」
「わたしが怪我などするものか」
「では、可愛い剣士さまに、傷など負わせませぬよう」
「はは……そうだな」
笑いながら窓の下をのぞきこめば、噂の剣士は埃だらけの土に尻餅をついている。
「アモイさまは、いつお戻りになられるのでしたかしら?」
「今日だ」
答えながら、その人は受け取った手拭いを無造作に肩にかけた。
「夕刻までには参るであろう。どうせまた野良犬のような
「はい」
「この陽気では、野良犬どころか、
侍女は小春の日和のごとき笑みで、その冗談に応えた。二人の女はよく似通った顔を見合わせて笑い、それが終わると、侍女のほうが「それでは、冷たいお茶もあったほうがよろしゅうございますわね」と言った。
その人は無言で頷き、また外に目を向けた。不意に、真顔になる。
見ているものは庭先ではなく、空だった。丘陵の上に立つこの二階建ての館からは、なだらかな坂に沿って続く城下の街並みと、さらにその先に、また別の小高い丘が盛り上がっている様子も一望できる。町外れのその丘の、ちょうど頂上あたりの空に、旋回する一羽の鳥影を認めたのだった。
「あの鷹は……」
いつもの問いを言いさして、しかし、その人は言葉を切った。
「牡でございましょうか?」
いつもに似ず、侍女が続きを先取りした。
答えは返ってこなかった。
遠い空のごく低いところを行く黒い豆粒のような影を、眩しそうに眺めやるその人の眼には、あの光が射していた。うららかな夏の終わりの花園で、
鷹は両翼を一文字に広げ、ひとたび高く青天へ舞い上がったかと思うと、鮮やかに弧を描き、丘の中腹めがけて迷うことなく空を滑り降りていった。
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