session 004
満月は夜行性の動物をより活動的にするという。
頭上にははっきりと真円の月があった。夜にも関わらず遠方まで見渡せる今宵はまさにハンティングにうってつけだ。
こんな日を待っていた。待ち望んでいた。
見晴らしのいい丘からは特別破棄地域が皮肉な程よく見える。倒壊寸前の大橋を渡ったその先では200年に渡って人の手が入らなかった自然が繁栄している。人の介入かはたまた放射能の影響なのか、どこか歪ささえ醸し出すその情景に私はただただ嫌悪した。
――何故人は故郷を忘れる事が出来ないのだろうか。
何故それを何世代も交代した我らが引き受けなければならないのだろうか。
私から見れば、そこはもう人の領域ではない。あの土地はもはやそこに住まう全ての動植物達のものであり、人が踏み込んではならないものなのだ。
――だからこうして、自然は我ら人間を拒み、牙を剥く。
あの凶暴化した狼や熊を見たか。彼らはまさに秘境の
それに比べて人間のこの脆さを見よ。最新の技術を持ってしてもなお、そこに到達出来ずにいる。人が住めぬと後にした土地で力強く生きる彼らに、人が今更何が出来ようと言うのだ。
――しかし私に選択肢は無い。既に私の運命はそこへと導かれている。
何故なら私はそういう目的でこの世に生を受け、そういう目的で育てられたのだから。
高台から見下ろした茂みにうごめく影がある。一瞬光ったのは月光を反射したヤツの眼だろう。ぐるぐると周り座り込んだその場所が貴様の墓場となる。
私は地面に伏せ浄化空砲を構えた。
しかし私の左足が意志とは無関係に小刻みに震えている。この瞬間、体だけに作用する感情がそうさせている事は理解している。だがそれを抑制することは敵わない。力なく伸びる右足も含め反動を吸収するに不十分な土台だ。恵まれない体格をめいいっぱい地面に押し付け、その摩擦を最大限に利用して反動を抑えるしか無い。それが出来なければ弾は外れる。
これは復讐である。ヤツを仕留めなければ私のこの行動に何の意味もない。
私は撃鉄を引いた。
やったぞ。やつを仕留めた。この環境下で私はついに命中させた。変わらず震える左足は恐怖によるものではなく、勝利の喜びによるものなのだ。私はついに自身に打ち勝ったのだ。
――がさ。
直後と言って良かった。生物の放つ音に冷静さを取り戻した私が銃を再び構えた時、それが既に手遅れだということを知った。左方、物凄い速度で突進してくる黒い影が見えた。急いで撃鉄を引くが、狙いの甘いそれはヤツの上方へ逸れて行った。
立上ならなければ。ここから逃げ出さなければ。
しかし私の両足は言うことを聞かなかった。震える左足に力の入らぬ右足。勝利に酔いしれていたそれは一瞬にして再び恐怖に支配されていた。
やつの巨体から右足が振りかぶられた。
あの日の出来事が脳裏に浮かぶ。目前で吹き飛んで行ったかつての仲間のようにその足で私の体を――
「手を上げてチエルノ!!!」
その声に反射的に左手を上げた。
刹那、私の体が信じられない速度で水平方向に吹き飛んで行った。何がなんだかわからない。私はあの腕に殴り飛ばされたのだろうか。左腕は引きちぎれるのではないかと思う程の痛みだったがちゃんと肩にくっついている。そしてその腕を掴んでいるのは、あの少年。
「飛ぶよ!」
彼が地面に踏ん張ると、減速の反動で私の体がその背中に張り付いた。浄化空砲を握るその右腕を彼の首へと回してしがみついた直後、今度はとてつもない重力が私の体を襲った。その反動で彼の背中へ顎をぶつけるが、懸命に意識を保った。地面がみるみるうちに遠ざかっていき、ふわっと体が浮いたかと思えば、今度は地面のほうが眼前に迫ってくる。着地の際に振り落とされないように左手を彼の胸に回して体を密着させた。凄まじいGに耐える私の眼前にヤツの黒い巨体があった。
「熊が!」
私は体から絞り出すように叫んだ。直後、またしても視界は物凄い速度でヤツを置き去りにしていった。
私は少年に背負われたまま、高速で移動していた。
しかしヤツも諦めていない。嘘のようなこの速さに、やつも懸命に食らいついている。
「チエルノ!」
少年の背中から声が聞こえる。月光の下高速で森林を駆け抜けるその雑音の中でも、彼の澄んだその声は明瞭に耳に届いた。
「僕が囮になる! 君はそれでヤツを仕留めて! あの高台に君を置いていく、いいね!」
黒々とした木々の影からその場所が見える。狙撃に適したスポットなのは一瞬で理解出来た。だが同時に外せば次は無い、相手からも丸見えの場所だった。
私は自分の左足を見た。それは彼に支えられながらも震えている。その感触が鈍い。
「…ないんだ…」
「えっ!? 何っ!? よく聞こえないよ!」
「私は…走れないんだっ…!」
私は懸命に叫んだ。今恐怖に支配された私の体ではこの高速で動き回るやつに弾丸を命中させることは出来ないだろう。体力に有利があるのは明らかにヤツの方だ。時間がかかれば、二人ともやられてしまう。
「私を置いて行って…! ヤツが私を貪っている間に、君は逃げてっ…!」
私をおぶってこれだけ高速に移動できる彼だ。それだけの時間があれば逃げ切る事は容易だろう。これは私の責任だ。その責任は自分の命を持って償うしかない。ここで息絶えることは無念ではあるが、そうすれば私は彼らの元へ逝ける。私を守り散っていったかつての仲間の――
「そんなことできる訳ないでしょ!!」
再び私の体が重力から開放された。気がつくとその高台に私達はいた。彼の背中から見下ろす風景に、地面を掻いて加速の準備に入ったヤツが捉えられていた。月光を反射するヤツの眼が殺意を放っている。
「…この特別破棄地区には人が住んでいるんだ」
彼が独り言のように語り始める。しかしそんな話は聞いたことが無かった。ガッコーでここは無人だと脳に焼き付くまで聞かされていた。
「このままあの熊を放っておけば、僕らを捉えられなかった腹いせにここの人達を襲うかも知れない。そんなことは絶対に出来ない」
彼はそういって腰を少し浮かせて、私を背負い直した。回された両腕がしっかりと私の大腿を掴み、安定する。
「本当ならカレシみたいに君を守ってあげたいところだけど、僕のインストゥルメントはシールドが使えないんだよね。だから僕がヤツを受け止めてそれを君が仕留める、なんて戦法もダメ」
シールドが使えないMI?
そんなMI聞いたことがない。
カレシが守ってカノジョが仕留める。それが特別区域においての調査隊の基本戦術だ。もしかして彼が行っているこの高速移動は足につけられたIMによって行われているのだろうか。
「だから」
彼はそう言って腰を深く落とした。
「僕たちに出来るやり方で、やつを仕留めないと」
ヤツが轟音を立ててこちらに突進してくる。彼は一瞬振り向き私を見た。この絶対絶命の状況に不釣り合いな程の明るい笑顔だった。MIの静かな駆動音が高鳴っていく。それに合わせて、私の心臓の鼓動が高鳴っていくのを感じた。
君は一体――
「ねぇチエルノ! 一緒に風になろう!」
少年と私は、突風のようにそこへ突っ込んでいった。
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