session 005
眼下、発狂する熊の姿がある。月光に晒されたその体躯は我々のゆうに4倍はあった。振り上げた腕の指一本一本が人間の頭部程もある。あれにひっぱたかれれば人の体など簡単に壊れてしまうだろう。
私をおぶった少年はその脇をすり抜けるようにして通過し森の中へ突っ込んでいく。
暗闇の中、ありとあらゆるものが高速で後ろへと流れて行った。暗いせいもあるのか大分目が慣れてきて、首から上を振り向けば、それでもなお全速力で追ってくるヤツの姿があった。ところどころはみ出した枝など物ともせず、轟音とともになぎ倒していくその様は最早動物の域に無い。あんな怪物がこんな所まで上がってきているなんて。
「まだ追ってきてる!」
少年は細道を選んでいるようだが、ヤツの速度は衰えることを知らない。そればかりかあれだけ色々なものにぶつかりながら来ているにも関わらず、ダメージを追っているようには見えなかった。
「チエルノ!」
ふいに少年が叫んだ。
「なに!?」
「もうすぐで崖にでる! そこで方向転換して崖沿いを進むよ! そこならしばらく直線に走れる! そこでヤツを撃つんだ!」
「撃つって…どうやって!?」
「でるよ!」
その掛け声と同時に急に視界が開けた。目前には崖だった。少年は体を沈み込ませるようにしてブレーキをかけ、即座に横に飛んだ。崖沿いを真っ直ぐ走っていく。振り向けばヤツがその後を懸命に追ってきている。そこまで来て私は少年の言っていることの意味がわかった。
両腿を一層彼に強く巻き付け、胸にしがみつかせていた左手を離し、両手で浄化空砲を構えた。そして呼吸を整えたら、そのまま背面へ仰け反った。
「いけそうかい!?」
「やってみる!」
上下が反転された世界が高速で収束していくその中心にヤツがいた。私は
撃てるのは一発。
少年の歩幅を読んで、もっとも安定したその瞬間を狙って撃鉄を引いた。
「やった!?」
私はすぐさま体を起こして彼にしがみついた。
「ダメ! 外した!」
「もっかい行けそう!?」
「無理! 体が揺れすぎて照準が合わない! あとあの態勢じゃ腹筋が持たない!」
「わかった! じゃあこのままの態勢でもう一回構えて!」
再び彼が
「これならどうかな!」
その掛け声と同時に彼は少しだけ飛び、空中で方向転換してヤツを真正面に捉えた。そして着地した直後、後ろ方向へ大ジャンプした。
「とう!!!」
少年は私をおぶったまま、後方へ宙返りジャンプしたのだ。世界が縦方向に回転し、地面、月、地面、月、と交互に流れていく。そしてジャンプの頂点に来た時その回転はとまり、視界の向こう、全速力で走るヤツの姿を捉えた。
彼の右肩を土台に構えた照準にブレはない。走りによる振動によってそれがブレることもない。後は私が狙うだけだ。二秒後には地面に設置する。
私は冷静に照準を合わせてトリガーを引いた。だが無情にも弾はヤツの遥か後方へ着弾した。
「おしい!」
「ごめん!」
「気にしない! また走るよ!」
着地と同時にまた駆け出した。ヤツは着地のその瞬間を狙って飛び込んできていた。間一髪でそれをかわした少年も凄いが、熊の方も我々の方をよく見ている。高速移動で視界の優れない中、仕留められそうなタイミングを確実に狙ってきている。
「移動しながらの射撃が初めてだったから! 弾道が読めてなかった! ごめん! あともっと狙いを定める時間がながければなんとかなるかも!!」
自身が移動しながら移動している物体に狙撃することは非常に難しい。頭では分かってはいたのだが聞くのとやるのでは全く違う。あんな短時間では狙いも十分に出来ないし、今はとにかくその時間を稼ぐことが大事だ。
「さっきみたいな方法でもっと高く飛んでくれたら、次こそは当ててみせる!」
だが甘えは言ってられない。当てられなければ未来はない。次の一撃、命に変えてでも当ててみせる。
「オオケーイ、チエルノ! もっと高くだね! それじゃあ思いっきり行くよ! 覚悟はいいね!」
少年が加速した。MIの駆動音が高く唸った。
「覚悟ならもうできてる!」
直後、ルートを直角に折れ崖を下った。その先には盛り返すように上り坂の崖があった。反動をつけて一気に坂を登りきって――
――私達は文字通り、飛んだ。
地面がみるみる遠ざかっていく。その高さ50メートルはあるだろうか。上昇する勢いで体が浮き上がって、気がつけば彼の背中から離れてしまっていた。手を伸ばしても届かない。
私の体は完全に宙に浮いていた。
私の少し下を飛んでいる彼は天地逆さまのまま私に振り返り、大手を広げて叫んだ。
「チエルノ! 君なら出来るよ!」
物凄い風切り音の中、彼の声だけが明瞭に届く。その言葉に、私の中で何かが弾けた。
私は浄化空砲を胸に抱くように構えた。
――体が徐々に降下していく。このまま地面に叩きつけられれば私の命はないだろうが、しかしヤツに照準を合わせる時間は十分だった。
――この無重力状態なら私の半身が役にたたなくとも関係ない。
――
――そこには、すでにヤツの脳天が鮮明に映し出されていた。
距離40…
35…
30…
25…
そして必中の20メートルになった時。
――私は撃鉄を引いた。
不可視の弾丸はヤツの脳天を貫通し、胴体まで達したあと、爆散した。
私の体はそのまま地面へと向かっていく。
最早私に体力は残っていない。
出来ることは何もない。
あの岩盤に叩きつけられば無事では済まないだろう。
だがなすべきことはした。
自分の責任を果たしたのだ。
これも全て彼のおかげだ。
最後にこんな体験が出来るなんて夢にも思っていなかった。
彼の名前は、ハヤト。
もっと早く君と出会っていたら。
私の人生は違ったものになっていたかも知れない。
叶うのならば。
また来世で君と――
「すごいよチエルノ!!」
急に私の体が軽くなった。
浄化空砲だけが地面に向かって落ちていく。
眼前に彼の眩しい笑顔があった。
私の体は彼の両腕によって受け止められていた。
「ねぇチエルノ! 僕のバディになってよ!」
彼はそう言って何度も、何度も高く飛んだ。
水平線の向こう、空が明るんでいる。
夜明けがもうすぐ迫っていた。
「そしてあの場所へ行くんだ! 君と僕の二人で!」
力なく振り向くその先に、あの場所があった。
かつて私の仲間を殺した自然が。
私が憎んだその場所があった。
「考えてみてよ! ワクワクしないかい!」
飛び上がる度に網膜に飛び込んでくるのは皮肉な光景だった。
立ち上る橙の太陽光を受け、その場所はキラキラと光り輝いていた。
数多の生物の胎動が、眩しく輝くのだ。
「そんな素敵な事って他にあるかい? だってこの世界は――」
望んで行きたいなんて思ったことはない。
私はその場所を憎んだ。
そこには悲しみしかない。
世界の中心があそこなら。
この世界は――
「こんなにも美しいんだから!」
――その瞬間。私の景色が
世界を美しいなんて思ったことはなかった。
憎しみと悲しみに支配された私の心がいつしかその目を曇らせてしまっていたのだろう。
涙で滲んだ景色はダイヤモンドのように光り輝いていた。
最早なにが映り込んでいるのかわからない。
だけれど数多の色が宝石のように弾けるそれにふさわしい言葉は一つしか無かった。
「ねぇチエルノ。僕のバディになってよ」
彼の腕に抱かれて見た景色。
それは、月夜の
全てが眩しく、キラキラと輝いている。
「僕は君とあの世界を旅したいんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます