第12話 密猟者たち
それから一週間が経過したわけだが。
ジオドール・テセラ、帰らない。
そして諦めない。
森の見回りをしていればご一緒しましょうとどこからともなく沸いてくる。
村を訪ねれば食事に誘われる。
家に閉じこもって薬草を煎じていればお話を聞かせていただけませんかとやってくる。
何なんだ。
本当一体何なんだ。
村の女性陣の中には、若魔女さんは迷惑してるのわかるからこういうことを言うのもなんだけど、と前置きした上で、あれだけ熱心に口説かれたら私なら悪い気はしないかもしれないねえ、なんていう声もあった。
なるほど。
確かに彼の気持ちが本当に恋心故のものだったのなら、もうちょっと私の心証も悪くはなかったのかもしれない。
だが、彼の行動にはどうにも気持ちが伴っていないように私の目には映っていた。
行動だけならば恋に溺れた男のようであるかもしれないが、それすらもすべて彼の場合演技じみて思えてならないのだ。
下手な役者が大げさに恋を演じて見せているだけ、といったような。
そういった類の、不愉快な空々しさが彼の言動には滲んでいる―――ように、思える。
そんな男に対して好意的な目を向けろというのが無理な話だ。
それに、エリオット・スターレットの言っていた「違和感」の話も気になっている。
私に付き纏うことで得られる彼の利点とはいったい何だろう。
他に目的があるとしたら、一体彼は何を狙っている?
「――……何事も起きないと良いのだけれど」
ぼやくように呟いて、私はため息を一つ零した。
その日も、村を訊ねた帰りに私はジオドール・テセラに捕まっていた。
とはいえ、村で遭遇した場合彼が私に付き纏うのは村の中でだけだ。
馬に乗ってしまえば振り切れる。
だから、今日も用事を済ませた私はさっさと馬に乗ってしまおうと思っていたのだが――…その日はいつもと少し様子が違っていた。
なんとジオドール・テセラも馬を用意して待ち構えていたのだ。
「魔女殿、ご用事を済ませたなら、これからご一緒に遠乗りなどいかがでしょう。近くの街にて、貴方の白雪のような髪によく似合いそうな飾り細工を見つけたのです。貴方の髪を彩る栄誉をどうか私にお与えくださいませんか」
「やらなければならないことがありますので」
「魔女殿の職務に対する真面目さにはひたすら頭の下がる思いです。ですが、うら若き乙女の時を縛ることなど何物にも許されるはずがない」
大丈夫ですよ、と言いたげな面持ちでジオドール・テセラは気障っぽく輝く瞳を私に向けている。
「…………」
一方、そんなジオドール・テセラを見つめ返す私の眼はきっと死んだ魚のように澱んでいるのだろう。
―――言葉は通じているはずなのに、意思の疎通には失敗している感が半端ない。
私は別に、仕事に縛られて自由な時間を持てずにいるわけではない。
娯楽を知らず、ただ日々を仕事に捧げて生きているわけでもない。
純粋に仕事と彼の誘いとを比較検討した結果、仕事をしていた方が良いと判断しているだけに過ぎない。
だというのに、そんな私の拒絶がこのジオドール・テセラという男には通じないのだ。
「テセラ様」
「なんでしょう?」
「私が役に立つ男が好きだということはご存知でしょう?」
若干の険のこめられた視線を向ける。
それをどこ吹く風に聞き流して、ジオドール・テセラは言葉を続ける。
「ええ、ですからこそたまには私に同行して、私の目利きのほどを確かめていただきたいのです」
ああ言えばこう言う、である。
そういう役の立ち方は求めていなかった。
だが、これまでなんだかんだ彼からの誘いは断り続けている。
一度付き合ってやった上で、そういう役の立ち方は求めていないとはっきり言った方が良いだろうか。
たぶん今の段階で同じことを言っても、試すこともなく無碍に断ることもないでしょう、と粘られるのが目に見えている。
それに、隣街に付き合うぐらいならば、そう妙なことにもならないだろう。
それなら、と渋々承諾しかけて――…
「、」
何気なく見上げた先の彼の双眸の色合いに、喉元までこみ上げていた了承の言葉が小骨のようにチクリと不可解な痛みと共にひっかかった。
「魔女殿?」
なんだろう。
今の眼。
双眸の奥に、苛立ちや焦燥の色が煮立つように浮かんでいた。
私への好意など欠片も見当たらない、うんざりとしたような色。
もしかしたらそれは、彼が初めて私に見せた素の顔、であったのかもしれないが。
空々しく甘たるい素振りと、その色の落差が妙に心をざわつかせる。
「……ごめんなさい、私、戻らないと」
私は身を翻して馬の元へと向かいかけ――
「お待ちください、今日こそはどうか」
ぱしりと、手首を捕まれた。
振り返る。
「いつも貴方にはすげなく断られてばかりで、私の胸は張り裂けてしまいそうだ。貴方に焦がれる男の些細な我儘に付き合ってはいただけませんか。飾り細工に気乗りしないのならば、散策はいかがです? 喉は乾いていませんか? 王都でも美味だと話題の茶葉も用意してあるのです。ね、魔女殿。どうか私と過ごすと仰ってください」
取り繕うような、笑みと物語の中で語られるような気障な口説き文句。
それと不釣り合いなほどに、私の手を取る彼の力は強い。
その双眸には、いつもの気障たらしい色に一滴、先ほど見た焦燥と同じ色が滲んでいるような気がした。
「………、」
どうしてそんな風に思ったのかは自分でもわからない。
ただ、気付いたら声に出してしまっていた。
「貴方、……もしかして、私を森から引き離そうとしているの……?」
「ッ!」
反応は、あまりにも顕著だった。
ジオドール・テセラの顔色が変わる。
「そんな、まさか、私はただ純粋に魔女殿と」
上擦った声音はわかりやすい自白めいていた。
この男は、私の眼を晦ませるための囮だ。
彼の言動に空々しさは、やはり演じているからこそのものだったのだ。
私に寄せられた言葉のすべてが嘘だった、ということへのショックのようなものはちっともなかった。
むしろ、納得だけが胸にある。
問題は、何のためにこの男が私の気を惹こうとしていたのか、だ。
ハッとして私は周囲を見やる。
いつもなら少し離れたところで控えているはずの彼の従者たちの姿が見当たらない。
「っ……!」
厭な予感がする。
彼が私を森から遠ざけようとしていたのならば、答えは森にあるはずだ。
私は強引に彼の腕を振り切って、馬へと飛び乗る。
背後から未だ何事かぐちゃぐちゃと言い募るジオドール・テセラの声が聞こえたような気がするが今はそれを気にしている余裕はない。
「誰か! 誰かいる!?」
「若魔女さん?」
「どうしたんだい、そんなに慌てて」
大声をあげれば、すぐに家々の中から村人たちが姿を現す。
人目があれば、彼も強引な手には出れまいという思惑もあった。
「誰かすぐに騎士を呼んで! 場所はわかり次第狼煙で知らせると伝えて!」
「お、おうわかった! おい、急げ!」
弾かれたように村人たちが動き始める。
本当なら、ジオドール・テセラの身柄も抑えておきたいところだがさすがにそれは村人たちの手には余るだろう。
ジオドール・テセラはああ見えて騎士だし、腰には剣も帯びている。
下手に手出しをすれば無駄に怪我人を出してしまうことになりかねない。
後回しだ。
立ち尽くすジオドール・テセラを尻目に、私は馬を走らせて森へと向かう。
異変は、森に入ってすぐにわかった。
森が、静かだ。
森全体が息を潜めているかのように静まりかえり、普段なら聞こえるはずの虫の声や鳥の声がしない。
駆足から
速度を落として森の様子を伺う。
森全体が何か不穏な気配に怯えるように、静けさを湛えている。
どこかで何かが起きているのは間違いない。
馬を、止める。
深呼吸を一つ。
瞼を下ろす。
「―――」
口の中で小さく呟く呪。
腹の底で渦巻く厭な予感に蓋をして、思い描くのは凪いだ湖面だ。
次第に呼吸のペースをゆったりと落として、私という人間の輪郭を暈していく。
意識を限りなく薄く伸ばして、身体の末端から小さく砕けて森に溶け込んでいくようなイメージだ。
自分が自分ではなくなっていくことへの恐怖に手綱をかけて、私は慎重に自身を希釈する。
異変が起きているのは、どこ。
探る。
探る。
探る。
私が森なのか、森が私なのか。
人の身体が異変を痛みで訴えるように。
森を身体になぞらえて、異変の在処を探る。
「あった……!」
深く潜り込んだ意識の水底から、浮上するのは一息だ。
森とのつながりが深ければ深いほど、離脱には痛みが伴うものの今は些細な問題だ。
脳を揺らす頭痛に顔をしかめつつ、私はすぐに手綱を引くと馬の腹を軽く蹴って駆け出した。
この辺りのはず、と周囲の様子を確認すべく登った高台、見下ろした先に広がる光景に私は思わず「嘘でしょ……」と力なく小さく呟いていた。
まず目に飛び込んできたのは必死の形相で馬を駆る男たちだ。
編隊を組み、木々を縫うようにして馬を走らせている。
おそらくはジオドール・テセラの従者たちだろうが、数が合わない。
私が把握しているよりも、多い。
そして、その背後を追う白銀の魔獣。
るグァアアアアアウウウウ!!!
聞いたものの心を凍てつかせるような咆哮が大気を揺るがす。
ある程度の距離があるはずなのに、びりびりと大気を揺らす殺意がこちらにまで伝わってくる。
「ルシャールを怒らせるなんて……」
厄介なことになった、と小さく唇を咬む。
ルシャールというのは狼に似た大型の魔獣だ。
特徴としては首回りから肩にかけてはえた飾り羽根と、肩の付け根から伸びる猛禽めいた翼だろうか。
大きさは小型の馬ほどからになる。
今彼らを追っているのは遠目にも随分と大きく育った個体であるように見えた。
おそらくは雄だろう。
雄の方が雌よりも好戦的で、執念深い。
縄張り意識が強いため、人間の方から接触しない限り、こうしてトラブルに発展する例は少ないのだが……。
「こちらの目を盗んで勝手に深層に立ち入ったのね……!」
忌々しく呟いて舌打ちを一つ。
あの連中は一体何をしたから、あれほどルシャールを怒らせたというのか。
この辺りはすでに森の中層に差し掛かっている。
このままの勢いだと、ルシャールが森の浅層にまで突入してしまう。
それは、まずい。
本当に、まずい。
迷い込んだ程度であれば、私が誘導して深層に返すことも可能だが、これだけ怒り狂っていると、手当たり次第目についた人間を襲いかねない。
そうなると、完全に討伐対象だ。
人の不用意な接触で魔獣を怒らせた上に、その魔獣を狩る、なんていう人の身勝手さを押し付ける結果は避けたい。
なんとしてでも足を止めなければ。
「ごめんね、貴方には無茶をさせるわ」
馬の首を撫でる。
いつも、私に付き合わせてしまっている。
それから、すぅと深呼吸で覚悟を決めて――…私は一息に高台から駈け下りると魔獣に追われる彼らの目前へと飛び出した。
手綱を操り、彼らと並走する形になる。
「貴方たちは早く逃げなさい!」
そう言い捨てると同時に、少しずつ馬の足を遅らせる。
私が
背後から怒り狂った肉食の魔獣が追ってくる中、速度を落とすなんていう無茶な命令にも応えてくれる愛馬には本当感謝の気持ちしかない。
風向きを確認する。
大丈夫だ。
この位置取りなら煙幕が使える。
懐から取り出した煙玉を背後に向かってバラまく。
上手いこと魔獣の手前で地面に接触し、その衝撃で煙玉がぱす、ぱすぱすぱす、と軽い音をたてて弾けていく。
もうもうと立ち込める重い白の靄には鎮静効果がある。
人であれば、まともに吸い込めば意識を失いかねないほどの強さだ。
あれだけの勢いで疾駆しているのだ。
いかに魔獣といえど、呼吸は止められまい。
実際、靄を抜けて姿を現したルシャールは随分と勢いを落としているように見えた。
足取りが重く、首回りで鬣のように逆立っていた飾り羽根が寝始めている。
自らを鼓舞するように吠える声からも、先ほどに比べると覇気が抜けている、ような。
よし。
少し、馬の足を速める。
追手との距離を十分に保ったところで、今度は真後ろに向けて落とすように蔓草の種をぱらぱらと落としていく。
これは私が有事に備えて普段から持ち歩くようにしているものだ。
私の魔力に十分に馴染んだ種子は、共感・同化のパスを一から構築する手間を省略することが出来る。
時間を早回しにでもしたように私の魔力を餌に生い茂る蔓草の繁みが、ルシャールの四肢を絡めとり、その動きを阻む。
ゥルグォオオオオオオオン!
苛立たし気な咆哮を上げるルシャールだが、確実にその勢いは削がれている。
元より、ルシャールは縄張りに固執する性質の魔獣だ。
ここは森の中層。
すでに彼の縄張りを超えている。
もう少し落ち着けば、自らの縄張りに戻ることだろう。
―――そんな、安堵が良くなかったのかもしれなかった。
蔓草を通して、ルシャールの精神に働きかける。
「…………?」
何か違和感が、と思った次の瞬間、ドン、と横からの衝撃に身体が浮いた。
「ッ……!?」
慌てて目を開く。
随分と遠くに、愛馬の背が見えた。
伸ばすが、届かない。
その手に、手綱が未だ絡みついたままなのに気づいて肝が冷える。
このままだと、馬に引きずられる。
「この……ッ、」
靴底が地面に触れる。
がりがりがりと地を削る音と共に土煙が上がる。
愛馬の苦し気な嘶きが耳を打つ。
ぎちぎちと手首に絡みつく手綱。
手首が折れるか千切れるかしそうな痛みに顔を顰めつつも、なんとか手首に絡みついていた手綱を振りほどくことに成功した。
手綱に引かれる形で保たれていた態勢がとたんに崩れるのに、この勢いで下手に手をついてもまずいだけだと反射的に身体を丸めた。
肩を地面に強く打ち付け、反動で腰から下が跳ね上がる。
地面の上で何度かバウンドして、視界がぐるぐると回る。
痛みを感じる余裕すらなかった。
ただただ、揉みくちゃにされて衝撃に息が詰まる。
土埃の酷く舞い上がる中、かほっ、と咳が一つ零れて、それでようやく呼吸を思い出した。
身体を丸めて、何度か咳き込む。
気持ちが、悪い。
全身が熱く痺れて、指先が震える。
まだ、視界がぐらぐらと揺れて霞んでいる。
今、何が、起きた?
地面に投げ出されたままの態勢で、ゆっくりと瞬く。
何かが、横から、ぶつかって。
上手く思考がまとまらない。
頭の中が、真っ白だ。
落ちる寸前に何をしようとしていた?
何を考えていた?
「……っ、ぁ、ッ、……ふ、」
肺が痙攣する。
呼吸すら儘ならない。
じゃり、とすぐ近くで足音がした。
「ったく、魔女はあの騎士が惹きつけておくって話じゃなかったのかよ」
毒づくような声が、上から降ってくる。
誰かが、私を見下ろしている。
顔を見ようと首を持ち上げかけて、全身に走った痛みに反射的にびくりと身体を丸めた。
「さっさとその蔓草を斬っちまえ! どこから生えたんだ……薄気味悪い。時間ねーぞ、これまでさんざん無駄にしてんだ! いつまでもこんな場所でチンタラしてられっか!」
ガラの悪い声が恫喝するように響いて、それに応じる声が複数あがる。
幾人もの足音が交じり合って響き、やがてルシャールの威嚇するような唸り声がそれに混じる。
だめ。
やめて。
その子をそれ以上興奮させないで。
制止の声をあげたいのに、上手く声が出ない。
「おい、グラント! もう一度こいつを興奮させろ! 森の外まで追ってきてもらわねェと」
「わかっているとも、ボス」
せめて何が起きているのかを見届けようと、そろそろと慎重に視線をルシャールに向ける。
蔓草に絡めとられ、低い唸り声をあげるルシャールを男たちが囲んでいた。
その四肢を絡めとっていた蔓草の大半は、すでに男たちの手で薙ぎ払われてしまっている。
そんなルシャールの目の前に、グラント、と呼ばれた男が立った。
懐から何かを取り出す。
大振りの石のついたネックレス、だろうか。
次いで響いたのは、他者の精神に干渉する呪だ。
「―――あ」
思い、出した。
馬から落ちる寸前。
蔓草を通して触れたルシャールの心にはふつふつと煮え滾るような純粋な怒りの名残が残っていたが――それはあまりにも純粋な怒りだった。
何かに対する怒り、ではない。
ただ、
まるで、第三者からその感情だけを投げ込まれたかのように。
「……っ、あなた、たち……ッ、」
ごほり、と咳が出る。
苦しさに目元に涙が滲んだ。
こいつらは、魔獣を狩るつもりだ。
魔獣を怒らせ、森の外に連れ出そうとしている。
それならば森の法に触れないとでも思っているのか。
とんだ見当違いだ……!
この森で魔獣を狩ってはいけない。
ただし、森の外で人に危害を加える魔獣であるならば討っても構わない。
それは、事実だ。
だが、この森において一番大事なのは森の王を怒らせない、ということだ。
森の深層で暮らす魔獣を術で操り森の外に誘き出して殺す、なんていう所業が許されるわけがない。
法の穴を潜るだとか、そういう話ではないのだ。
あくまで人は、この森においては王の機嫌を損ねぬように生きる必要がある。
この森の法はそうした経験の積み重ねから生まれたものであり、人が定めた法のように解釈によって答えが変わる余地などない。
王を怒らせてはいけないのだ。
る、る、グギャォオオオオオオオウ!!!
低く唸るような声から、一気にルシャールのボルテージが上がる。
前足ががりがりと地面をひっかき、首元を覆う飾り羽根がばりばりと逆立っている。
ぶつ、ぶつ、と聞こえるのはルシャールを戒めていた蔓草が引きちぎられる音だ。
「おい、来るぞ! 早く馬に乗れ!!」
「ここで喰われてたまるか!」
「騎士の連中のとこまで誘きだすぞ!!」
男の号令に従って、ルシャールを囲んでいた男たちが次々と再び馬に乗って走りだす。
「だめ、追ってはだめ……!」
なんとかして、食い止めなければ。
集中が一度途切れたせいでか細く断線したパスを通して、蔓草に魔力を供給する。
何とかして、止めなければ。
あいつらは、騎士たちに魔獣殺しの片棒を担がせるつもりだ。
人と森との境界を守る騎士が、魔獣殺しに加担するようなことを見逃してはいけない。
「っ、、……、ぐ、」
知らず知らず、呻きが零れる。
断ち切られた蔓草が、再びしなやかに伸びてルシャールの四肢に絡みつく。
けれど、足りない。
届かない。
ばつんッ、と蔓草が弾けとぶ音が響くと同時に、ルシャールが解き放たれた矢のように地面を蹴って駆け出していく。
後に残されるのは、ボロ雑巾のように地面に転がった私だけだ。
「…………こな、クソッ、」
毒づきながら、ゆっくりと身体を起こす。
全身が痛くて、泣いてしまいそうだ。
否、もしかしたらもう泣いているのかもしれない。
痛みに自然と息があがる。
ぜいぜいと荒い息をついているところで、ぶる、と小さな嘶きが響いた。
「あ…………」
私の、馬だ。
戻ってきて、くれたのか。
寄せられた鼻先を、痛む腕を持ち上げてそっと撫でた。
「……ありがとう。あなたは、怪我してない? 大丈夫?」
返事のような嘶きが返る。
それから、ゆっくりと前足を折って身体を屈めてくれた。
「いい子ね、本当に良い子」
馬の背に手をかけ、ゆっくりと身体を起こす。
信じられないぐらいに全身が痛い。
痛すぎてもうどこが痛いのかがよくわからない。
というか、痛みを通り越してじんじんと熱を訴え始めた。
けれど、まだ立てる。
私の手は、なんとか手綱をつかむことも出来そうだ。
「手足の骨は、折れてない……かな」
もしかしたら、肋骨だとかその辺はやってしまっているかもしれないけれども。
ずりずりと、這い上がるようにして馬の背に乗る。
ぐったりと首に顔を伏せて、手綱を引いた。
馬が身体を起こす振動ですら、全身に響いて痛みを訴える。
この状態で早駆けなんかしたら、死ぬほど痛いんだろうな、という予感があった。
うっそりと顔を顰めつつ、腹の底から沸き起こる怒りと、全身の痛みが変な具合に反応してふは、と我ながら殺意に満ちた笑いが零れた。
「あいつらぜったい、ぶっころす……!」
走る。
村に向けて、私は走る。
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