第7話 夜を駆ける
『森』の狩猟区外で罠が見つかってからしばらくが過ぎた。
結局罠を仕掛けた持ち主は見つからなかった。
回収した罠は今も騎士たちの詰め所で保管されたままだ。
こちらとしての対処も、近隣の村々で各自罠を仕掛ける際には現在地の確認を念入りに行うように、という注意をするだけに留まった。
それから少しの間は警邏の数を増やしたりなどもしていたものの、それ以降狩猟区の外で罠が見つかることもなかったことから私たちもすっかり通常通りの仕事に戻った。
そしてそれは、そんなある日の夕刻のことだった。
そろそろ夕食の支度をしようか、なんて考え始めたタイミングで、ドアがけたたましく鳴らされたのだ。
咄嗟に脳裏を過ったのはあの罠のことだ。
また狩猟区の外で罠が見つかったのかと慌てて迎え出た先、そこに立っていたのは森の騎士の一人だった。
「若魔女さん、村の子どもが発熱して様子がおかしいんだ、見に来てくれないか!」
「わかりました、すぐに行きます!!」
私は手早く救急箱を開いて中身の確認を行う。
よし、大丈夫だ。
全部そろっている。
確認すると私は救急箱を携えてすぐに外に向かった。
この辺りでは『魔女』が医者の真似事をすることが多い。
最寄りの街から医者を呼ぶよりも、『魔女』を呼んだ方が早いからだ。
とはいっても、私に出来るのは薬草の処方や簡単な怪我の手当ぐらいだ。
切ったり縫ったりが必要な怪我や病気の対処は難しい。
そういう時には、最寄りの街から医者が駆けつけるまでの時間稼ぎが私の役割となる。
「グレイソン先生は?」
「もう来てる! たまたま近くに来てたんだ」
「グレイソン先生から何か言伝はないですか?」
「特には何も。ただ若魔女さんにも来てほしいって話だ」
思わず眉間に皺が寄る。
グレイソン先生、というのがその最寄りの街にいる医者の先生だ。
名前の通り、というわけではないのだろうが、白に染まりかけた優しいグレイの髪をした老年の優しい先生で、腕も良い。
先代の養母の代から薬草の卸し先としてお世話になっている。
こういう時、グレイソン先生が私を呼ぶ理由の八割は急ぎで薬草を届けてほしい、というものなのだが……。
いや、今は考えるよりも急いだ方が良い。
私は薬草の入った救急箱を鞍に固定すると、急いで馬を走らせた。
村についてすぐに案内されたのは、これまでにも何度か訪ねたことのある民家だった。
この家には確か、腕白な男の子、トマスがいるのだ。
日頃からやれ怪我をしただの、風邪を引いただの、お腹を壊しただの、様々な理由で呼ばれることが多い。
家に入ってすぐのテーブルでは、野良仕事を終えて戻ってきたところであろう父親のハンスが憂鬱そうな顔で項垂れており、その傍では何故か額に汗を浮かべた聖騎士、エリオット・スターレットが水を飲んでいた。
「…………」
つい、玄関をくぐったところで足を止めてしまう。
ああ、そうか。
厩に止めてあった馬はこの男のものなのか。
いかにも軍馬というような風体の、どっしりとした大きな黒毛馬だった。
こんな辺境の村には似つかわしくない、やたら立派な馬なので少し気になっていたのだ。
「…………、」
「若魔女さん?」
「あ、ごめんなさい」
私の視線に気づいてエリオット・スターレットが顔を上げるのと、二階へと案内しようとしていた森の騎士が訝し気に私の名前を呼ぶのはほぼ同時だった。
そのタイミングに救われたような気すら、する。
あの、愛人どうのこうのの話以来この男とは顔を合わせていなかったのだ。
慌てて二階へと続く階段を上りながら、小声で聞く。
「どうして彼がここに?」
「隣村の方にグレイソン先生が来てるって聞いてね。団長さんが呼びにいってくれたんだよ。先生が街に戻る前に捕まえられて良かったよ。よっぽど急いでたんだろうな、先生、ここに着いた時には顔が真っ白で」
「わあ」
あの馬で全力で駆けたなら、そりゃあ怖いだろう。
普段私たちの乗る馬に比べて、あの軍用馬は随分と大きい。
1.5倍はあるんじゃないだろうか。
だがきっと、彼があの黒馬を駆って走る姿は随分と絵になるだろう、とも思った。
……まあ、きっと彼なら白馬に乗ってるんだろう、なんて考えていたのは内緒だ。
こんこん、と軽いノックをして、子ども部屋へと足を踏み入れる。
雑多な我楽多とベッドが並ぶ小さな子ども部屋は、随分と多くの人でいっぱいになっているようだった。
ベッドの中に横たわり、真っ赤な顔で魘されているのはトマスだ。
枕元でトマスの額に浮かぶ汗を拭ってやっているのはその母親のメアリさん。
そして、その隣で難しい顔をしている老齢の男性こそが、グレイソン先生だ。
私に気づくと、グレイソン先生が顔を上げて少しだけ表情を明るくする。
「ああ、来てくれたか」
「はい。それでどうしたんですか、先生」
「それが、どうもわからんのだ」
「わからない……?」
思わず繰り返した言葉に、グレイソン先生は頷く。
「熱が出たと聞いてな、流行り病かとも思ったが熱冷ましの薬草が効かん。身体を冷やしての熱にしては意識が混濁している」
「食あたりはどうですか?」
「先ほどからメアリにも事情を聞いているんだがな。何も変なものを食べさせた覚えがないという。とりあえず先に胃を洗った方が良いと思って塩水で吐かせもしたんだが良くならん」
「他に似た症状の出ている人はいませんか? 似てなくても良いです。最近この辺りで体調を崩したという人は?」
「近くの村で流行り病の子はいたが、どうもそれではなさそうだ」
「そちらの子は薬で良くなったんですか?」
「ああ。その帰りがけにあの騎士団長に捕まってな。えらい目にあったぞ」
「災難でしたね」
ふ、とお互い呼気のみで笑い合う。
だが、状況は切迫している。
ベッドの中でぐったりと横たわるトマスの状況は、贔屓目に見ても良いとは言えない。
「私一人では手に負えなくなったもんで、お前さんを呼んだんだ。どうだ、何かわかるかね」
「失礼しますね」
私はベッドサイドに屈みこむと、魘される子どもの様子を観察する。
手で額に触れると、燃えるような熱が伝わってきた。
時折唇が開いて何事か呻くものの、その声は不明瞭で上手く聴き取ることが出来ない。
「服をはだけても良いですか?」
「ええ、ええ、お願いします、どうかこの子を助けてください」
母親の許可を得てから、そっと子どもの前開きのシャツを開く。
火照った肌に汗が浮いている他には、特に変わったところはない。
流行り病によくある発疹の類もなく、肌は綺麗なままだ。
熱の原因になるような外傷もない。
指を滑らせ、下腹のあたりに乗せる。
胃腸がぎゅるぎゅると鳴っている、というようなことはない。
「吐き戻したり、腹を下したりといった予兆はありませんでしたか?」
「ありません……ああ、どうしてこんなことに……」
母親の悲痛な声音に胸が締め付けられる。
目の前で苦しんでいる子どもがいるというのに、何もすることができないという焦りにじりじりと眼の奥が熱を持つ。
「―――……」
深く、息を吐く。
パニックになってはいけない。
こういう時こそ、冷静でいなくてはいけないのだ。
私は養母からたくさんの知識を叩き込まれた。
養母は私に必要な知識はすべて伝えてくれた。
それだけは確かだ。
もし私がこの子を助けられないようなことがあったのなら、それは『魔女』の力が及ばなかったからではなく、私の力不足だ。
私が、持っているはずの知識を上手く運用することが出来なかったが故に目の前の子どもを死なせてしまうことになる。
それは私にとって何よりも恐ろしいことだった。
「服を、脱がしますね。手伝ってもらえますか?」
「私が手伝おう」
グレイソン先生と二人で、汗に濡れた服を脱がしていく。
ついでに身体を清めた方が良いだろう、とメアリさんに用意してもらったタオルとお湯でトマスの身体を丁寧に拭き清めながら触診を行う。
「何かわかるか」
「ひっかかるものは特に……」
腕や足元に小さな傷が多いのは、子どもならではの腕白さ故だろう。
木の枝や、鋭い草の葉で擦ったような傷があちこちにある。
着替えと触診を終えたトマスに布団をかけてやりながら、私は再びメアリさんへと質問を行う。
少しでも、ヒントが欲しい。
「これだけ症状が悪化したのはいつからですか?」
「つい先ほどです。夕食の支度をしようと思って家に戻ってきたらこの子が魘されていて……」
「ただ、昨夜から微熱はあったらしい」
「微熱が?」
「は、はい」
微熱の予兆は、あった。
そこからこれだけ急激に悪化するような、病。
もしくはそれに類じた何か。
必死に頭の中にあるはずの知識を探る。
「だから今日は外に出ずに、家の中にいるようにと言いつけてあって……ああ、こんなことになるのなら傍についているんだった……!」
母親の嘆きに胸が締めつけられる…………って。
「待って、この子は今日はずっと家の中にいたはずなんですね?」
「え、ええ」
「でも、手足の傷は今日のもののはずです」
「えっ……」
もう一度、布団をばっと捲ってトマスの腕を取る。
七分丈の寝間着の裾から覗く腕のあたり、擦り傷や微かな切り傷はやはり新しいように見える。まだ傷口が乾いていない。
「……ッ!」
もしかして。
「メアリさん、この子の靴は!」
「今持ってきます!」
ばたばたとメアリさんが駆け出していく。
その間に私はトマスの足の裏を覗く。
つるりと、まだ柔らかさの残る子供の足だ。
駆けまわり、少しずつ硬く厚くなりはじめた足裏の皮膚を注意深く撫でていく。
ふく、と。
少しだけ、感触の異なる膨らみがあるのがわかった。
厭な予感にじわりと背筋が冷える。
「これ、この子の靴です!」
駆け込んできたメアリさんから受け取った布靴をひっくり返す。
柔らかな木の皮を靴底に、厚手の布で作った布靴だ。
その右足の底に、細くしなやかな針のようなものが残っていた。
位置も、トマスの足裏の小さな膨らみと合致する。
最悪だ。
「―――レニグレラ茸です」
「なんだって!?」
グレイソン先生が動揺した声を上げる。
「こんな子どもが一人で森の深層に踏み入ったって言うのか!?」
「トマスはそんなことしません! 森の深いところに入ってはいけないって言い聞かせてます……!!」
「でもこれは確かにレニグレラの棘ですし、症状も合ってます」
「確かに…………」
「どうして……っ!」
メアリが泣き崩れる。
それも当然だ。
この辺りで暮らす人間なら、レニグレラ茸の恐ろしさは身をもって知っている。
レニグレラ茸。
見た目は至って普通の、ポピュラーな無害そうな茸の姿をしている。
白っぽい軸に、茶褐色の傘。
食用の茸に良く似た姿をしており、実際に食べても害はなく、むしろ味は一般的な茸よりも良い方だとも聞く。
だが問題は。
このレニグレラ茸はまるで暗器を仕込む殺し屋のように、柔らかな柄の中に鋭い一本の毒性の高い棘を潜ませているのだ。
ふくふくと柔らかな傘肉は指で触れても吸い込まれるように形を変え、柄は縦方向の圧に弱くいともたやすくほろほろと裂ける。
そんな中に、鋭い棘があるのだ。
レニグレラ茸だとわかっていて採取しようとしても事故の多い茸だが、一番多い被害はこの茸の存在に気づかずに踏んでしまって、というものだ。
大きく育ったレニグレラ茸などは、下手に踏み抜くとその棘が足の甲を貫くこともあるという。
さらに、レニグレラ茸はその毒性もまた質が悪い。
最初はほとんど痛みもないのだ。
もちろん物理的に棘が刺さる痛みは多少あるだろう。
だが、それだけだ。
だからレニグレラ茸の棘の刺さった犠牲者は、その後も幾らか歩きまわる。
毒の効果が出るのは短くて数時間、長くて一日ほどの時間をおいてからだ。
棘を刺したことなど忘れた頃に突如高熱に襲われ、意識が混濁し、そのまま命を落とすことになる。
そして、その死んだ犠牲者の肉を養分にまたレニグレラ茸が育つ。
森の深いところで目立つ外傷のない動物の死体を見つけたら警戒しろ、と言われているのはそのためだ。
他に理由がなく死んでいるのならば、レニグレラ茸で死んだものかもしれず、つまりその死体の近くにはレニグレラ茸の群生地があるかもしれないのだ。
また、同様に森の中ではそれらしき死体を見つけたら状況が許す限りは死体を焼くことが推奨されている。
その死体の養分でレニグレラ茸の群生地が増えるのを防ぐためだ。
「子どもの足で、森の深いところまで入れるとも思えません。メアリさん、森の騎士に村の人たちに警告するように伝えてください。レニグレラ茸の群生地が近くにある可能性があります」
「わかりました……!」
「先生、フニウラとユレノハを1対2の割合で煎じたものをお湯に解いてトマスに飲ませてください。時間稼ぎになるはずです」
「わかった、君はどうする」
「私はすぐに村長に連絡してレニグレラ茸の解毒薬を貰ってきます」
こういった事態に対応するために、『魔女』は近隣の村々に非常用の薬草を預けているのだ。
ベッドの中で荒い息をついているトマスへと視線を落とす。
まだ、危機は脱していない。
けれど、光明は見えた。
レニグレラ茸の棘はトマスの体内に潜り込んではいなかった。
せいぜい、靴裏を貫いた棘の先端が浅く足裏を傷つけた、という程度だろう。
それなら、まだ間に合う。
解毒薬を飲ませれば、まだ助かるはずだ。
「……、大丈夫。助けるからね」
そう呟いて、私は部屋を出て――
「解毒薬が、ない…………?」
村長から聞かされた言葉に、側頭部を殴り飛ばされたような衝撃を受けた。
何でも少し前に、狩人の一人が森の深いところでレニグレラ茸に触れる事故があったのだという。
狩人は熱が出る前に村長の家を訪れ、解毒薬を飲み、そのため大事には至らなかったらしい。
それは、良い。
それは良いのだ。
「どうして、私に言わなかったんですか……!」
思わず、村長を責めるような声をあげてしまう。
村に置いてある非常用の薬は使ったら補充するのが決まりだ。
最善としては残りが少なくなった時点で『魔女』に連絡をするべきだ。
これまでは、そうしていたはずだ。
どうして、今回に限って。
「…………すまない。儂のせいだ……」
項垂れる村長をそれ以上責めることも出来ず、唇を咬む。
このところ、レニグレラ茸の害は出ていなかった。
出ても、狩人たちはその対処に慣れていた。
棘を抜き、速やかに、可能ならば熱が出る前に解毒薬を飲む。
そうすれば症状が出る前にレニグレラ茸の毒性に苦しまずに済むのだ。
そうやって苦しむ人間が減ったことにより、かえってレニグレラ茸の恐ろしさが薄れてしまっていたのかもしれない。
否。
もしかして。
「……その、最後の解毒薬を使ったのって」
「……………………」
村長は答えない。
それが、答えじみていた。
そうか。
そうだったのか。
泣きそうになる。
ぐ、と両手を握りしめる。
「早馬を隣の村に出してください。隣村にも、解毒薬はあるはずです。そちらの村長に事情を話して、譲ってくれるように話をしてみてください。私は、森の小屋に戻ります。小屋にも、解毒薬はありますから。先に戻ってきたものの解毒薬を、グレイソン先生に頼んでトマスに飲ませてください。いいですか?」
「あ、ああ」
ここから、隣村まで馬で駆けて往復小一時間程度。
私の小屋までなら、急げば往復40分程度で済む。
ただ問題はあるとするのなら――
「こんな時間に森を駆ける気ですか……!」
そう。
時間だ。
既に夕暮れ、陽は地平線の下に沈みかけている。
森の中はすでに暗く、闇に沈んでいることだろう。
普段の私なら、こんな時間に森を馬で駆けようなどとは思わない。
馬という生き物自体は夜目が利くが、だからといって夜の森が安全かと言われればそれは別問題だ。
木の根に足をとられでもして馬が転倒でもしたならば投げ出されてすめばまだ良い方で、うっかり馬の下敷きにでもなれば命を落としかねない。
――それでも。
「…………」
無言で決意を示すように、フードを被る。
それはいつものように陽を避けるためでも、自分の目立つ白い髪を隠すためではない。
少しでも怪我を防ぐためだ。
森の中を馬で駆ければ、日中であっても木の枝などで頬を打つ危険性がある。
眼の利かない夜ともなれば、その危険はより増すだろう。
「待ちなさい、いくら若魔女さまでも夜の森は危険だ……!」
「でもこうして待っている間にもトマスは苦しんでいますから。少しでも早い方が良いんです」
背後から引き留める村長の声を振り切って、私は村長の家を後にする。
「隣村まで一番の早馬を出しますから……!」
「そうだ、団長さんに頼めば……!」
「そうですね、エリオット様にも頼んでみてください。ですが、私も行きます」
彼が隣村までどれだけの速度で辿りつけるか知らないが、それでも。
少しでも私の方が早い可能性があるならば、私も行くべきだ。
それが、私の『魔女』としての責任だ。
自分の馬を繋いでいた馬屋まで向かい、手綱を解く。
そして、ひらりと馬に跨ろうとしたところでぐっと腹のあたりに圧がかかった。
次の瞬間にはくるりと視界が回って、勢いをつけて馬に跨ろうとしていたはずの私のつま先はトン、と軽やかに地面に降り立っている。
目の前には、騎士の厚い胸板。
視線を少し持ち上げれば、厳しい色をその目に浮かべたエリオット・スターレットの顔が目に入る。
カッと頭に血が上るのは、その距離の近さにか。
未だ私の腰を抱いたままの腕のせいか。
それとも、腕力に物を言わせて行動に制限をかけられたせいか。
魔女である私に、触れるなんて。
魔女である私を、力づくで止めようとするなんて。
「邪魔をしないで!」
冷静でいようと心がけていたはずなのに、千々に乱れた感情のままにあげた声音は自分でもわかるほどヒステリックに尖りきっていた。
「邪魔は、致しません」
応じる男の声は、やたら静かだ。
決して声を荒げられたわけでもないのに、妙に気圧されるのはどうしてだろう。
眼の、せいだろうか。
あの、静かに澄んだ蒼の底に得体の知れない熱のようなものを潜ませた怖い眼だ。
それでも怯むわけにはいかなくて、私は彼を睨みつける。
「手を、放しなさい」
声は、震えてはいなかっただろうか。
上手く、気丈さを装えていただろうか。
「いいえ」
返事は、即答だった。
私の騎士だとか言った癖に、どうしてこの男はこうも私の思い通りにならないのか。
子どもの駄々のように、手を離せと喚きたくなる。
こうして足止めされている間にも、トマスに残された時間は刻々と過ぎているのだ。
「手を、」
離して、と懇願するような響きで続けるより先に、騎士が口を開いた。
「話は、村長より伺いました」
背後で、おろおろと村人たちがざわめいているのがわかる。
「それで、私を止めにきたの?」
「いえ、お手伝いをさせていただこうかと」
「…………手伝い?」
「私の方が、早く駆けられますので」
「だから貴方には隣村に行くように頼んだはずでしょう!」
「ですが、あなたの小屋まで戻った方が早いのでしょう?」
「……っ」
息を呑む。
それは、事実だ。
だからこそ、私も危険は知った上で夜道を走ろうと思っていた。
少しでも、早い可能性があるのなら。
「ならば、私が駆けた方が速い」
騎士が言い切る。
「でも……!」
それが最速になりうるとわかってはいても、そう簡単には頷けない。
騎士とはいえど、夜の森の早駆けには危険が付き纏う。
自分一人でならやれることでも、それに彼を巻き込むことには躊躇があった。
だというのに、この男にはまるで迷いがない。
「二人で行くか、どちらも行かないかの二択です」
どちらも行かないなんて選択肢はない。
この腕を振りほどけない以上、彼を連れて行くしかないのだ。
「…………わかったわ」
渋々と承諾する。
「では」
彼は私の身体をまるで荷物のように小脇に抱えて、ずんずんと自分の馬の方へと向かって歩き始めた。
……さすがにここまで来て抵抗するつもりはないのだから、下ろしてくれても良いのでは。
なんて思うわけだけども。
どうせこの男を相手に何を言ったって暖簾に腕押しだ。
『魔女』を相手に腕力でごり押ししてくるような男だ。
だらりとされるがままに運ばれる。
いつか覚えてろ。
お前よりマッチョになって仕返ししてやるからな。
そんな不穏なことを考えている間に、ひょいと持ち上げられて馬に乗せられそうになる。その位置に、今度こそ私は待ったをかけた。
「待って」
「何か?」
「どうして私が後ろなの」
ここに来て、ようやく少しだけ騎士が困ったように眉尻を下げた。
「失礼をお許しください、魔女殿。本来であれば女性を後ろに乗せるなど持っての他なのですが――」
「そういうことを言ってるんじゃないわよ、良いから私を前に乗せなさい」
「ですが前は」
「危ないと言いたいんでしょう、わかってるわよ」
基本的に、男性が女子供を馬に相乗りさせるときには相手を鞍に乗せ、自分はその後ろに直接乗るというのが一般的だ。
馬は後ろの方が振動が大きく、落馬の危険性が高い。
だから、私を後ろに乗せようとした彼は騎士としてはマナーに反している。
彼もそれがわかっているから、珍しく困った顔をしているのだ。
だが、これから私たちが行こうとしているのはただの遠乗りではない。
夜の森だ。
人の行き来が多い辺りは梢が払われ、多少は道も均されているが――…彼の馬は、この辺りで使われている一般的な馬よりも随分と背が高い。
普通の馬であればぶつからない高さの梢に騎乗者が晒されることになる。
それがわかっているから、彼は私を自分の背に庇おうとしているのだ。
「……魔女殿」
「無駄な意地で言ってるわけじゃないの。ちゃんと意味のあることよ」
「…………」
澄んでいる癖に真意の見えない蒼が私をじっと見つめる。
私の言葉に嘘がないことはわかったのか、騎士は少しばかり溜息めいた息を逃した後、良いでしょう、と呟いた。
先に私を馬に載せ、後から彼が馬に乗る。
背後から手綱を持つ男の腕に抱かれるような体勢には緊張するが、これはちゃんと意味のあることなのだ。
「なるべく低く顔を伏せていてください」
「いいから行って」
「ですが」
「いい? 私は『魔女』なの。『魔女』は妖しい術を使うものなのよ」
「…………わかりました」
彼が手綱を引き、馬を走らせ始める。
軽やかな振動が次第に大きくなり、馬の足並みがギャロップに変わる。
鞍に座る私以上に直接振動が伝わっているだろうに、背後の男に不安定な様子はない。さすが騎士、と言うべきだろうか。
「森に、入ります……!」
「わかったわ」
短く答えて、深く息を吐く。
荒々しい馬の振動の上でもなお、呼吸を鎮める。
そして、小さく口の中で呪を唱えた。
脳裏に思い描くのは、木々のアーチだ。
闇の中で梢を広げ、夜空を抱くように伸びる木々の枝葉。
そして、その木々のイメージに自分を近づける。
呼吸を、落とす。
鼓動を、落とす。
木々のように緩やかに、穏やかに。
自分の存在を周囲の木々へと溶かし込む。
それから次に思い描くのは、私たちの行き手を空けるように、木々がゆるゆるとその枝はを持ち上げる姿だ。
緩く、薄く、息を吐く度に気力や体力といったものが吸い取られていくのがわかる。
背筋をぞわぞわと這い上がる悪寒は、自分が自分ではないものに変わり果てていくことへの拒絶と恐れだ。
「――――、」
自分の形が、在り方が歪めらる恐怖に叫びだしたくなるのを抑えて、制御する。
冷静に、平静に。
少しでも心を乱せば、木々とのつながりは断たれる。
それで済めばまだマシというもので、本当に変わってしまいかねない。
『魔女の魔術』の根本は、垣根を曖昧にすることだ。
ありとあらゆるものと同化し、そのものであるかのようにそのものの力をふるうことを『魔女の魔術』と呼ぶ。
今私がしているのも、それだ。
自らを木々に近づけ、同化することにより、自らの生命エネルギーを糧に木々の成長や変化を促そうとしている。
本来、木々の成長や変化というのは緩やかなものだ。
それは彼らが栄養としているものは日光だったり、地中の養分だったりと、私たち生き物が食事という手段でもって摂取するエネルギーに比べると随分と細やかなものだからだろう。
摂取するエネルギー量が少ないからこそ、彼らの成長や変化には長い時間がかかる。
そんな木々に同化し、自らの持つ「人」としての生命エネルギーを木々の糧として注ぐことで、私は彼らが本来なら長い年月をかけて行うであろう成長や変化を、この瞬間に起こそうとしている。
我ながら、無茶をしているという自覚はある。
植物と人とでは生きる速度が大いに異なる。
この術は、せいぜい一年かけて起こる変化を一日に短縮する、というような使い方をするようなもものなのだ。
急遽必要になった薬草を促成栽培する、というような。
それをさらに短縮しようとしている上に、働きかけているのは森の小道に接する木々すべてだ。
正気の沙汰ではない。
養母に知られたのなら、真顔で呆れられるだろう。
「でも、やってやるわよ……!」
喉奥で小さく、吠えるように言う。
馬は、走る。
まるで夜闇など恐れぬというように、轟々と風をきって走る。
彼もまた、怯えから馬の足を緩めるなどということなく巧みに手綱を操って馬を走らせる。
人馬一体、とはこういうことなのだろうか。
ならば私は人森一体だ。
負けず嫌いに火が付く。
騎士が騎士としての技量をもってして夜の森を踏破するというのなら、私にだって『魔女』としての意地がある。
そもそも、――きっとこれは、私のせいなのだ。
村長は口にしなかったけれど。
きっと最後の解毒薬が使われたのは、私が王都に赴いている間のことだったのでは、ないだろうか。
もしかしたら、その後。
私が仮病をキメている間のことだったのかも、しれない。
私と前の騎士団長が恋人関係にあったことなんて、皆が知っていることだ。
彼が団長を務めている間、私たちは随分と幸福な恋人たちであるように過ごしていたのだから。
その私が、任期を終えて森を去った騎士を追って一人王都へと向かい、ひとりで戻ってきたことの意味を、村人たちは皆知っている。
その後私が病気を理由に、新しい騎士団長に会うことを拒絶していたことも。
だから。
村長はきっと、そんな私に『魔女』としての用向きを伝えることが出来なかったのではないだろうか。
優しい人たちだ。
私のことを『若魔女さん』と呼んで慕ってくれる。
私は森の『魔女』でなくてはいけないのに、『魔女』としての役割を果たさなければいけないのに、彼らは私にそれ以上の親しみを寄せ、優しくしてくれる。
その優しさ故に、トマスを危険に晒してしまった。
私への思いやりへのしっぺ返しがこれだ。
くやしい。
本当に、くやしい。
失敗は、取り戻さなければ。
意識を、集中させて。
深く、息を吐くのに合わせてそれをゆるゆると大気に溶かして拡散する。
木々に意識を繋ぐのでは間に合わない。
森だ。
意識を森に重ね、腕を広げるがごとくに木々を開いて内へ内へと騎士を招きいれる。
「―――、」
消耗が、激しい。
時折一瞬意識が飛びかけ、間に合わなかった枝葉が頬をチッと掠める感触にまた意識が引き戻されて奥歯を噛みしめる。
そんなのを幾度となく繰り返して――
「アデリード……!!」
私を呼ぶ騎士の声に、ふっと意識が浮上した。
「…………」
いつの間にか、身体の下の振動は止んでいた。
ふわりと、下草の香りが鼻先を霞める。
「―――、あ、れ」
どうやら私は馬から下ろされた先で、彼に抱き起こされている、という状態であるらしかった。
酷く近い位置に、彼の整った顔がある。
とりあえず私が目を開けたことに安堵はしているようだが、焦燥の滲んだ彼の顔に、少しだけ悪いことをしたような気になった。
と、いうか。
今この人、私の名前を呼んでなかっただろうか。
魔女殿、ではなく、アデリード、と。
「魔女殿、あなたは一体何をしたのですか!」
「…………」
気のせいだった。
「何、って……それよりここは……」
ゆっくり身体を起こして周囲を見渡す。
月明りしか光源がないのですぐには気付けなかったが、ここは私の家の前庭だ。
そういえば、夕方、玄関の灯りに火を入れる前に出てきてしまった。
彼の腕を支えに、ゆっくりと身体を起こす。
力を使いすぎたせいか、やたら身体が重いが動けないほどではない。
「魔女殿……!」
諫めるように名を呼ぶ彼に、視線を向ける。
彼が、私を心配してくれているのはわかる。
それが純粋な善意であり、気づかいであるのだということも。
「薬を、取ってきます。貴方は、馬を休ませてあげてください」
私がただの女であったのなら、彼の優しさに上手く頼ることが出来たのかもしれない。
けれど、私は『魔女』だ。
『魔女』には『魔女』の役割がある。
「そこに、井戸がありますから」
すぐにまた村に戻ることになる。
大した休憩はさせてあげられないが、水ぐらいなら飲ませてやれるだろう。
庭先の井戸を示して、私は立ち上がると自室へと向かった。
急がなければと思っているのに、まるで水の中にいるかのように身体がおぼつかない。
ふらりと眩暈がして、慌てて壁に手をつきかけたところでふわりと身体が浮いた。
背後から追いついてきた彼に抱き上げられたのだと気付くと同時に、自分で立っていなくて済むことに反射的に安堵してしまった自分に腹が立つ。
「……馬は?」
「水を飲ませています。草でも食んで休んでいるでしょう」
「…………」
つまり、彼が馬のために水を用意してやっている間にも、私は薬棚に辿りつけていなかった、ということになる。
自分でしなければ、という意地はある。
私は『魔女』なのだ。
『魔女』としての役割を果たさなければ、という思いは強いし。
自分でやれると彼の手を跳ね除けた見得だってある。
今更彼に頼るぐらいなら、最初から頼っておけば良かったのだとは思いたくはない。
けれども、状況がそんな見得や意地を許さないことも私にはよくわかっていた。
それでは、なんのためにここまで駆けてきたのかがわからなくなる。
「…………」
はあ、と息を吐いて、彼の腕に身体を預けた。
「あの戸棚が薬棚なの」
「はい」
つかつかと彼が壁際の戸棚へと向かう。
そこで一度床に下ろされるかと思ったのに、彼は少しばかり私を抱えなおすように身体を揺すると、易々と子どもでも抱くように私を片腕で抱き、もう片手で戸棚へと手を伸ばした。
「…………」
騎士の腕力を舐めていた、感。
戸棚を開くと、中の見えない木製の引き出しがずらり並んだ光景が現れる。
それには少し驚いたように、私を抱いた騎士が息を呑むのがわかった。
ふふん。
「次は、何を」
「上から三番目の棚の、一番右の抽斗よ。あ、普通のやり方じゃ引き出せないから――」
この抽斗は特別性なのだ。
薬草や、それを煎じた薬の中には毒薬として使うことのできるようなものも多い。
それ故にちょっとした細工がされていて、『上から三番目の棚の一番右の抽斗』ならばまず三度ほど軽くノックをして、それから取っ手を摘まんで軽く揺するようにしなければ引き出せないようになっているのだが――
ガッコン!
私が最後まで言うより先に、戸棚全体を揺らすような大きな音がした。
「ありました、魔女殿。これであっていますか?」
「―――」
嘘だろう。
腕力に物言わせて細工棚を引き出す奴があるか。
騎士の腕力を舐めていた(本日二度目)。
「ああ、うん、それで合ってるわ」
紫がかった小さな丸薬は、まさしくレニグレラ茸の解毒薬だ。
「全部で九つあるようですが」
「三つ残して」
「わかりました」
もしも、レニグレラ茸の群生地が村の近くにできているのなら、解毒薬は多めに用意しておいた方がいい。とはいえ、タイミング悪く他の村や、別のところでレニグレラ茸の被害者が出た時のことを考えればここの解毒薬を空にしてしまうのも怖い。
というわけで残した三つは、念のための予備だ。
「おや……抽斗が戻りません」
「でしょうね」
おそらく、細工がイカレている。
とてもかなしい。
後で狩人に見てもらわなければ。
事の顛末を話したならば、あの男は間違いなく腹を抱えて大笑いするだろう。
あの男は笑い上戸のケがある。
「いいわ、この時間に『魔女』の家を訪ねるような物好きもいないでしょうし……そのままにしておいて」
「わかりました」
私抱いたまま、騎士が家の外へと戻る。
庭木につながれた馬の前には、空になった濡れた木桶が一つ。
馬は家から出てきた私たちを見て、遅い、とでも言いたげに嘶く。
そんな馬の首筋を宥めるように、ポンポンと軽く叩いて騎士は私を抱いたまま軽やかに馬へと跨った。
「村へと戻ります。しっかり捕まっていてください」
「全力で、駆けて」
「わかっています」
見上げた先で、ふ、と男の口角に笑みが乗る。
こちらを安心させようという意図の滲んだ力強い笑みだ。
そして――漆黒の軍馬が再び森を駆ける。
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