第6話 過去の傷
今から、数か月前のことだ。
私は、その少し前に恋した男に会うために生まれて初めて森を出た。
生まれて初めて、アセルリアの王都を訪ねた。
そこであったことは前にも書いた通りだ。
王都にまで追いかけてきた私を見て、彼はバツの悪そうな顔をした。
森にいる間はあれほど誠実そうに見えた顔は軽薄に歪み、真実しか語らないと思っていた柔らかな声音は浮ついて響いた。
取り繕うように「どうしてここに」と口にした言葉に含まれていたのは、思いがけない場所で恋人に会えた喜びではなく、何故こんなところにいるのかという非難だった。
そして、何より堪えたのは、彼の周りにいた騎士仲間たちの浮かべた表情だった。
彼らは皆、物珍しい生き物を見るような目で私を見た。
実際、私は珍しいだろう。
老婆のように白い髪、血のように赤い目。
その上『魔女』だ。
そりゃあ珍しい。
でも、それだけじゃなかった。
すらりと背の高い騎士の一人が席を立って、私へと歩みより、言ったのだ。
「お美しい魔女殿、どうか私にも一晩の寵愛をいただけませんか?」
一瞬、何を言われたのかがわからなかった。
ひとばんのちょうあい、とは。
何かの冗談かと思って顔を上げた先、他の騎士たちは皆その長身の騎士と同じような顔をしていた。
誠実そうな顔で。
真面目そうな声音で。
彼らはその言葉がどれほどの侮辱であるのかなんて思いもよらない様子だった。
むしろ騎士らしい言い回しの、出来の良い口説き文句であるのだと信じているかのようだった。
私は、恋をしたのだと思っていた。
けれど、彼にとってはそうではなかった。
私は『一晩の寵』とやらを男にくれてやるような女だと思われていた。
そういう女だと、彼は王都で仲間たちに語って聞かせたのだ。
眩暈がした。
泣きたかった。
どうしてそんな酷いことを言うの、と非難してやりたかった。
そもそもの問題として。
私は彼に身体を許したことはない。
私は『森』を守る『魔女』だ。
万が一私が孕んでしまった場合、これまで通り『魔女』としての役割を果たすことが難しくなることもあるだろう。
それを考えれば、自らの情だけで、勢いで身体を重ねることなんて出来るはずがなかった。
自分が動けなくなった時、どうするのか。
子どもが生まれた場合、その子はどうするのか。
私の子である以上、その子もまた忌み子として世間からは白い目を向けられる色を纏って生まれてくる可能性は当然ある。
その場合、どうやってその子を守っていくのか。
そういったことを話し合わないうちに身体を重ねるようなことは私には考えられなかった。
だから、私と彼は清い仲であるはずだった。
彼が王都に戻ったことも、私はその辺の算段をつけるための意味合いもあるんだろうな、なんて夢見ていたのだ。
―――いつか、迎えにきてくれるのだと。
そんな、甘ったるい夢を見ていた。
けれど、現実は苦かった。
私の初恋は彼にとっては仲間に吹聴するための艶めいた戦果の一つに過ぎなかった。
きっと、私はそこで怒るべきだった。
根も葉もない不名誉な噂を振りまかれた女として怒るべきだった。
もしくは弱弱しく被害者として泣き崩れるべきだったのかもしれない。
でも、私はその時、とんでもなくショックで。
とんでもなく頭に血が上っていたので。
とんでもなく、馬鹿なことをしたのだ。
一晩の寵愛を、なんて言ってきた長身の騎士相手に、私は余裕たっぷりに笑って見せた。
イメージは男を次々と手玉にとる悪女だ。
男を狂わせ、思うがままに操る毒婦。
私にそんな顔が出来ていたのかどうかはわからない。
ただ、心意気はそんな感じだった。
血のように赤いと評される双眸を艶めかしく(当社比)眇めて、彼に会うために念入りに手入れをした艶やかな指先で長身の騎士の頬に触れた。
そして、甘ったるく(当社比)囁いたのだ。
「貴方が私の役に立つ男なら」
今考えると、我ながらどうかしていたとしか思えない。
ただ、その時の私は、ただただ自分自身の価値を下げたかった。
とは言っても、自分自身を傷つけて、悲しみに浸るためではない。
彼が森の魔女と寝た、ということを自慢話として吹聴しているのなら、その価値を暴落させてやろうと思ったのだ。
彼が特別なのではない。
私は自分にとって役に立つ男なら誰でも部屋に招くような毒婦であり。
彼も決して特別な男ではなく、取り巻きの一人でしかなかったのだと。
『森の騎士』として役に立つ男だったから、傍に置いていただけなのだと。
そういうことにしてやりたかった。
お前なんか特別じゃない。
お前なんか、好きじゃない。
お前が森の騎士だったから、使える男だったから傍に置いていただけ。
私の言葉に、騎士たちは騙されてくれた。
上から目線も極まりない高慢な言葉も、『魔女』のものだと思えば腹が立たなかったのだろう。
「どうお役に立てば、貴方の部屋に招いていただけますか?」
長躯の騎士がいう。
私の前に跪き、まるで絵物語の騎士が愛を乞うように囁く。
けれど、騙されてはいけない。
これはごっこ遊びだ。
彼らは『騎士』と『魔女』ごっこをしているだけ。
彼が求めているのは愛ではなく、森の魔女と寝たという箔だ。
あとはまあ、一晩の情事、か。
「―――」
なら私も、求められるままに悪女を演じよう。
男を振り回すとびきりの悪女を。
「貴方は私のために死ねるかしら。『森』のために働いてくださるかしら。貴方が『森』に来てくださるのなら、歓迎しますわ」
「ふふ、それは厳しい。美しい魔女殿に触れることができるのは『森の騎士』の特権というわけですか」
コナをかけてきていた長身の騎士は、わざとらしく残念そうに肩を竦めて立ち上がって身を引いた。
周囲の騎士たちは、面白い見世物を見た観客のようにわいわいと盛り上がっている。
そんな中で、彼だけが信じられないといったような顔で私を見ていた。
自分で私のことをそんな女だと吹聴した癖に、いざ私がそれらしく振る舞ったことに対しては傷ついたような顔をした。
小狡い男だ。
『森の魔女』を夢中にさせたことを自慢したかった癖に、本気で自分のことを好きになり、恋をした少女を赴任先に置き去りにしたとは外聞が悪くて言えなかった。
だから彼は周囲へ語り聞かせるために『魔女』像を歪めた。
自分の認めた男が相手なら割り切った関係を楽しめる女だという風に。
自分は『魔女』に認められた『騎士』であるのだと、周囲へと吹聴した。
そんな彼への未練を断ち切るように、私は優雅に、媚びるように、彼らへと頭を下げて見せた。
「それでは、失礼しますね。名残惜しいけれど――…次の約束があるもので」
次の約束、が意味深に響くようにそっと睫毛を伏せる。
それから最後にもう一度、彼を見た。
何か言ってくれないか、最後の最後まで期待してしまったのかもしれない。
彼はただ、やっぱり気まずそうに目を伏せただけだった。
それが、私の初恋の結末だ。
そうして私は、白い髪と赤い目なんていう稀有な色を纏った森に棲み男を己の身体で操る妖女、ということになったのである。
それは夕食時のこと。
約束通り、シチューを作って待っていてくれた狩人とともに食卓につきつつ、私はふと口を開いた。
「そういえばね」
「うん」
「貴方、私の愛人ということになったから」
「ぶふッ」
狩人が盛大に咽た。
動揺から、というよりも思わず噴き出したといった感じだ。
何かに耐えるようにうつむいた肩が小刻みに震えている。
「げほ、……ッ、お嬢さ」
「はい」
「今間違いなく……げほっ、……俺がシチュー口に入れるタイミング狙ったよね???」
黙秘。
当然狙った。
口周りをナプキンで拭いつつ、彼は呆れたような、それでいて全てを許すような笑みを口元に浮かべて私を見ている。
端的に言うと、なまぬるいかお、と言えるのかもしれない。
「なんでまたそんな面白いことに?」
「ほら、私、王都では男を惑わす魔性の女ってことになってるでしょう?」
「そうだねえ。実物の繊細乙女っぷり知ってるとつい噴き出しちゃうけれども、まあお嬢も外見だけなら妖女っぽいもんね」
「喧嘩売ってる?」
「売ってない売ってない」
はいお詫び、と適当なことを言いながら、男は自分の皿の上にあったソーセージを半分私の皿の上へと移動させる。
食べ物につられるわけではないが。
食べ物につられるわけではないが。
まあ許してやろうとそのソーセージをがぶりと咀嚼して言葉を続けた。
「あのひともそのこと知ってたみたいで」
「ああ、あの聖騎士様?」
「そう」
「貴方が帰ったあと、あれが例の愛人か、って聞かれたから、そうよ、って」
「なるほどねえ。それじゃあお嬢、お嬢の愛人一号に何かしてほしいことは?」
「お水のお替り頂戴」
「はいはい」
こぽぽ、とグラスに水が注がれる。
ちび、と水を啜る。
薄くレモンの香りの溶けた冷たい水に、口の中に残っていた肉の脂っこさがすぅと抜けていく。
「で、聖騎士様の反応は?」
「……………それ聞く?」
「いやそれ以外何を聞くってのよ」
「デスヨネー」
私が聞いてる側でもそこが大事だと思う。
「……なんかね、無表情になった。スッ……って」
「こわッ」
「わかってもらえてとても嬉しい」
本気で怖かった。
王都の騎士たちのようにあわよくば自分も、と下心を押し隠した上辺だけの気障な笑みを浮かべるのかと思ったのに――…あの騎士は、私の言葉に一瞬表情がストンと抜け落ちた。
青空のような、と評してきた蒼の瞳が、酷く冷たい色を孕んだように見えた。
あれは、もしかすると軽蔑の色だろうか。
年頃の女が、自らの身体を武器に男を操ることが彼には耐え難かったのかもしれない。
「……彼は、真面目な人なのかも」
「真面目?」
「うん。だから、私のような不道徳でふしだらな魔女が許せないのかも」
「あー……そっち」
「そっちって?」
「いや、なんでもねーですよ」
ポン、と隣から伸びてきた手のひらが私の頭に乗る。
ぐりぐりと撫でる所作は、私が子どもの頃から変わらない。
ずっと傍にいてくれた温もりだ。
子ども扱いして、と腹が立つこともあるけれど。
養母亡き後、私にこうして触れてくれるのは彼だけだ。
『魔女』としてではなく、私を一人の人間として扱ってくれる。
「――…まァアレは違うと思うけどなー」
小さく、何か聞こえたような気がした。
首を傾げて聞き返す。
「今何か言った?」
「や、あの罠はどうなったのかな、って。仕掛けた人間見つかった?」
「それがまだなの」
溜息をつく。
狩猟区の外に仕掛けられていた幾つかの罠はすべて回収し、回収した罠は近隣の村にそれぞれ森の騎士たちによって届けられ、持ち主を捜されている。
私たちはわかりやすいように狩猟区とそれ以外の禁漁区、という形で森を区分けしてはいるが、実際のところそのラインは曖昧だ。
ある程度わかりやすい目印をもって区分しているが、森に慣れた人間であっても周囲が暗かったり、少しぼうっとしている、などの不注意で見過ごしてしまうことは十分にありうる。
それ故に、この罠の持ち主が見つかったとしても今のところその人物を即座に密猟者として罰するつもりは私たちにもない。
罪を償わせるために犯人を探している、というよりも注意喚起の意味合いが強い。
それに罠だって安い道具ではない。
だから回収した罠を返却するためにも持ち主を捜しているわけなのだが……今のところ該当者は名乗り出ていない。
「罠、見た?」
「見た」
「どう思う?」
「難しいとこだね。お嬢もそう思ってるんでしょ?」
「そうなのよね……」
罠は、中型から大型の獣を捕らえるのに使われるタイプのものだった。
それ故に、狩猟区の外で罠が見つかった、ということに緊急事態かと色めき立った森の騎士たちも、今では今回の件をそれほど重要視してはいない。
私たち、森と人との境界を守るものたちが最も警戒しなくてはいけないのは魔獣や魔物を狩ろうする密猟者たちだからだ。
魔物や魔獣、というのただの獣とは違い、特異な能力を持つ人外の総称を指している。
獣として並外れたものに与えられる称号のようなもの、と考えればわかりやすいだろうか。
例えばキツネはキツネだ。
だが、キツネの中に稀に見られる変異種で、尾の数が多く、人に幻惑の術を掛けるものは魔物と呼ばれるようになる。
こうした魔物は通常の獣よりも知恵が回ることが多い。
そしてそういった魔物が大型化し、より強力な力を得たものを魔獣と呼ぶ。
その中でも人間に利益があるタイプのものを聖獣と呼んだりもするが、基本的には魔獣も聖獣も成り立ちとしては同じものだ。
かつて、テッシウス大陸には多くの魔獣がいたのだと言われている。
多くの伝承において、魔獣は主に人により討伐される悪役として登場してきた。
彼らと私たち“ひと”は、常に土地をめぐって対立してきていたのだ。
ドラゴンを破り、国を開いた英雄。
毒を吐く獅子に似た獣を封じ、人々を救った聖女。
そういった物語が私たちの間には多く伝わっている。
だが逆を言えば、私たち“ひと”は常に魔獣を追いやることで住処を確保してきた。
“ひと”の発展の影には魔獣の犠牲が常にあったのだ。
魔獣を下し、安全な土地を獲得することにより“ひと”は栄えてきた。
そして現在、残されたのがこの『森』だ。
不可侵の土地として守られた誰のものでもない土地。
人の手が及ばぬ、『森の王』が治める領地。
古の愚王はその土地に攻め入り、『森の王』の怒りを買ったが故に国を滅ぼされた。
それ故にこの森における最大の禁忌は魔獣殺しだ。
そう考えると、あの罠では魔獣は獲れない。
大抵の魔獣であれば、あの程度の鉄の罠は平気で咬み千切ってしまうし、魔物であっても普通の獣がひっかかるような罠は看破してしまうことの方が多い。
だから、あの罠は良くてうっかり、悪くて動物狙いの欲の皮が突っ張った人間の仕掛けたもの、だろう。
それであるなら、対処はそう難しくはない。
慣れた作業だ。
「…………」
そう思うのに、腹の底でザワザワと落ち着かないのはどうしてだろう。
私は何が気にかかっているのだろう。
窓の外、揺れる森の梢に視線を流して、私は小さく息を吐いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます