第8話騎士とパイ
帰りの道は、行きよりも随分と楽だった。
何せ術を使う必要がないのだ。
馬のことは背後の彼に任せ、私はただ邪魔にならないように揺られているだけでいい。
少しばかり馬の走り方が変わったのに気付いて、顔を上げる。
夜闇の向こう、木々のヴェールの向こうにぼんやりと村の明かりが見え始めていた。
「あ……」
小さく声をあげる。
私は、この瞬間が好きだ。
暗く静かな森を抜けて、柔らかな温もりに包まれた人の営みが見える瞬間、なんとも言えない複雑な気持ちが私の胸を締め付けるのだ。
闇を抜けて明かりが見えた時の安堵と。
けれどそこは私の居場所ではないのだという寂寥と。
よそ様の家に訪問するときの緊張感めいた感覚と。
そんな感情がぐるぐると混ざり合って、なんともいえない感慨が沸く。
彼が馬の足並みを緩めたのに合わせて、私はくったりと彼の胸に預けていた身体を起こした。背筋をしゃんと伸ばし、頭から被ったままのローブを整える。
私は、『魔女』だ。
『森』に棲み、『ひと』と、『森』との境界を守るものだ。
それが年相応のかよわい少女のようであってはいけない。
村人たちが『魔女』を頼ることに躊躇いを覚えるようであってはいけないのだ。
そんなことでは、私は彼らを守ることが出来ない。
「……魔女殿、まだ休んでいても」
「いいの」
こうして、彼の優しさを無碍にしてばかりの私は可愛い女ではないのだろう。
でも、それで良いのだ。
私は、『魔女』なのだから。
私たちが村に入ったあたりで、足音を聞きつけたのか周囲の家々から村人たちが飛び出してくる。
「まさか本当にこんなに早く戻ってくるなんて……!」
「隣村に出した早馬もまだ戻ってないぞ……!」
ざわめく村人たちの言葉に、小さく安堵した。
夜の森では時間の感覚が鈍る上に、私は一度意識を落としてしまっている。
本当に早く戻って来られたのか、少しばかり不安があったのだ。
「急いで、グレイソン先生に薬を届けてください」
「わかりました」
トマスの家の前に馬を止めるとほぼ同時に、彼がひらりと軽やかに馬から飛び降りる。
地上から私を見上げて、
「あなたは」
「行って」
短く彼を送り出す。
彼は少しだけ逡巡の色をその目に浮かべたものの、すぐに私に背を向け、速足に家の中へと入っていった。
解毒薬さえあれば、後はグレイソン先生がなんとかしてくれるだろう。
問題は、時間だ。
解毒薬が効果を発揮するまで、トマスの体力が持つかどうか。
どうか、助かってほしい。
もしもあの子が命を落とすようなことがあったなら、私は私を許せなくなる。
ほう、と息を吐いて深呼吸。
それから、何事もない風を装って馬から降りる。
着地の瞬間、膝から力が抜けてそのままへたりこみそうになったのを何とか堪えて、馬を撫でるふりをして身体を支えた。
「……よくやってくれたわね」
が、馬を褒めたのは本心だ。
「今度、とびきり美味しい牧草をご馳走するわ。とっておきがあるの」
艶やかな黒の毛並みの首筋を優しく撫で叩き。
そんな言葉で時間を稼いでから、ゆっくりと私もトマスの元へと向かう。
のろのろと階段を上ってたどりついた先、既にグレイソン先生はトマスに解毒薬を飲ませた後のようだった。
「具合はどうですか?」
「ああ、少し呼吸が落ち着いたところだ。なんとか峠は越えたと思うよ。お前さんたちのおかげだ。あと少し解毒薬の到着が遅かったら、助からなかったかもしれない」
「良かった……」
心の底から安堵の声が漏れた。
ベッドサイドの椅子に腰を下ろしてトマスの様子をのぞき込む。
未だ熱があるのかその頬は赤みを帯びたままだが、今はもう魘されてはおらず、寝息も穏やかだ。
レニグレラ茸の毒性が齎す痛みが抜けたからだろう。
この調子なら、朝には熱も下がりそうだ。
「あの、トマスは……」
「もう、大丈夫ですよ」
「良かった……!」
おずおずと声をかけてきたメアリさんが、私の言葉を聞いてトマスの枕元に崩れるように膝をついた。
未だ眠ったままのトマスの手を取り、良かった良かったと何度も繰り返しながら額を擦りつける。その声を聞きつけて二階に上がってきたハンスさんも、メアリさんの肩を撫でながら幾度となくお礼の言葉を繰り返す。
その様子に、心の底から安堵がこみ上げた。
良かった。
本当に、良かった。
はー……、と深く息を吐く。
吐き出す息と一緒に緊張に強張っていた身体から力が抜けて、もう二度と立てないんじゃないかと思うほどに身体が重くなる。
「若魔女さん」
そんな私の隣にやってきたのはグレイソン先生だった。
「後は私が看るから、お前さんは家に帰って休むといい」
「…………、」
さすがに、ここで平気です、と言い張れるほど私は強くなかった。
解毒薬が効き始めた今、トマスの状態が急に悪化するということはないだろうし、万が一何かあったとしてもグレイソン先生がいてくれるなら安心できる。
「ほら、立てるか?」
グレイソン先生が私の腕をつかみ、引き上げるようにして立たせてくれる。
「団長さん、悪いが若魔女さんを家まで送ってやってくれるか」
「ええ、もちろん」
「ひとりで」
「帰すわけにはいきません」
最後まで言うより先に、あっさりと私の主張は騎士によって却下された。
ぐぬぬ。
「解毒薬も団長さんから預かった。お前さん抜きでもレオニグラ茸の駆除は進められるから、しばらくゆっくり休むといい」
「……お言葉に、甘えさせてもらいます」
ぺこり、と頭を下げる。
頭が驚くほどに重くて、下げた頭を元の位置に戻すのにすら一苦労だ。のたのた、とした私の動きに、グレイソン先生は呆れたように笑いを口角に乗せる。
「ほら、帰った帰った」
「行きましょう、魔女殿」
さりげなく、それでいてわりと有無を言わさずエスコートされ、気付いた時には私はもう再び馬の上に乗せられていた。
当たり前のように騎士付きである。
「若魔女さん、うちのトマスを助けてくれて本当にありがとう」
「若魔女さん、お礼は必ずしますから」
口々にお礼を言うハンスさんとメアリさんにも見送られ、騎士がゆっくりと馬を歩かせ始める。
かっぽかっぽと歩く緩やかな振動と、背後から私を抱き支える騎士の体温が暖かで心地良くて、気付いたら私はうとうとと微睡んでしまっていたようだった。
ハッと我に返ったのはのんびり歩きの馬が森に入った頃だ。
あれだ。
ええと。
「わたしの……」
「魔女殿?」
わたしの、なんだっけ。
ああ、そうそう。
「うま……」
「ああ、あなたの馬でしたら、しばらく村で預かってもらうように手配しました」
「そう、よかった……」
あんしんした。
もう後は全部彼に任せてしまっていいんじゃないかなという気持ちになって、私は再びゆっくりと目を閉じる。
かぽり、かぽり。
かぽり、かぽり。
馬の歩みは緩やかだ。
「魔女殿」
低く、耳に心地良い声音が私を呼ぶ。
でもダメ。無理。やだ。
眠い。
とんでもなく、眠い。
もう動きたくない。
なんならここにおいていってくれてもいい。
もう一歩だって歩きたくない。
「お運びさせていただきますが、よろしいですね?」
「よろしいです……」
何がどうよろしいのかわかってないけれど。
たぶん、よろしいんだろう。
ふわりと身体が浮かぶような感覚。
ゆらり、ゆらり。
馬とは異なる振動。
それからそっと、柔らかな寝床に下ろされた。
すこし薬草の香りが残るベッド。
私の、ベッド。
すり、とシーツに頬を寄せたあたりで、布団を引き上げられる。
肩までしっかりと暖かなお布団につつまれて、幸福感に口元が緩んだ。
「ぉやすみ、なさい」
「良い夢を」
そ、っと。
何か暖かなものが頬に触れた。
指背で柔らかく、頬を撫でられたような。
これはきっと良い夢だ。
ころりと布団の中で丸くなり、私は幸せな夢を見る。
随分と、長く寝ていたような気がする。
意識が覚醒したのは唐突だった。
というか、目が覚めて初めて自分が眠っていたことに気付いた、というか。
昨夜、いったいいつ意識を失ったのかの記憶が曖昧だ。
トマスの家を出て、馬に乗せられたあたりまでは覚えているのだが。
あの後、どうしただろう。
家に着いたあと、私はちゃんと起きて自分でベッドに潜り込んだのだろうか。
『魔女殿』
耳奥に蘇る優しい気遣いに満ちた低い声音。
ぶわっと一気に頬に熱が昇る。
それを散らすように私は頭をぶんぶんと横に振った。
あれは夢だ。
夢に違いない。
そうだ。
そうに決まった。
今決めた。
よし。
夢だ。
まあ。
夢だったということにしても。
そういう夢を見てしまった、というあたりでだいぶ取り返しがつかないような気もするが、それは気のせいということにしておこう。うん。
現実逃避に走りつつ、欠伸交じりに身体を起こす。
鼻先をふわりと甘い香りが掠めていって、思い出したようにぐぅと腹が鳴った。
思えば昨夜は夕食を食べ損ねた。
夕食の支度を、というタイミングで迎えに来られて、その後は村とこことを行ったり来たりの大騒ぎだったのだ。
消費した分の生気を補うためにも、何か食べなければ。
私は早速ベッドからそろりと抜け出して―――…否、抜け出そうとしてそのままストン、と床に落ちた。
「ひょわ………!」
思いがけない落下と衝撃に、間の抜けた声が出る。
あると思っていた地面が急に抜けたかのような驚き、というか。
実際に抜けたのは私の腰、というか膝の力、だけども。
びっくりした。
呆然と床の上で瞬いていると、こんこん、と部屋のドアが鳴る。
どうやら狩人が音を聞きつけたらしい。
「お嬢、起きたの?」
ひょいとドアを開けて顔を差し入れた狩人が、床の上にへたりこむ私に片眉を跳ね上げる。
「何してんの? 生まれたての小鹿の真似?」
「今までにだって一度たりとも私がそんな芸をしたことあった???」
「いや、なかったけど」
くくく、と笑いながら身軽に傍までやってきた狩人が、いともたやすく私の身体を床の上からひょいと抱き上げる。
あの騎士にしても、この男にしても、人の身体を軽々とちょっとした小麦袋感覚で持ち上げすぎである。
なんとなく面白くないのはその逆をしてみせろと言われても出来ないからだろう。
やはり身体を鍛えるべきか。
「そんな風に立てなくなるまで力を使うなんて久しぶりじゃない?」
「うん……」
昔、養母から魔術を習い始めた頃はよく力加減を間違えて寝込んでいた。
思えば確かに、こんな風に身体が言うことをきかなくなるのは久しぶりだ。
「口酸っぱく言うけど、そんな力の使い方してるとそのうち死ぬからね」
「……昨夜のは失敗したわけじゃないもの」
力加減を間違えて、己の生命力を使い過ぎたわけではない。
ぎりぎりのところを攻めた感はあるが、一応目的は果たしたわけなので、コントロールに失敗したわけではないし、術としてはちゃんと成功させている。
「ある意味私のせいで起きたことだったの。それなら、挽回しなくちゃ」
「そのド根性は偉いとは思うんだけど」
「それより、パイを焼いてくれたの?」
「あのね、お嬢が生きるか死ぬかの話してるのにそれよりパイ、ってのはちょっとどうなのよ」
「だってお腹がすいたの。私、昨日は夕飯も食べ損ねちゃったから。ほら、ついでだからソファに運んでくれる? そしてパイを切って」
「もー」
お小言を聞き流しつつ、甘え倒すような要求を口にする。
それに対して呆れたような声をあげつつも、なんだかんだ狩人は私に甘い。
のっそりと居間のソファに向かって歩き始めた狩人の腕の中で、私はふんふん、と上機嫌に鼻歌交じりに自作のパイの歌を口ずさみ始める。
なんていったって、パイだ。
この辺りではハチミツや楓の蜜が取れる分、甘味そのものはそれほど高価ではない。
とはいえ、甘く煮詰めた果物やバターをたっぷり使ったパイは当然ご馳走だ。
小麦の香ばしい香りと、甘い蜜の香りに自然と口元が緩む。
なんのパイだろう。
リンゴだろうか。
野イチゴも良い。
「そういえばさ、お嬢」
「パイ」
「言うの忘れてたんだけど」
「パイ」
「騎士さん来てるよ」
「パ」
はい????
ばっとソファをソファを見る。
そこになんとなく居づらそうな顔で、でかい図体を縮こめるようにして座っているのはまさしく聖騎士エリオット・スターレットその人で。
「ひっ」
喉から潰れた悲鳴のような声が漏れた。
それと同時に、私は狩人の肩をよじ登って飛び越え、自室へと逃げ戻ろうとしたわけなのだが――それはあっさり腰の辺りを狩人に捕まえられることによって阻止された。
「はいはい、お嬢おとなしくしてなって。そもそもソファに運んでといったのはお嬢でしょーに」
騎士がいるとわかっていたら頼まなかった!!!!
というかなんでそんな大事なことを言わないんだこの男。
家主に対して客が来ていることを言い忘れるなんてある???
涙目で睨みつけても、男は「何か?」って顔で笑うばかり。
この男、間違いなく確信犯だ。
わかっててやってる。
腹立たしい。
「はい、どうぞ。んじゃパイ切ってくるね」
ぽすり、と騎士の座るソファの向かいに下ろされる。
その際にいつもソファの傍らにおいてあるブランケットを渡してくれたのは、狩人なりの武士の情け的な何かだったのかもしれない。
昨夜から着たきりで、きっとそのまま寝たせいであちこち皺にもなっているであろう服の裾を隠すようにブランケットを広げ、ちょろりと騎士の様子を伺う。
「…………」
珍しく、騎士は少し困ったような顔をしていた。
ほんの少しだけ、目元に赤みがさしている。
それでも、私の「見られたくない」という気持ちを慮るようにちょっと視線を斜め上に彷徨わせてくれているあたり、騎士は今日も誠実だった。
たとえ口角がほんのり持ち上がり、笑いをこらえているように見えたとしても。
「………………………しにたい」
私は呻いてぐんにゃりとソファの上で脱力した。
背もたれに背中を預けて溶ける。
今の私は液体だ。軟体だ。
そのまま横向きにごろりと倒れてもそもそとブランケットの中に潜り込み、騎士の存在を忘れて二度寝をキメたくて仕方がない。
が、その一方これ以上醜態をさらすわけにはいかないと主張する理性もある。
ここまで見られたんだからもう何も怖くないだろうと唆す自堕落な本能と、まだワンチャン取り繕えるふぁいおっふぁいおっと応援する理性の間で揺れた結果、結局私は頑張ってこの場を取り繕うことにした。
こほん、の咳払い。
ブランケットの表面にうっすらういた小さな毛玉を指先でむしったりしながら、口を開く。
「……失礼致しました」
「いえ、とても可愛らしく――」
「ごめんね、私から話を切り出しておいてなんだけどもう触れないでくれる??? 悪いんだけどさっきの醜態についてのコメントをそれ以上聞いたらたぶん私もう自決するしかなくなると思うから」
一息に、言う。
自分から切り出しておいて一切のコメント不要を主張するあたり勝手な言いぐさだとは思うが、こればかりは呑んでほしい。
そうじゃなければ私がしぬ。
恥ずか死ぬ。
私たちのやり取りが聞こえているのか、キッチンで派手にブッホ、と狩人が噴き出す声が聞こえたものの、黙殺する。
というか後でころす。
三回ぐらいころす。
「はい、お待たせ~、パイだよー。良かったね、お嬢の好きなアップルパイだよ」
そんなことを言いつつ狩人が切り分けたパイと紅茶を運んでくる。
パイも紅茶も二人分だ。
一つは騎士の前に。
もう一つは私の前に。
「?」
食べていかないのか、と問うつもりで見上げれば、狩人はひらひらと手を振った。
「俺は仕事に戻るよ。お嬢も目が覚めたわけだし」
「あ……」
そうか。
朝からずっと、私が起きるまでここで待っててくれたのか。
狩人のさりげない優しさに触れたことで、直前まで抱いていた殺意があっけなく霧散―――
「ありがとう」
「ン。じゃあ騎士さん、後はよろしくね」
「ええ、お任せください」
―――まって。
何かおかしくなかっただろうか、今の会話。
何故この男は私の世話を騎士に託していこうとしているのか。
つっこみのタイミングを逃した私が何も言えないでいるうちに、狩人はさっさと手を振って家を出て行ってしまった。
それを立ち上がって見送った騎士が、再びソファに腰を下ろす。
ここは私の家であるはずなのに、何かいろいろ私の知らないところで話が進みすぎているような気がしてならない。
「…………」
「…………」
どうしたものか、な沈黙が降りる。
こんなタイミングで唐突に二人きりにされてしまっても困る。
いろいろと聞きたいことはあるのだけれども、何から口にしたら一番自然な形で会話になるのかがわからない。
何から切り出そうか、と私が迷っていると、まるで助け船を出すかのように騎士がぽつりと口を開いた。
「このパイはメアリが焼いたのですよ。あなたへのお礼だと言っていました」
「ああ、そうだったんですね」
鮮やかな切り口からは、とろりと甘く煮詰められたリンゴがのぞいている。
きっと奮発して焼いてくれたのだろう。
ふ、と口元に柔く笑みが乗った。
私は『魔女』だ。
トマスを助けたのも、『魔女』としての役割を果たしただけに過ぎない。
だから、特別感謝されるようなことではない。
それが私に与えられた『魔女』という役割なのだから。
でも。
それでも。
やっぱり、こういう心づくしのお礼をもらってしまうと、嬉しくなる。
対価を求めて動くようになってしまうのは良くないが、こうしていただいたお礼に喜ぶぐらいなら、きっと堕落ではないだろう。
「わざわざ届けてくださって、ありがとうございます」
「いえ、レニグレラ茸についての報告もありましたので」
「ああ、どうなったのか教えていただいても?」
「…………」
卒なく報告に入るかと思われた騎士が、何かもの言いたげな顔で一呼吸の間を挟んだ。
「?」
私が彼の意図を問うように首を傾げると、彼は少しだけ間残念そうに眉尻を下げて笑った。
「口調、戻されてしまうのですね」
「え」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
それから、彼の言葉の意味を理解すると同時に頬に熱が昇る。
そうだ。
昨夜は無我夢中で。
彼の前でうまく、取り繕いきれていなかった、気がする。
勢いに任せて、随分と素の口調であれやこれやと言ってしまっていた、ような。
「~~~~~ッ」
顔が熱くなる。
お前と仲良くなるつもりなんかねえからな、という意地で被り続けていたようなネコだった。それをこのタイミングで脱いでしまった、というか。脱がされてしまった、というか。いや、脱がされたというより非常事態にネコを被ってる余裕がなくなった、というだけで。
そう。
別に。
別に。
この騎士相手に気を許したというわけでは。
そんな、わけでは。
「………………」
見上げた先、騎士は誠実そうな面持ちで私の言葉を待っている。
「…………………………」
その顔に疲労の色は薄い。
きっと彼は今日もいつもと同じように森の騎士としての務めを果たしてきたのだろう。
そしてわざわざ、その報告のためにここまで足を延ばしてくれた。
彼は王都でも有名な聖騎士であり、本来であればもっと偉そうにしていたところで誰も責めたりはしないのに。
くそう。
認めるしかない。
この人は、善人だ。
良い人だ。
そんな人を相手にこれ以上慇懃無礼を貫けるほど私の意思は強くはなかった。
「……口調を、少し、崩しても?」
「ええ、もちろん」
はあ、と息を吐く。
意地の壁を崩されたという口惜しさも感じないわけではないが、なんとなく、身構えていた肩からも力が抜けたような気がした。
「それじゃあ、報告を聞かせてください」
「ではまずはトマスの件から報告するとしましょう。魔女殿がおっしゃっていたように、昨日トマスは家を抜け出して森で遊んでいたそうなのです」
「……やっぱり」
「母親の言いつけを破って外に出たわけなので――…いつもの遊び場に顔を出すわけにもいかず、人の近づかないあたりを適当に探索していたようです」
「それで、まだ誰も気づいていなかったレニグレラ茸の群生地を見つけてしまった、というわけなのね」
「ええ。トマスに聞いた場所を部下たちと確認しに行ったところ、村から子どもの足で数十分程度の場所で鹿の死体を発見致しました」
「その鹿がレニグレラ茸を運んだ、と見て良さそうね」
「そのようです」
どこかしらでレニグレラ茸に触れた鹿が村の近くで倒れ。
それをトマスが発見し、好奇心に負けて近づいたところで二次被害にあった、ということだろう。
「群生地は広がっていた?」
「鹿の死体はまだ新しく、レニグレラ茸もほとんど増えてはおりませんでした。鹿の処理は部下に任せましたが、今のところ新たな被害者も出ていません」
「それなら良かった」
ほっと胸を撫でおろす。
増えてからでは対処が厄介だ。
「ああでも、まだ油断は出来ないわね。レニグレラ茸の棘に刺された鹿が、どこでレニグレラ茸に触れたのか、という問題が残っているもの」
「部下もそのように言っておりました」
森では、たくさんの鹿が群れを作って暮らしている。
それぞれに縄張りがあり、縄張りを越えて行動するのは珍しいと言えるだろう。
森の浅層に棲む鹿たちはレニグレラ茸の生える森の深層には近づかないし、逆にレニグレラ茸のある森の深層に暮らす鹿は、森の浅層に出てきたりはしない。
そう考えると、子どもの足で辿り着ける程度の森の浅くで死んでいた鹿は、同じ浅層部にてレニグレラ茸に触れた可能性が高い。
まあ、逆に普段森の浅層で暮らす鹿だからこそ、森の深くに迷い込んだ際にレニグレラ茸の恐ろしさを知らずに触れてしまった、という可能性もあるのだが。
どちらにしろ、警戒して損はない。
「村人たちには、まだ油断しないようにと伝えてください。まだ他にも見つかっていないレニグレラ茸の群生地が村の近くにある可能性があります。子どもたちにも、動物の死体を見つけても近づかないように言い聞かせるようにと」
「そのように」
一通り対策を指示して、ほう、と息を吐く。
まだまだ油断はできないが、最悪の事態は免れたと言っても良いだろう。
薬の手配が間に合わないほどレニグレラ茸の患者が大量に発生する、なんていう悪夢は実現せずに済みそうだ。
真面目な話を終えたので、私はテーブルの上のフォークへと手を伸ばす。
「貴方もどうぞ。メアリのパイは絶品よ」
「では、いただきましょう」
さくりとフォークで切り分けたアップルパイを口に運ぶ。
ほろりと口の中で崩れる、パイ生地の香ばしさ。
ぎゅ、と噛みしめると続いて舌が蕩けそうなほどに甘い蜜漬けの林檎の味わいが口の中に広がっていく。
そこで少し渋めに淹れた紅茶を飲むのがたまらない。
疲れた身体に糖分が染み渡る。
見れば騎士も、ざっくりとフォークで大きく切り分けたパイを口に運ぶところだった。
大きな口が開いて、そのサイズ本当に口に入る? と思っていたパイがもぐりと消えていく。
「ああ、これは実に美味ですね」
頬を膨らませて咀嚼した後、ぽろりと零れた彼の感想に「ああこの人も生身の人間なのだなあ」なんて不思議な感慨を抱いてしまった。
出会ってからこれまで、彼は常に騎士らしく振舞っていた。
今だってそうだ。
彼はいつだって騎士らしく、完璧だ。
そんな彼がパイを食べる姿はちょっと驚くほどに生身の人間らしい。
サクサクのパイの皮がぽろりと零れかけたのを、彼は「おっと」と小さな声を上げて掌で受け止める。
そんな姿に自然と口元に柔らかな笑みが浮かんだ。
私の視線に気付いたのか、騎士が少しだけ気恥ずかしそうに双眸を伏せ……掌で受け止めたパイのかけらを口の中にポイと放り込んだ。
マナー的にはあまり褒められたことではないはずなのに、彼がして見せると気さくな仕草に見えるのはやはり見目の良さ故だろうか。
これだから顔の良い男は。
「そういえば、魔女殿」
ふと口を開いた彼に、視線を持ち上げる。
「あなたは役に立つ男が好きだと仰っていましたね」
「ッ、」
危うくパイを口から噴きかけた。
いきなり何を言い出すのか。
内心目を白黒させつつ、私はなんとかかんとか平静を保って口の中にあったパイを飲み込む。
「……………それが、何か」
「昨夜の私は、あなたのお役に立ったでしょうか」
彼の誠実な態度や、ふとした人間味を感じさせる仕草に絆されかけていたところに冷水をぶっかけられたかのような心地がした。
ああやっぱりこの男もあいつらの同類なのだ。
ぐつりと腹の底で怒りと絶望にも似た感情が煮立つ。
裏切られた、と感じるのは私の勝手に過ぎないというのはわかっている。
わかってはいても、感情は理性ほど物分かりが良くない。
「何が、言いたいの」
声音が冷える。
騎士の澄んだ蒼が真っ直ぐに私を見据える。
どこか挑むような、いっそ真摯さすら滲ませた声音で騎士は言葉を続けた。
「――褒美を戴ければと」
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