6

 病院の中庭の片隅で、私はガタガタと震えていた。それはもはや、痙攣に近い。

 止まらない。


 止まりそうにない。


 誰もが望む晴天のはずなのに、今の私はそれを望んでいなかった。寧ろ迷惑で、忌々しい。消えてほしいと思う。私の見えないところへ。


 それができないならどうか。


 私を消し去ってほしい。


「あ、いたいた!しおりお姉ちゃーん」


 子供の声がした。誰かを探しているようだ。きっと本を読んでいたら、そんな声も聞こえなかったんだろう。今は逆に、不要なことにまで敏感に反応してしまう。過剰反応、と言ってもいい。


「お姉ちゃん?」


 私の目の前で少年が立ち止まった。見覚えがある。・・・ああそうか、しおりお姉ちゃんは私のことか。


「こんにちは、勇気君」


「お姉ちゃんどうしたの?元気ないよ?」


 心配そうに私の顔を覗きながら、となりに座る。こんな幼い子にまで心配されるとは、我ながら一体どんな表現をしていたのだろうか。


「考え事をね、してただけだよ。それより、何か用だった?」


「うん、またお話したいなあって思って。でも探したよ、屋上にいると思ったらいなかったんだもん」


「屋、上・・・」


 その言葉に、胸が張り裂けそうになる。思わず感情が高ぶって、彼の肩を強く掴んだ。


「ど、どうしたのしおりお姉ちゃん」


「勇気君、もう屋上には、行かないで・・・!」


「え・・・・・え?」


 私は・・・私は、何を言っているんだろう。


 そんなこと、あるわけないのに。


 何を怯えている?


 何を否定しようとしている?


「どうして?嫌だよ、僕、しおりお姉ちゃんともっとお話したいのに」


「私ももう屋上には行かないから」


「そうなの?でもどうして?」


「・・・どうしても、お願い。これからはここでお話しよう?だから、ね?」


「うーん・・・」


 納得できないという表情で唸る。それも当たり前だ。何の理由も聞かずに頷けるものではない。特に子供は。理由を求めたがる生き物なのだから。


 しかし、彼は少し悩んでから、頷いてくれた。


「うん、いいよ。お姉ちゃんがそう言うなら」


「ありがとう」


 そう言って、彼を抱きしめる。


「ごめんね、こんな変なお願いしちゃって」


「ううん、全然いいよ。僕しおりお姉ちゃんのこと好きだから、お姉ちゃんがそう言うならそうするよ」


 勇気君の言葉に、思わず顔がほころぶ。不安だらけの心の中が、少しだけ晴れやかになった。まるで今日の天気のよう、とまではいかないが。


「ところでしおりお姉ちゃん、今日は本は持ってないんだね」


「・・・・・うん、まあね」


 一番に、彼はそのことを指摘した。そう、私はこの日、彼の言うとおり本を手にしていなかった。その理由は、今日は読書目的で中庭に足を運んだわけではないというのもあるが、それ以上に。


「どうして持ってないの?いつも持ち歩いて読んでるんじゃないの?」


「・・・そうなんだけどね。まあ、たまにはただのんびり日に当たるのもいいかなって思って」


「ふーん、そうなんだ」


 実際には、違う。本を持っていないのは、本を読むのが恐ろしくなったからだ。今までずっと読んできたはずの本が、恐ろしくて。私は本を開くどころか、触れることさえできなくなってしまっていた。その証拠に、昨日は一度もあの本を読んでいない。私の唯一の、存在証明だったはずなのに。


 最も、内容なんてもう丸暗記しているくらいなので、どんなにあの本を遠ざけようとも常に心の一番深いところにそれはいる。思い出したくなくても思い出してしまう。勝手に頭の中で、物語を読み進めてしまう。


 忘れることはできない。


 忘れた記憶を、思い出すことができないのと同じように。


「どう?しおりお姉ちゃんは何か思い出せた?」


「・・・いや、まだ何も。もう少し時間がかかるみたいだよ。勇気君はどう?」


「僕はね、最近よく何かを思い出しそうになるの。でもね、あとちょっとのところでいつもふわー、って感じでどっかいっちゃうの」


「意地悪だね、神様は。でもそれはきっと思い出す前兆みたいなものだと思うから、あと少しの辛抱だよ」


「ほんと!?」


 私は頷く。まるで確証のないでたらめをのたまって。でも、多分間違っていないはずだ。彼の現象は少なくとも、よい傾向にある。


 ・・・それが、私には。


 たまらなく嫌だった。


「勇気君は何か、悩み事はある?」


「悩み事?何で?」


「ちょっと気になって。何かある?」


「うーん、記憶を忘れてることが悩みだよ」


「それ以外で、何かない?」


「今はないよ。記憶を忘れる前は、あったのかもしれないけど」


「忘れる、前」


 以前私が話したことを真に受けたのだろう、彼は「記憶を失くす」という表現は使わなかった。代わりに「記憶を忘れる」という表現を使った。


 ・・・。


 それが、私の胸をしめつける。


「その記憶、なんだけどさ」


「うん」


「もしかしたら、思い出さないほうがいいのかもしれない」


「え?」


 何を。


 何を言っているんだ、私は。


「急にどうしたの、お姉ちゃん」


「いや、ごめん・・・その、そうじゃなくて。思い出す思い出が、必ずしもいい思い出ばかりじゃない、と、いうか・・・」


「そんなの当たり前じゃんか。そりゃあいいことばっかりじゃないかもしれないけど、やっぱり思い出したいよ。楽しい思い出だって沢山あるだろうから!」


「それはそうかもしれないけど、でも、忘れていたほうが幸せなことも、世の中にはあって・・・」


「・・・・・何を言ってるの?しおりお姉ちゃん」


 彼が、困惑した表情で私を見る。それは失望にも似た表情だった。それも当然だ。あんなにも自分を励ましてくれた人が、今度はそれと正反対のことを言い出したのだから。困惑して・・・失望して、当然だ。


「なんで、そんなこと言うの?お姉ちゃんらしくないよ。僕もう少しで思い出せるんでしょ?そんなこと言わないでよ!」


 服の袖を引っ張り、泣きそうな顔で言う。急に自分を否定されたような気持ちになってしまったのだろう。そんな話聞きたくない、とでも言わんばかりの感情が、その表情には詰まっていた。その顔を見て、私も泣きそうになる。


「でももし思い出した記憶で、最悪なことになったら・・・・・!」


「最悪なこと、って・・・?」


「それは・・・・・」


「変だよ、しおりお姉ちゃん。お姉ちゃんは僕に思い出さなければいいって言うの!?」


 その言葉は、記憶に新しい。私が、園崎さんに言った言葉だ。まさか自分がその言葉を言われる立場になるとは夢にも思わなかった。それだけ酷いことを、今の私は言っているのだろう。


 でもどうして、私は、こんなことを言うのだろう。怖いのか?彼が記憶を取り戻すことが。


 ・・・ああ、そうだ、怖い。


 彼が記憶を取り戻して。


 


 だから私は。


 彼のその問いを、肯定してしまった。


「・・・・・・うん」


「―――」


 今度は完全な失望を顔に滲ませた。服の袖を掴んでいた手が、するりと抜ける。


「お姉ちゃんなんて大っ嫌い」


 その言葉を残して、彼は走り去ってしまった。大嫌いという言葉が残響のように、何度も耳の奥で鳴り響く。彼の背を追いかけようともしない私は、底なしの臆病者だ。


 本当に私は、何を言っているのだろう。ありもしない幻想に溺れて、人を傷つけて。


 否定。


 肯定。


 何も、分からないまま。


 はぁ、とため息をはく。それは理解しがたい現状に向かってというよりは、自分自身という人間に向かってはいた呆れからくるものだった。


 園崎さんとの一件以来、私は今まで以上に自分というものが何なのか分からなくなっていた。それはもう「自分というものが分からなくなる」とか、そんな単純なものではなかった。


 私は。


 私は今、生きているのか?


 私の生は全て決められていて、そのレールの上を歩いているだけなのではないか。


 彼が、園崎さんが言っていたのは、そういうことなのか?


 私が、全てを知っているのは。


 私が、つくられた存在だから?


 ・・・・・。


 違う。


 そんなわけない。


 確かに私は今、私が誰なのかを知らない。覚えていない。それでも、ここにいることだけは確かなはずだ。私は今自分の意志でここにいるし、自分の判断でここにいる。それが全部嘘なんて、信じない。


 自分の存在が分からなくたって。


 ここにいることだけは、確かだろう?


 ・・・・・。


 そうだ、私は何を考えていたんだ。彼の言葉を真に受けるなんて。そんなわけ、あるはずない。


 できるはずない。


 否定。


 彼の言葉を、私が肯定しかけていた現実を否定する。どうかしていた。あんな言葉に惑わされて、文字通り自分を見失っていたんだ。


 なんて酷いことを言ってしまったんだ、私は、今度勇気君に会ったら、ちゃんと謝ろう。


 謝って、仲直りして。


 また、話がしたい。


 そう思った。


 そう願った。


 だけど、


 だけど。


 その願いは叶わなかった。


 叶わないのと同時に、思い知らされる。


 私の生は何もかも。


 つくりものだったということを。




「―――死んだ!?」


 彼と喧嘩をした、僅か一日後。彼に謝ろうと、病室を訪ねたその時。


 彼の、訃報を受けた。


「ええ、病院という場でこのような事態が起こってしまったのは、本当に悲しいばかりです」


 俯きぎみに、とある看護師さんが言う。病院という場で死人がでること自体は、別に珍しくもない。むしろどこよりも多いくらいで、納得できる。だが、それをもってしても彼の死は、病院側にとっては衝撃だった。いや、衝撃というよりもそれはとんでもない失態だった。


 失態と言っても分かりやすい医療ミスがあったわけではないが、これも医療ミスと言えば医療ミスだ。


 観察すべき対象の、観察を怠ったのだから。


 意識が、朦朧としてくる。ぐらりと眩暈がして思わず壁に手をついた。


「大丈夫ですか?」


 その体を看護師さんが支えてくれる。それでも吐き気はおさまることを知らない。


「そんな・・・なんで・・・」


 言いたいことは、それだけだった。それしか言えなかった。ただひたすらに頭の中で、何で、どうしてと繰り返すばかりだった。


「・・・おそらくは、記憶が戻ったのではないかと思われます。同室の方のお話では昨日の夜突然人が変わったかのように豹変したと仰っておられましたので、おそらく・・・」


!!」


 怒鳴りつけるように、私はそう言った。それは廊下どころか病室まで響き渡るほどの大声で、自分がこんな大声を出せることに自分で驚いた。


「・・・知っておられたのですか?彼の記憶が戻っていたことを」


「・・・っ」


 違う!


 違う違う違う違う違う違う違う違う。


 そうじゃない、そうじゃないんだ。


「・・・・・いえ、すみません。知りません」


 看護師さんは困惑した表情をする。それも当然、こんな支離滅裂で情緒不安定な人を相手にしているのだ、困惑するなというほうが無理な話だろう。


「その、彼は本当に・・・・・自殺、だったんですか」


「はい、そう聞いております」


 ・・・。


 ・・・・・。


 ・・・・・・・。


「他殺の可能性とかは・・・誰かに、突き落とされたりとか」


 看護師さんは首を振る。


「警察の調べでは、間違いなく自殺であると。遺書もあったそうですし」


 その言葉にがばっ、と顔を上げる。その勢いで看護師さんに掴みかかる。


「遺書には、遺書にはなんて・・・」


「そ、そこまでは私には分かりません」


「・・・・・っ」


 なら、警察に聞いて・・・


「知ってますよ、僕。何て書いてあったか」


 と、突然後ろから声が聞こえた。振り返ると、一人の男性が立っていた。この病院の患者だろう、私と同じ入院用の服を着ていた。


「あなた今、知ってるって・・・」


「ええ、昨日亡くなった子供の遺書のことですよね?知ってますよ」


 どうやら私たちの話を聞いていたらしい。いや、あれだけ大声を出している以上、それは盗み聞きとは言えないだろう。悪いのは私だし、たとえ盗み聞きをされていたところでこの場合なら起こる理由もない。


「どうして」


「発見したのが、僕だったです。第一発見者、ってやつですかね」


 たまたま通りかかった人が発見者だなんて、あまりに都合がいい。だが今は、その都合のよさにしがみついた。


「・・・・それで、遺書にはなんて」


「たった一言だけでしたよ。『お姉ちゃんの言うとおり記憶なんて思い出さなければよかった。お姉ちゃん、ごめんなさい』って」


 ―――――。


 耐え切れず。


 私は、床に膝をついた。


「あ、立花さん!?」


 看護師さんが支えようとするも、私は立ち上がれない。


「・・・さっきまで警察で事情聴取受けていたんですが、警察の方はお姉ちゃんというのが誰か探しているみたいですよ。よく分かりませんがもしあなたがそうなら、警察に行ってきた方がいいと思います」


 遺書の内容を教えてくれた彼は、そう言い残して歩いていった。こんな私を見ても冷静に。冷酷と言ったほうがいいのだろうか?たとえそうだとしても彼を責める権利は私にはないし、なんなら寧ろお礼を言うべきだ。しかし、今の私にお礼を言う余裕なんてなかった。


 ごめんなさい。


 ごめんなさい。


 謝らなくちゃいけないのは、私のほうだ。


「―――しおりん!?」


 ふいに、聞きなれた声がした。私を、元気付けてくれる声だ。今なら振り返らずとも、それが誰だか分かる。


「詩織、一体どうしたの?」


 二人が私に駆け寄ってくる。その優しさが嬉しくて。


 その優しさが、怖かった。


「美、緒・・・」


 力加減も見極めず、私は美緒の肩に掴みかかった。


「いっ・・・!ど、どうしたのしおりん、痛いよ・・・」


「美緒・・・美緒は、・・・・・!?」


 気が狂ったような目で、訴える。


「え、な、何が」


「桜花も違うよね!?」


「・・・詩織、落ち着いて」


 要領の得ない私を見て、いつものように冷静に宥める桜花。無論尋常ではない私は、その冷静さが恨めしい。


「看護師さん、何があったんですか?」


「それが、私にもさっぱり・・・」


 さっぱりだと?わけが分からないのはこっちのほうだ。


「詩織」


 美緒が、優しく私を抱きしめる。爪が食い込むほどに肩を掴まれていることなど、まるで気にしていないかのように。


「大丈夫だよ、詩織。私は、ここにいるから」


「―――――」


 彼女には、私に何があったのかなんて分からない。だけど、それでも、彼女は私のために言葉を尽くす。そしてそれは、私が一番言ってほしい言葉だった。


 ここにいる。


 存在してる。


 空想でも、想像でも、妄想でもなく。


 確かに、ここにいる。


 それを。


 それを、言ってほしかった。


「美緒・・・」


 その言葉で、私は一気に冷静さを取り戻す。まるで憑き物が落ちたかのようだった。とは言っても、それで全てが解決したわけじゃない。美緒の存在が確かだとして、桜花の存在が確かだとして。じゃあ、私は?私は今、どこにいる?


 肩にかかる力が緩んだのを見て、美緒が密着させていた体を離す。すっ、と消えていく人肌の熱に名残惜しさを感じたが、だからこそより強く、彼女の存在を確かめることができたような気がした。


「落ち着いた?」


「・・・・・美緒」


 最後に、もう一度だけ確かめる。二人が本当に、存在しているのかを。


「内定おめでとう」


「え?」


「桜花、イギリス行っても元気でね」


「・・・・・」


 一瞬、困惑した表情を見せる。美緒も、桜花も。だけど、すぐに笑って答えた。


「あはは、受かると信じてくれてたんだ。だけどまた駄目だったよ。ごめんね、期待に答えられなくて」


「詩織は私が海外に就職したと思ってたの?違うよ、普通の、都内の企業だよ。だから別に会おうと思えばいつでも会えるわ」


 と、二人は。


 私のを、否定してくれた。


「美緒、桜花」


 飽きずに、二人の名前を呼ぶ。そして、その後に続く言葉を考えた。


 謝罪か、感謝か。


「―――――ごめん」


 ・・・・・・・。


 その上で、謝罪を選んだのは。


 自分の行く末が、分かっていたからなんだろう。

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