5

「立花さん、面会人がいらっしゃってますよ」


「面会人?」


「ええ、面会室の方で待っておられるので、お連れいたします」


「・・・・・」


 病院に面会室があるとは初めて知ったが(寧ろないほうがおかしい)それ以上に私に面会人が来たことに驚きだ。


 しかもわざわざ面会室に呼び出すということは、間違いなく美緒と桜花ではない。しかしならば一体誰が私に会いに来るというのだろうか。


 清水さんに連れられて、廊下を歩く。病人にわざわざ赴かせるというのはなかなかいい度胸だが、別に私は自分で歩けないほど重症というわけでもない。寧ろ何故未だに入院しているのかさっぱり分からないくらいだ。


「誰なんですか、その、面会人っていうのは」


「それは私には分かりかねますが・・・」


 取り付く島もない。とはいえ全くもってその通りで返す言葉もない。これはどう考えても私の質問が悪い。


「名前とか、聞いていませんか?」


「確か園崎そのざき桔梗ききょう様、だとお伺いしています」


 園崎桔梗。


 聞いたことのない名前だった(そりゃそうだ)。美緒と桜花との会話の中でも一度も出てきていない名だ。記憶の片鱗に触れるような名でもない。もし親しい仲なら、何か感じてもよさそうなものだが。


「どうして、わざわざ面会室に?」


「二人きりで話がしたいと、そう仰っておられました」


「女性ですか、それとも男性?」


「男性です」


 ・・・男、か。じゃあもしかして。


「清水さんは直接お会いしたんですよね、その人に」


「はい、立花さんにお会いしたいので、面会室に連れてきてほしいと頼まれました」


「じゃあその、その人と私の関係とかって・・・」


「そういったことは一切お聞きしておりませんが・・・直接ご本人からお聞きになればよろしいかと。丁度今お会いするわけですし」


「・・・そうですね」


 確かに、彼女にそんな話を聞いても仕方がない。聞くなら、本人に聞けばいい。


 清水さんは一つの扉の前で立ち止まる。見れば「第三面会室」と書かれていた。


「着きました、こちらです」


 そう言うと彼女は脇に避けて扉を譲った。どうやら話が終わるまでここで待っている、という意思表示のようだ。


 一瞬の間をおいて、意を決して私は扉を開けた。


「・・・・・」


 目に入ってきたのは、小奇麗な部屋だった。もちろん病院なのだから綺麗なのは当たり前だし、もっと言えば別に病院でなくともそれは同じだ。しかし少なくとも、面会室にしておくにはあまりにもったいない部屋だと、そんなことを適当に思った。いや、いい部屋こそ面会室にすべきなのか?


「やあ、久しぶり、だね・・・」


 その小奇麗な部屋のソファに、深々と腰を下ろす男の姿があった。それは青年というより成年と呼ぶが相応しい風体で、一目見てかっこいいと言える人だった。私はファッションには疎いが、それでもいいファッションなんだろう、と思える服装をしていた。モデルとまではいかないにしろ充分人に羨ましがられる容姿だろう。学生時代はさぞかしおモテになったに違いない。もしかしたら今も仕事場で女性にキャーキャー言われてるかもしれない。頭もよさそうなので(勝手な想像だが)いいところに勤めてそうだ。しかしだからこそ、こんな人が私に会いに来たことが信じられない。私とは無縁の人のように思えるが。


 そんなわけだから、確信に近かった想像が若干揺らいでしまった。もう少し普通の人だったら可能性もあると思ったんだが・・・やはり私の思い違いか?


「そんなにジロジロ見るなよ。座ったらどうだ?」


 目の前の開いているソファに目を配る。少しの危機感を感じて拒もうかと思ったが、大人しくその言葉に従った。


「あの、あなたは・・・」


 私がそう聞くと彼は、少し悲しそうに「くっ」と笑った。


「そんなことを聞くとわな。いや、記憶がないんだから当然だよな」


「・・・申し訳ありません」


「ああいや、別にいいんだ。悪いのは全部、俺なんだからな。寧ろ忘れててくれてよかったよ、俺のことなんて」


 心底悲しそうに、彼は言う。妙に気になることばかりを並べて。


「あの、園崎さん」


 そう言うと彼は顔をがばっ、と上げた。


「名前、覚えてるのか?」


「あ、いや、さっき看護師さんに聞いただけで」


「あぁそうか、そりゃそうか。いやごめん」


「・・・」


 寧ろこっちが謝りたくなった。希望を与えた上でその希望を取り上げてしまったかのような気分になった。


「で、何だ」


「あ、えと、園崎さんはその・・・」


「できれば、敬語なんて使わないでほしいんだがな。俺とお前の仲なんだから。・・・って、俺にそんなこと言う資格はないか」


 だろう、とか言われてももちろんどんな仲か分からないが、しかし今の言葉で確信を持った。やはり私の想像は正しかったようだ。


「あなたは私の、恋人ですか?」


「・・・・・」


 視線を、こちらに向ける。


七瀬ななせさんか篠崎しのざきさんから聞いたのか?」


 七瀬と篠崎というのは、美緒と桜花の苗字だ。


「二人を、知っているんですか?」


 一つため息をついて、


「知っているさ、恋人の友達なんだから。それくらいはね」


 ・・・・・。


 やっぱり、と言うべきか。いや、こんな美形が恋人であることをやっぱりと言うのはあまりに自意識過剰なのだが、あの二人の反応からして、隠し事をしているのは明白だった。だが、何故私に恋人がいることを隠したかったのか、その理由が最初は分からなかった。


 でも、今は分かる。


 いや、分かってしまった。


 できればその推論は、間違っていてほしいと思う。ただの偶然だと、ただの言葉の綾だと、そう願いたい。もしこれが事実であったなら私は。


 私は―――。


「いやしかし、あの二人が私のことを喋るはずがない、か。だけどだったらどうして・・・」


「それは、あなたが私をこんな風にした張本人だからですか?」


「―――え?」


「あなたが、事故を起こした張本人だからですか?」


「・・・・・」


 事故を起こし。


 私の記憶を奪った。


 だから二人は、私に、彼のことを話さなかった。


 頼む。


 違っていてくれ。


 こんな想像は、単なる妄想であってくれ。


 でないと。


 でないと・・・。


「・・・・・どうして、そのことを」


「―――っ」


 その反応は、私の言葉が正しいということ。


 ・・・やめてくれ。


 そんな事実。


 そんな妄想。


「まさか、あの二人が話したのか?」


 私は首を横に振る。


「いいえ、二人からはトラックと衝突したとしか聞かされていません。私の乗っていた車が、事故に遭ったとしか」


「ならどうして」


「桜花が言ったんです、そうやって。私の乗っていた車が事故に遭ったって」


「・・・どういうことだ?」


「普通、私が運転していたら、そんな表現はしないと思ったんです。『詩織の乗っていた車が』なんて」


「あ・・・」


「だから私は運転していなかったんじゃないかって、私以外に車を運転していた人がいたんじゃないかって。そう、思ったんです」


「・・・なるほどね」


「そして、何故二人がその事実を隠したか。二人は私に、その人物のことを知ってほしくなかった。そして、思い出してほしくなかった。さらに二人は、私が恋人の話をふったとき、嫌にその話題を避けている節があった。ともなれば、車を運転していた人物こそが、私の恋人。つまり、あなたではないかと」


「・・・・・そうか。やっぱりお前は・・・君は、頭がいい」


「・・・・・」


「嫌になるほど、ね」


 そこまで言って、言い切って。言いたいことを洗いざらいぶちまけたところで、私は大きくため息をついた。同じく彼も、大きく息を吸って吐き出した。


「どうして二人は、そんなことを?」


「俺が頼んだのさ、『俺のことは喋らないでくれ』って、二人にね。最もそんなことを言うまでもなく、二人は私の存在を君から抹消しようと思っていただろうけどね」


「どうして」


「そりゃあ親友が俺のせいで死にかけたんだ。俺のことを嫌って当然さ」


「そうじゃないです。どうしてあなたは、そんなことを頼んだんですか」


「もちろん、償いのつもりさ。君がこうなってしまったのは俺の責任だ。だから、君には俺のことを忘れてもらおうと思ったのさ」


「事故の原因はトラックの居眠り運転だって・・・それも嘘ですか」


「ああ、嘘だ」


「じゃあ一体何が」


「・・・それについては、答える必要はないかな」


「どういうことですか」


「・・・・・」


 一瞬だけ逡巡して、彼は膝をパン、と叩いた。


「言っただろ?俺のことは全部忘れてほしい。だから、何があったかなんて知らなくていい」


 随分身勝手な言い分に、私は露骨に顔をしかめる。


「勝手なことを言いますね。私の記憶喪失を利用して、全部なかったことにするつもりですか」


「いや、そんなつもりは」


「それってつまり、私の記憶が一生戻らなければいいと言っているようなものじゃないですか。一生、あなたのことを、今までのことを思い出さずに生きろと、そう仰るんですか」


「・・・・・」


 返す言葉もないのか、彼は頭を抱えて黙り込んでしまう。その姿が憐れで、私の中にあった怒りにも似た感情は押さえ込まれてしまう。


「・・・どうせいつか、全部思い出してしまうんですよ。ですから、教えてください。何があったのかを、全て。それとも、本当にただ、あなたが事故を起こしただけなんですか」


 思い出してはいけない。そう思っていたけれど。


 このままでは、まずい。


 別の理由であってくれなければまずい。


 だって、恋人が事故を起こして記憶を失ったのは。


 


「それは、できない」


「何故ですか」


「君は・・・知る必要はない」


 ―――。


 その一言で。押さえ込んでいた感情が、爆発した。


 それは、真実を知ろうとする私の覚悟を踏みにじられたからというよりも、別の理由であってほしいという願い故だった。要はその願いを聞き入れてもらえなかったからという、子供でも言わないような我侭を、私は言っているのだ。


「ならどうして、私に会いに来たんですか!」


 感情に任せ、思わず立ち上がる。そうやって自分よりもずっと身長の高い彼を、見下した。


「『俺のことは全部忘れてほしい』なんて言うくらいなら、どうして今日私に会いに来たんですかっ。今になって、今更になって。どうして会いに来たんですか。今更来るくらいなら来なければいいじゃないですか。今更来るくらいならどうしてもっと早く来てくれなかったんですか」


 私の恋人なら。


 私をこんな風にしてしまった張本人なら。


 一番に会いに来るものじゃないのか。


 どうして二十日も過ぎて、今更になって・・・。


「・・・・・」


 その沈黙に耐えられなかったのか、彼は重い口を開いた。


「最初は、すぐに会いに行こうと思ったよ。でも君が目覚めてから、急に会うのが怖く、なったんだ。君が俺を見て、俺をどう思うのかが、怖かった。謝りに行こうと何度も思った。だけど、行けなかった。だから、だからもういっそ、俺のことを忘れてもらおうと思ったんだ・・・」


「・・・ならそれは、償いでもなんでもないでしょう」


「あぁ、単なる臆病者の言い訳さ。・・・分かってるよ。本当に、ごめん・・・・・」


 ・・・。


 自分で理解しているなら、まだ救いはあるか。


 それにどうやら、そこまで彼を責められる私でもない、か。確かに真実を知りたいけれど、やっぱりそれは私の我侭だから。それでもこの話を押し通そうとするのなら、あまりに私は自分勝手だろう。


 それに私は、彼にお礼を言わなくちゃいけないようだし。


 たとえ私をこんな風にしたのが、彼だとしても。


 私は再びソファに座り、居住まいを正す。とりあえず今の焦りは忘れて、冷静になる。


「いいですよ、許してあげます。結局はちゃんとこうやって会いに来て、謝ってくれたわけですからね」


「ほ、本当に?」


「でも一つだけ聞かせてください。そう思っていたなら、私に会いに来たのは何故ですか。良心の呵責、ですか」


 彼は、首を横に振る。


「なら、どうして」


「・・・・・・・・・・・会いたく、なったんだ」


 その言葉に私は、薄く笑う。


 よかった。


 その言葉が、聞きたかった。


 その言葉が聞ければ、充分だ。


「ありがとうございます」


「い、いや、お礼を言われるようなことじゃ」


「いいえ、感謝してますよ。だって、目覚める前はちゃんと、会いに来てくれていたんでしょう?『目覚めてから会うのが怖くなった』ってことは」


「あ、あぁ・・・でも、それだって感謝されるようなことは・・・」


「あるよ。ずっと私の体、大切にしてくれていたんでしょう?」


「それは・・・」


 人の体は、一年も動かさなければ自分の意志ではまともに動かせなくなる。だというのに、私は目覚めたその日から、充分すぎるほどに体を動かすことができた。誰かが毎日のようにリハビリを行ってくれていなければ、こうはいかない。病院側が患者一人にここまで献身的な治療をしてくれるとは到底思えない。ならば一体誰がそれを成してくれていたのか。美緒でも桜花でもないとするならば、それはもう友情よりも強い何かを持つ相手しかありえない。


「入院費も、あなたが出してくれているの?」


「それは、まあ、当然さ。俺の責任なわけだし」


 その言葉に私はクスリと笑う。少なくとも成すべきことを蔑ろにしない、責任感の強い人であることは間違いないようだ。私にはもったいないくらいの、恋人だ。


「ありがとう。・・・園崎・・・・・・・・さん」


 名前で、呼んでみる。しかし流石に下の名前では呼べないし、呼び捨てにもできない。それでも彼は嬉しそうに笑った。


「恋人だから特別扱い・・・ってわけでもなさそうですね。誰にでも優しい・・・いえ、甘い?お人好しですかね」


「・・・お前もな。人のこと言えた口じゃないさ」


 私の呼び方が、柔らかい表現に変わった。いや、寧ろ硬いのか?でも、崩れた表現になったのは間違いない。


 多分彼は事故の負い目を感じて、私のことを「君」と言い直したんだろう。どこか、よそよそしい呼び方に。他人同士に、戻ろうとしたんだろう。


「しかし私は年上の人と付き合っていたんですね。似合わないなあ。付き合うなら年下だと思ってました」


「何でまた」


「何となくそんな気がしたんです。子供は好きですし。最も、恋人ができるかどうかすら怪しいと思っていましたが」


「そんなことないさ。誰よりも魅力的だよ、お前は」


 歯の浮くような台詞を臆面もなく言う。この辺は流石恋人と言ったところか。女遊びの激しい人の台詞っぽくもあるが。


「そういえば、どうして年上と分かったんだ?」


「流石に見た目で分かりますよ。自分よりずっと年上だと分かります。いくつまでかは分かりませんが」


「二十八だよ、今年でね」


「二十八ですか・・・じゃあもう立派な社会人ですね」


「あぁ・・・社会人だった、かな」


「?どういうことです?」


「あー、実はつい最近やめたんだよ、仕事」


「え、やめた?それはまたどうして」


「まあその、色々とあってね」


 ・・・・・。


 まあ、恋人だろうが人の人生に口出しするつもりはないが、その歳で仕事をやめて次があるのだろうか。いや、まだそれなりに若いと言えば若いんだろうけど。


「これからどうするおつもりなんですか?」


「今考えてるところだよ、色々とね」


「真面目で計画的な人かと思ったら、案外適当なんですねぇ」


 急に親近感が沸いた。というか、私の恋人に相応しいとすら思った。だって似てるんだもん、私と。もしかしたら私たちは出会うべくして出会ったのかもしれない、なんて、適当に思った。


「しかし、六つも歳が違うのに私たちはどうやって知り合ったんですか?同じ大学生だというなら理解できますが、社会人の方と恋人になるなんて、きっかけすらつかめませんが」


「そこまで不可解なことでもないだろう?それに、これに関してはさしたるドラマはないよ。何事も偶然の積み重なりさ、そうだろう?」


「偶然の、積み重なり・・・」


 その言葉、思わず反復してしまう。


「ま、平たく言えば俺の一目惚れだよ」


「一目惚れ?私に?」


 笑えない冗談だ。いや、一週回って笑えてくる。しかし彼としては何一つ冗談のつもりではないようだ。


「随分変わった趣味をお持ちだったんですね。私なんかに一目惚れなんて」


「・・・記憶を失ったというのに変わらないな、お前は。相変わらず自分というものを卑下してみせる。ま、その自分に対する自信のなさを俺は好いたんだろうけどね」


「私って、ずっとこんな感じだったんですか」


「ああ、面白いくらいに自分というものを許していなかったよ。自分の存在する理由とか、本気でよく自問自答してたな」


「・・・・・」


 それはそれは、なかなか恥ずかしい。普段からそんなことを考えていたのか。何かその記憶は本格的に思い出したくないぞ。


「何て言うか毎日、自殺するために自殺していいだけの理由を探したりしてるような人だったかな」


「自殺していいだけの理由?」


「そう、お前今、自殺ってどういうものだと思ってる?」


「・・・許されないことだと思ってます」


「そう、そうだな。記憶があったときのお前も、そう思ってたよ。だけど、お前は毎日死のうとしてた」


「思った以上に病気ですね、私」


 記憶喪失よりそっちの方がやばい気がする。


「ああ、病気と言っても差し支えなかったと思う。でも、どれだけ毎日死のうとしてても、実際に死ぬようなことはしなかったよ。それは許されないことだって思ってたみたいだから」


「それなら、一応救いようはありますね」


「だが同時に、酷く危険でもある」


「というと?」


「頭のいいお前なら言わなくても分かるだろう?『死ぬに足る理由がないから死なない』って意味の危うさを」


「・・・裏を返せば、『死ぬに足る理由があれば死ぬ』ってことですね」


「そう、そういうこと。それも、『容易く』な。多分お前は躊躇わないだろうな、死ぬと決めたら、一切。それがいつも心配だった」


「死ぬに足る理由、ですか・・・そうそう思いつきませんがね」


 そもそもそんなものが、この世に存在するのだろうか。理由があれば死んでもいいなんてこと、あるはずもないのに。


「人のためなら死ねる、ってやつですかね」


「そうだな、多分そう。間違いなくお前は、そう考えていた。そうやってしか自己を肯定できない。自分の存在価値が見出せない。そんなやつだったよ」


「随分なことを言いますね。私の恋人のくせに」


「俺の恋人だからこそ、こんな風に言うんだよ。実際今、自分の存在価値ってやつを言えるか?理解できるか?」


「できませんけど、でもそれは私に限った話でもないでしょう?誰だって理解できないですよ、そんなもの」


「かもな。だけどお前は理解しなくちゃいけない。何故ならお前はそれを、死ぬことの中に見出してしまうからだ」


「・・・・・」


「だから何か、自分がここにいる意味を見つけておいてほしい。その意味の中に、俺はいなくて構わないから。七瀬さんのためでもいいし、篠崎さんのためでもいいし、別の誰かでも、何でもいいから」


 意味、か。


 存在理由。


 私が生きる理由は?


「本を読むため・・・読み続けるため」


「―――」


 彼は私の言葉に一瞬困惑するが「それでもいい」と頷く。


 あの本を読み続けることが。


 私がここにいる証明のように感じた。


 確かに私は今、あの本に恐怖を感じている。何かがおかしい、あの本に。だけどそれでも、あの本を読んでいるときだけは、自分の存在を確かめることができたような気がした。


「だけど、そんなに本が好きだったかな」


「・・・前の私は、好きじゃなかった?」


「嫌いというわけでもなかったけどね。好き好んで読む人じゃなかった」


 ・・・じゃあ、どうして


 私はあの本を持っている。


 私はあの本を、読み続けている。


「あの本は、私が昔から持っていたものなの?」


「あの本っていうのは?」


「・・・記憶を失った、女の子のお話なのだけど」


「それはまた、結構な偶然だね」


 偶然?


 これは、偶然なのか?


「前の私はそんな本を持っていた?」


「少なくとも俺は知らないな。まあ恋人である俺が知らないなら持っていなかったと思う。そんなに大事にしているなら、話に聞いていないのは不自然だろうからね」


 彼の言い分は最もだ。嘘をついているようにも見えない(どんな審美眼を持っているというんだ)。じゃあどうして目覚めたとき、私はあの本を持っていた?


「兎に角、大事なものがあるならよかったよ。そろそろ俺は帰るよ。もう来ないでほしいと言うならもう来ないけど、来てもいいならまた来るよ」


「・・・それはどういう意味。会いたくないとか抜かしながら会いに来ておいて」


「だから、お前がいいと言うならまた来るよ。確かにお前は俺を許してくれたけど、俺がお前をこんな風にした男だと知った上で、それでもまだ俺をまだ好きだと言ってくれるなら、俺は何度でも会いに来るよ。・・・ま、元は嫌われるのが嫌で、否定されるのが嫌で会うことを躊躇っていたわけだから、覚悟はできてるよ」


「・・・好きかどうかなんて分からない。でも」


「?」


「『好きだったかもしれない』って、思えた」


「・・・・・」


「あなたはまだ、私のことを好きなんだね。こんな風になっても」


 間髪いれずに、彼は私の目を見て言う。


「愛してるよ」


 言い切って、席から立ち上がった。


「それじゃ、また来るよ」


「待って」


 扉に手をかけた彼を呼び止める。


「結局、まだ聞いてない」


「何を?」


「私に何があったのか」


「・・・・・」


 私は、再びそれを聞く。心の中にある不安を拭い去るため。どうしてもこの我侭を貫き通したかった。だってそれが、私の知っている通りじゃないと確かめたかったから。


「今なら教えてくれますよね。何があって、どうなったか。本当に、単なる事故だったのか」


 私も立ち上がって、彼の方を見つめる。扉にかけられた手がゆっくりと離れた。やがて少しして、彼はこちらを向・・・


「・・・!?」


 慄いた。


 平たく言えば、恐怖した。


 何故か彼は。


 嬉しそうに、笑っていた。


「いいや、話さない。教えない」


 そして、今になっても彼は、そんなことをのたまった。


「は・・・何言って・・・。何ふざけてるんですか。もういいでしょう、真実を知っても私はあなたを嫌ったりしないって分かったでしょう。なのにどうして・・・話してくれてもいいじゃないですか。それともやっぱり、私は全てを忘れたまま生きていればいいって言うんですか」


「教える必要がない」


「それは、どういう意味・・・」


「どういう意味、だって?」


 さらに彼はさも面白そうに笑う。ただそれだけのはずなのに、たまらなく怖かった。さっきまでの彼とはまるで違うような、そんな錯覚を受けた。


 そんな私を見て、やっぱり彼は笑う。


「お前のその恐怖は、当然のものだよ。だから、怖がらずに怖がっていい」


 心を見透かしたように。彼はまるで、私の抱く恐怖心の全てを理解しているかのようだった。


「何を言っているのか、さっぱり分からないわ。知る必要がないってどういうこと?」


「知る必要がないんじゃない。教える必要がないんだよ。だってお前はもう、


「・・・・・・・え?」


「否定するなよ、それが真実だ。空想でも想像でも、妄想でもない」


「何の、話」


「だから、随分と否定しているみたいだけど、否定しなくていいって言ってるんだよ。気が付いているんなら、それでいい」


 それだけを言い残して、彼は、扉の向こうへと消えていった。


「ま、待って」


 慌ててその後を追いかける。しかし、足元が落ち着かない。ふらふらとして、まるでまともに歩けない。踏み出そうとするも、テーブルやらソファやらにぶつかって転びそうになる。やっとの思いで扉に手ををかけるが、既に遅かった。


「・・・・・」


「終わりましたか?お疲れ様でした。では病室の方へ戻りましょう」


 廊下には、清水さんが一人。彼の姿は、どこにもなかった。


「あの、彼は・・・」


「もうお帰りになられたようですが」


 ・・・・・。


 さっきのあれは、何だって言うんだ。・・・いや、実際には、分かってる。彼の言っていることも、その言葉の意味も。


 しかし、だからこそ何もかもが分からなかった。いっそ彼の言葉を理解できずにいたのなら、こんな苦しみを味わうこともなかったというのに。


「かっこいい方でしたねー。あんなかっこいい方がお見舞いに来てくれるなんて羨ましいです」


「ああいや、その・・・・・。・・・どうも」


「私もうここで働いて十年になるんですけど、あんなかっこいい人が来たのは初めてです」


「そうですか」


 とてつもなくどうでもよかった。そんなことよりも、私の頭の中は混乱でいっぱいだった。このままでは、気が狂ってしまう。


 再び清水さんの後を歩いて、来た道を引き返す。真っ白な病院の廊下が、嫌に眩しい。


 優しそうだった彼が、何故突然人が変わったかのように豹変したのか。いや、優しそうではない、実際に彼は優しかった。恋人だからという理由を排除しても、それは変わらない。寧ろ、たとえ恋人だろうと毎日のように病院にお見舞いに来てくれるものだろうか。時間も労力も尋常ではないくらいかかるはずだ。そんな彼が、一体・・・。


 ・・・。


 ・・・・・。


 ・・・・・・・。


 あれ?


 何か、おかしい。


 いや、おかしいというなら何もかもがおかしいのだが、そうじゃなくて。


 決定的な、違和感。


「清水さん」


「はい?」


「清水さんってずっと私の看病をしてくださっていたんですよね?」


「ええ、そうですよ」


「それって、私が目覚める前からですよね?」


「はい、お世話させていただいておりました」


「・・・・・」


 矛盾。


 話が、かみ合っていない。


 おかしい。


 何か。


 何かおかしい。


 友人。


 恋人。


 医者。


 看護師。


 知り合い。


 他人。


 私。


 ・・・・・・。


 おかしいのは、何だ?

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