3

 ある晴れた日に。私は本を読もうと病院の屋上へと赴いた。とは言っても本など病室のベッドの上でも読めるので、別に屋上に来る必要はない。が、しかし、私は天気のいい日は必ずと言っていいほど屋外へと赴いて本を広げていた。それは屋上だったり、或いは病院の中庭だったりと色々だが、それに意味があるかと言えば無論、ある。


 私はどうやら本を読むにあたって環境というものを大事にしているようで、今の私もそれに準じている。どうも私は周りの環境次第で本の内容が面白くなると思っている節がある。まあ自分が思うのならそうなのだろうと、今の私も勝手にそう思っているのだが、もちろん本の内容自体に変化はない。寧ろ変わってもらっては困るというものだ。


 そういう意味では、意味がないと言えばそうなのだろう。しかし、少なくとも日の光を浴びながら読書をするというのはなかなか風情があっていいものだろう。実に健康的だ。私のこの思想に同意してくれる声も、多分あるだろう。それが反対意見より多いかどうかは知ったこっちゃないし、言ってしまえばどうでもいい。


 自分でこれが正しいと思うのなら、それでいい。


 ベンチに腰掛けると、気持ちのいい風が本の表紙を撫でた。自分は今実に文化的な生活をしているな、なんて適当に思った。


 本を開いて読み始めると、一瞬にして辺りの喧噪が鳴り止んだ。私の他にも屋上に来ている人は沢山いたが、すぐにその話し声も聞こえなくなっていった。世界が滅ぶ瞬間も、こんな風に死んでいけたらいいな、なんて妄想も一瞬、気が付けば私は文字の羅列に身を投げた。




 しばらくし読み進めていると、やはりというかなんというか、私の呼吸は儚いものへと変わっていった。なんて、そう言うと自分のことを分かっているかのような言い草だが、残念ながら何一つ分かっちゃいない。この世で何が一番分からないって、それはきっと自分のことだろう。


 それは別に、私が記憶を失っているからではなく。


 皆が皆、そうだろう。


 呼吸が止まろうが世界が滅んでいようがお構いなしに、私は物語を読み進める。今私の心にあるのは、物語の言葉だけだろう。


「お姉ちゃん」


 物語の中の少年が、少女に呼びかける。健気にも無邪気で、穢れを知らない子供の姿が、そこにはあった。


「お姉ちゃん、お姉ちゃん」


 繰り返す。名前も知らない、顔も知らない女性に気付いてもらうには、少年はそう呼ぶしか知らなかった。そんな呼び方では、少女は自分が呼ばれていることに気付かない。きっと少女には弟も妹もいないのだろう。お姉ちゃんなどと、そんな風に呼ばれることに慣れていない少女の前では、少年の声は素通りするばかりだ。いや、たとえ名前を呼ばれても、少女は自分が呼ばれていることに気付きはしなかっただろう。何せ彼女は、その名を知らないのだから。


 いっそ服でも引っ張ってくれたなら、気付くこともできたかもしれないが・・・。


「お姉ちゃん!」


 ぐいっ、と服を引っ張られた。反応するしない依然に、力ない私の体はその勢いに負けて倒れそうになる。慌ててベンチに手をついてバランスをとるも、今度はその反動で膝に置いていた本が落ちそうになる。これまた慌てて本を掴む。何とか汚さずに済んだ。


「あ、ごめんなさい」


 そんな窮地を招いてくれた彼が、淡白に謝る。正直怒ってやりたいところだったが、見れば、そこにいたのは年端もいかない少年だった。彼と呼ぶにはあまりに頼りない、健気で無邪気な顔。穢れを知らない、あどけない表情の前では、怒る気もなくなってしまった。


 ・・・多分、初対面のはず。いや、私の記憶などアテにならないか。だが少なくとも、目覚めてから今日までの間で出会ったわけではない。それくらいは分かる。しかし名前を呼ばずに「お姉ちゃん」と呼んだことを考えると、おそらく初対面だろう。私に兄弟はいないと聞いているし。


「・・・どうしたの、君。私に何か用?」


 そういうと彼はこくりと頷いた。まあ服を引っ張るほどに呼んでいるのだから私に用があるのは間違いないが。誰でもいいのなら最初の一回で私を呼ぶのをやめているだろう。わざとではないにせよ、無視していたのだから。


「お姉ちゃんも、記憶がないんでしょ?」


「・・・・・も?」


 彼は「よっ」と言いながら私の隣に腰掛ける。足をふらふらさせる仕草が実に可愛らしい。


「僕もね、記憶がないんだ」


「・・・そっか。大変、だね。」


 も、と言った以上予想できたことだが、どうやら彼も記憶がないらしい。小学・・・3年生くらいだろうか。その歳で記憶がないというのは、きっととても恐ろしくて、とても不安だろう。もう少し気の利いたことでも言えないものか、私は。


「どうして私も記憶がないって知ってるの?」


「お医者さんにね、聞いたんだ。『君と同じで記憶を失ってる人がこの病院にいる』って。どんな人?って聞いたら『いつも屋上とかで本を読んでるよ』って言ってたから、話してみたいなあって」


「そうなんだ。でも、話してみたいって?」


「うん、みんな、記憶を失くして、どんな風に思ってるのかな・・・って」


「・・・」


 つまり、同じ痛みを持つ人と心を通わせたいと思ったのか。確かに、不安を和らげるには同じ境遇の仲間を見つけるのが一番手っ取り早い。人は皆と同じにはなりたくないと思いつつも、心のどこかで繋がりを求める生き物だ。自分と同じ立場で、目線で、話ができる人を欲しているのだ。


 それは、きっと私も同じ。


「迷惑、だった?」


 しゅん、と落ち込んだ様子で横目に私を見る。第一印象が悪かったことを悔いているのだろうか。躾のなってない子供かと思ったが、案外そうでもないらしい。いや、記憶のない少年に向かって「躾のなってない」はあまりに酷い言い草か。


「ううん、全然。寧ろ私も同じ病の人と話してみたいと思ってたから、会いに来てくれて嬉しいよ」


「ホント!?」


 記憶喪失を病と言うのかは兎も角、嬉しそうに笑う彼の笑顔が素敵だった。二十を過ぎた私にはもうあんな笑顔はできないんだろうな、なんて適当に思った。


 しかしそのせいか、あまりに綺麗な笑顔はどこかつくりもののように思えた。できすぎたものを見るとつくりものの様に見えてしまうのは人として正しいのだろうが、その笑顔を単純に感じ取れない自分は、きっと冷たい人間なんだろう。


「お姉ちゃんは記憶を失ってどう?辛い?不安?」


 私は二度頷いて、


「辛いし、不安だよ。何だか自分という存在がここにいないように感じる。毎日日が昇って沈んでいくのに、一歩も前に進んでいないように感じる。自分の言葉が、自分のものではないように感じる。昨日と今日と明日が、分からなくなる」


「・・・・・」


 彼は私の方を見て少しキョトン、とした顔をする。子供に向かって随分難しいことを言ってしまっただろうかと、ちょっと反省する。同時に子供に向かって何を言っているのかと恥かしくもなった。


「僕もね、すっごく不安なんだ。さっきね、友達がお見舞いに来てくれたんだけど、誰が誰だか全然分かんないの。『早く学校戻って、また前みたいに遊ぼうぜ』って言うんだけど、僕って前はどんな風に遊んでたのかなあ。誰かも分からない友達と、どんな風に遊べばいいのかなあ」


 その言葉を聞いて。私は、自分なんかよりもこの子の方がよっぽど辛い思いをしているのだと気付いた。それは、健気で無邪気な子供だからこその、大切な不安だった。


 スケール的に言えば、それは些細なことだ。私にとってみれば、友達と遊ぶことなんかよりもずっと心配しなくちゃいけないことが、沢山ある。「大学は卒業できるのだろうか」とか、「どうやって就職すればいいんだろう」とか。


 だけど、子供にとっては彼が言っていたことが全てだ。多分そこには、言い表せないほどの人生が詰まっている。もし少年がこのままその不安を抱え、「友達だった友達」と上手く付き合えずに繋がりを失っていくのだとしたら、酷くいたたまれない。また一から友達をつくればいいと言うだろうか。そう思うなら是非この少年にそう言ってくれ。残念ながら、私にはとても、そんなことは言えそうにない。


「・・・君は別に、記憶を失っているわけじゃないよ」


「え?」


「ちょっと、忘れてるだけ。ちょっとだけ、ね。宿題やってくるのを、忘れてるようなものだよ。通学路を歩いてると突然思うんだ、『何か忘れてるような気がする』って。そんな不安を抱えながらトボトボ歩く。不安で不安で、でもその不安が何なのかは分からない。そして考えているうちにふっ、と思い出すんだ『宿題やってなかった!』ってね。望むと望むまいと、思い出してしまうのさ、道の途中でね」


「・・・・・」


「だから、学校に着くころには全部全部思い出してる。『ああ、こんなことなら思い出さなければよかった』なんて思ったりしちゃって。そして、今日も怒られて、一日が始まる。そんなものだよ」


「忘れてる、だけ」


「そう、君も、私もね。学校に行かなくちゃいけない、普段の生活に戻らなくちゃいけない。そういうゴールがあっても、そのゴールに辿り着くまでの道のりでひょっこり思い出しちゃうの。『なあんだ、こんなあっさり思い出しちゃうのか。もっと感動的に思い出したかったなあ』とか、そんな贅沢言いながら。今までの不安が何だったのか分からなくなるくらい、あっさりね」


「じゃあ、明日思い出すかもしれない?」


「もちろん」


「今日思い出すかもしれない?」


「可能性はあるかもね」


「今話している最中にも、思い出すかもしれない?」


「きっかけはいつだって、些細なことだよ」


「・・・・・・・」


 似合わないことを言っただろうか。それとも、こういうことを言うのが私なんだろうか。


 分からない。


 知らない。


 覚えてない。


 覚えてないけど。


 思い出せると、いいな。


「ねえ、お姉ちゃんも宿題忘れたことあるの?」


 とんだ的外れの質問に、私は思わず笑ってしまう。笑いながら、答える。


「さあ、どうだったかな。あったような気もするし、なかったような気もするよ。でもきっと毎日のように忘れてくるずぼらな小学生だったと思うよ。覚えてないけどね」


「僕は・・・僕は、どうだったのかな」


「それを思い出したとき、きっと全部思い出してるよ。自分がちゃんと宿題をやるいい子なら、その答えと一緒に。宿題をちゃんとやらない悪い子なら、怒られた記憶と一緒に、ね」


 そう言うと少年はにかっと笑う。「怒られた思い出は思い出したくないなあ」なんて贅沢を言いながら。


「ありがとうお姉ちゃん!何だか僕、元気出てきちゃった」


「それならよかった。早く退院できるといいね」


「うん、お姉ちゃんもね」


「ありがとう」


「そういえば、お姉ちゃんの名前ってなんていうの?」


「私は詩織っていうらしいよ。立花詩織」


「じゃあしおりお姉ちゃんって呼んでいい?僕はね、勇気っていうんだ」


「構わないよ。よろしくね、勇気君」


「しおりお姉ちゃん、またお話しに来てもいい?」


「もちろん。楽しみに待ってるよ」


「やった!」


 ぴょん、とベンチから立ち上がる。元気のいい子だ。


「しおりお姉ちゃんはいっつもここで本を読んでるんだよね?」


「天気のいい日は、大体ね。中庭にいるときもあるけど」


「いつも同じ本読んでるの?」


「うん、いつも一緒」


「どうして?そんなに面白いの?」


「面白い、というのとはちょっと別かな。この本を読むことが、私が生きていくために必要なの。難しく言うと生理現象に近いかな。だから、何度でもこの本を読むの」


「ふーん、よく分かんないけど大切なものなんだね」


「要は、そういうことだね。そう、大切なものなの」


「ねえねえ、どんなお話なの?」


 そう聞かれて、私は少しの間を空けて答えた。


「記憶を失った」


 息を吸い込んで、もう一度。


「記憶を失った女の子のお話だよ」

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