39 前後

 コマ送りが発生する。

 高価な絨毯じゅうたんから、ベッドへと。


 位置が変わる。

 地面から、空中へと。


 目先に見据えるのは、仰向けで痙攣けいれんしている僕の彼女――絶頂中の麻衣。

 狙うは、その首筋。

 僕は自由落下しながら、照準が許容範囲であることを認識した。


 位置エネルギーをまとった僕の体重。

 足裏で構えているのは、ナイフという名のパワーブースター。

 これを――麻衣の首筋に叩き込む。


 僕の着地と同時に、ナイフが深く沈み込んだ感触を捉える。

 直後、僕はテレアームと両手を全力で真上に伸ばし、左手を握った。




「――おわっ!?」


 景色の変動に思わず声が漏れた。

 眼下には宮殿風の建物だが、僕の体勢はというと、直立ではなくうつ伏せ。調整が甘かったようだ。


 激しめの雨音と、落下に伴う風切り音に急かされながらも、僕は冷静にテレアームを地面とは反対方向にかざし、再びテレポートした。

 それを何度も繰り返して、とにかく上へと向かう。


 裸体を打つ雨が生ぬるい。

 もし傍から見たらどう見えるのだろう。落ちてはコマ送りで上昇する変態、といったところか。

 周囲にはあのラブホテルより高いビルがいくつかあったわけで、天気が良ければ目撃者は何人もいたかもしれない。梅雨に入ってくれて本当に助かった。

 ……まあ、今も誰にも見られてないと断定することはできないわけだが、そこはいなかったと祈るしかない。


 僕はとにかく上へ、上へを目指し続けた。

 目的はたった一つ――麻衣に追われないためだ。


 もし麻衣がすぐに死ななくて、かつ僕への報復を仕掛けてきた場合、僕ではたぶん防げない。

 誰かに見られるリスクよりも、麻衣にやられるリスクの方が恐ろしかった。だからこうして全力で逃げることにしたのだ。


「……だいぶ飛んだな」


 いつの間にか、ホテルが視認できるかどうか怪しい程の高さになっていた。

 麻衣が追ってくる様子はない。


「死んだか、それとも……」


 手応えはあった。

 全体重と位置エネルギーのダブルコンボを麻衣の首にねじ込んだ。頸動脈にも。

 大量出血により数十秒も経たないうちに絶命するはずだ。あるいは運が良ければ神経切断で即死かもしれない。




 ――絶頂中の麻衣を殺す。


 それが僕の作戦だった。

 言い換えるなら、麻衣の絶頂は演技ではなく、またその最中は僕を見る余裕さえもないはずだ、という僕の推測に賭けたとも言える。

 しかし僕には、そうだという確信があった。

 繋がったまま、間近で昇天する麻衣を見てきたから。


 もちろん、ホテルで刺殺したとなれば後始末は困難を極める。

 だから僕は今まで選ばなかった。考えようともしなかった。

 その前提からして間違っていたのだ。


 麻衣を殺しさえすればいい。

 僕の命を脅かす唯一の存在を排除できただけでも上出来である。

 あとは知ったことじゃない。たとえ捕まってしまおうが、死ぬよりは断然マシなのだから――




「……戻るか」


 テレポートの頻度を落とし、落下に身を任せる配分を重くする。

 少しずつ地面に、ホテルの屋上へと近づいていき――数十センチの高さから無傷で着地できた。

 少し休みたいところだが、裸の男が屋上にいるという構図はよろしくない。通報されでもしたら面倒だ。

 急いでテレアームで、901の室内あたりの空間を探る。

 ベッドらしき感触にヒットしたのを目印に、何も置かれてないエリアを探って、そこを着地点に定める。

 一応周囲を見渡して、屋上からも、ここより高いビルからも、誰も見てなさそうだということを確かめてから、左手を握った。


 どんっと地面にかかとから着地。

 高さ的には一メートルくらいか。普通に痛かったが、そんなことには構わず、ベッドの方を見ると――


「く、くくっ……」


 ぴくぴくと口角が上がりそうになる。

 いや、もはや堪える必要もないか。


「くふっ、ふふ、……やった。僕は、勝ったんだ――」


 その凄惨だが愉悦な光景は、血しぶきが噴出し、麻衣がのたうち回ったことを物語っている。

 しかし麻衣はベッドからは落ちておらず、血溜まりもちょうどベッド内に収まっていて、なんていうか芸術作品を見ているような気分にな――うえっ、血生臭さが凄い。一瞬で現実に戻された。


 念のため、血溜まりに浮かぶ死体にテレアームを伸ばし、停止しているはずの心臓に触れてみる。

 ――ぴくりとも動かない。


「……さてと」


 波紋のように広がっていた歓喜が、もう消え失せた。

 これが妥協の産物である。

 現実はそんなに甘くない。この現場を何とかしなければ。


「とはいうものの……無理だよなこれ」


 どう考えても室内のタオルで拭き取れるレベルじゃないし、仮に拭き取れたとしても血まみれのタオルをスタッフがスルーするはずがないわけで。

 もはや僕の有罪、あるいは最低でも容疑は免れないだろう。

 なら、いかにしてそれを軽くするかを考えるべき「へっくし」……先にシャワー浴びるか。

 初夏になろうかという時期とはいえ、裸で雨を浴び続けたのが堪えたのかもしれない。

 僕は血を踏まないようにシャワールームへと向かった。






 熱めの湯を頭から浴びせながら、考える。


 大まかなアプローチは三つあるだろう。




 一つ、減刑を意図して潔く自首してしまうこと。


 一つ、放置したまま逃げること。


 一つ、放置しないで逃げること。




 ……とりあえず放置は論外か。罪が重くなりそうだ。

 じゃあ自首すればいいかというと、どうにも抵抗がある。もっと上手くできないものか。欲を言えば逮捕の回避。証拠不十分というやつか。

 そうなると、残る選択肢は一つ。


 幸いにも僕にはテレポートがある。

 テレポートを使えば、いかなる物体であろうと、他の物体に置き換えて消滅させることができる。


 たとえば死体。

 たとえば血溜まり。

 たとえば血痕のついた壁――


 しかしテレポートを多用しすぎて辺りを破壊しまくれば、それはそれで不可思議な現象として多数の人間に観測されてしまう。僕が超能力者であることは、たとえわずかな可能性であっても悟られたくない。


 やらなすぎてもアウト。

 やりすぎてもアウト。

 逮捕されない程度に、かつ超常的な存在を臭わせない程度に隠滅する……か。難しいな。


 とりあえず死体は消そう。

 横川先生を消した時に使ったシーツのように、かさがあって片手で持てる物体を使えばいい。この部屋には必要十分量の物体がある。

 凶器のナイフも消しておこうか。あとは、死体を消す時にどうせベッドも削れるだろうから、血溜まりも消す。

 不自然に削れたベッド――これを見てホテルスタッフは、鑑識は、刑事は何を思うだろうか。

 人知を超越した現象だ。いくら調べたところでテレポートの存在が露見することはまずないだろうが……とりあえず僕の痕跡は見つかるよな。ホテル側は僕の顔を把握しているだろうし、防犯カメラにも移っているはず。僕が関与しているという状況証拠を完全に消すのは難しい。

 一瞬、フロントや事務室にお邪魔して、関係者を全員殺して、装置類も全部破壊することも考えたが、さすがに大胆すぎる。


「――うし。やるか」


 シャワーを止めて浴室を出る。

 体をよく拭いてから、僕は裸のまま作業を開始した。




      ◆  ◆  ◆




「僕は普通に帰りました」

「いつ帰ったかぐらい覚えてないかな?」

「いえ、覚えてないです。その……遊び疲れていたので」


 抹殺ゲームをクリアしてから一週間。

 連日続く雨音と湿気に、朝っぱらから嫌気が指しつつも、僕はリビングで尋問を受けていた。


 テーブルの一端に腰掛ける僕の対岸には、この間見知ったばかりの男性が二人。刑事である。

 ラブホテルで起きた麻衣の失踪事件を調べているらしい。で、麻衣と一緒によろしくやっていたはずの僕に、こうして白羽の矢が立っている。


「……でもね、監視カメラには移ってないんだよねえ。従業員も、誰も君が帰るのを見ていないと言ってるんだよ」


 そりゃテレポートで上空から逃げましたから……と告げるわけにもいかず。

 僕は当初からの作戦通り、すっとぼけることに決めている。

 どうせ現場を調べたところで、僕がそこにいたことまでしかわからないのだ。麻衣をどうしたか、麻衣はどうなったのか――答えを知ることはできない。


「僕に言われても……」


 母が淹れてくれたコーヒーをすする。

 目前の刑事たちにも用意されていたが、全く手が付けられていない。もったいないな。


「妙に落ち着いているね?」

「困惑しているだけです。……いえ、現実を見たくないのかもしれません」

「と言うと?」

「――怖いんです。僕が狙われるかもしれないと思うと」


 カップを置く。

 表面が微かに波打ち、ゆらゆら揺れているのを、僕は黙って眺めていた。


「……麻衣は、無事なんですか?」

「捜索中だよ」

「僕は、大丈夫……ですよね?」


 相手は捜査のプロだ。小手先の演技など通じはしない。かといって開き直る度胸もない。

 僕はなるべく目を合わさないように、麻衣の恋人として自然な演技を心がける。


「あの、もういいですよね」


 割り込んできたのは父だった。

 少し離れた位置にあるソファーから立ち上がっている。隣には母と彩音がいて、彩音と目が合った。……無表情。何を考えているのだろうか。


「……ええ。朝早くから申し訳ありませんでした。瞬君も、すまなかったね」

「いえ……」

「あまり深く考えないでください。形式上のものですから」


 二人の刑事がお辞儀をしてみせる。

 さっきから口を開いていた方、ベテランと思しきおじさんは、本当に申し訳なさそうな表情をつくっていた。一方で、隣の若い方は不審を隠すことなく鋭い視線を向けてくるばかり。もう少し部下を教育した方がいい。


 母が刑事らを見送りに出た。

 静まり返ったリビングには三人。


「瞬。――何もしてないんだよな?」

「何もって何だよ」

「……ならいい。しっかし、お前がそんなことをしていたとはなあ」


 父がどさっとソファーに腰掛ける。


「ホントにね」


 彩音がゴキブリを見るかのような目で同調してきた。


「部活で小説書いてたんじゃなかったのか」

「毎日毎日淫らに過ごしていました、と」


 二人して僕を責めてくる。

 刑事が来て、話をしたということは、当然僕が麻衣とラブホテルにいたという経緯も伝わっているわけで。父と幼なじみに知られるとは公開処刑以外の何者でもない。


「仕方ないだろ。僕も健全な高校生だ。男子の性欲舐めんなよ」


 それでも事件を勘ぐられるよりは百倍マシだ。

 幸いにも二人ともその線は疑っていない。僕はおとなしくいじられておけばそれでいい。


「調子に乗るな! 限度ってもんがあるだろうが……」


 珍しく父が声を荒げる。頭をガシガシとかいて、落ち着かない様子だ。


「……わかってる。軽率だったよ」


 部活と嘘ついて毎日セックスしてたんだから、そりゃ親が怒るのも当然なわけで。

 しかも得体の知れない事件に巻き込まれて、こうして刑事も来ていて、形式とは言っていたが実質容疑者扱いみたいなものだからな。息子がそうとなっては、親としては溜まったものじゃないんだろう。

 我ながらいい親に恵まれたな、うん。


「いいか。今後しばらくは寄り道せずに真っ直ぐ帰ってくるんだぞ」

「そのつもりだ」

「彩音ちゃん。こいつが変なことしないか見ててくんない?」

「私は瞬の子守じゃないんだけど」


 と言いつつ、その目は僕を捉えて離さない。


「それじゃ父さんは仕事行ってくる。彩音ちゃんに変なことするなよ」

「しねえよ。殺される」


 父は僕が言い終える前にリビングを出て行った。

 ちょうど母と鉢合わせたようで、何やら話している。帰りが遅くなるらしいことがかろうじて聞こえた。今日も休日なのに。社畜は辛い。

 僕が冷めたコーヒーを消化していると、隣に彩音が座ってきた。


「瞬は童顔巨乳が好みだものね」

「うるさい」


 余ったカップを指差してみたが、彩音は首を横に振る。

 もったいないが、さすがに三杯も飲むとお腹が心配だ。

 僕は二杯目を平らげた。「ふぅ」カップを置いて一息付くと、ふと視線を感じたので隣を見る。

 彩音が何か言いたそうに僕を睨んでいた。


「なんだよ」


 ちょうど僕が尋ねた時、母が戻ってきた。

 僕らの対面に座ってきて、最後の一杯に口を付ける。


「……ラノベでも読むか」


 逃げようとしたが「待ちなさい」時既に遅し。


 それからは三十分以上、母から根掘り葉掘り聞かれたのだった。

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