33 バトルもの 後編

 温かい朝日が差し込む日曜日。

 人気ひとけも喧噪も皆無な空き地にて、麻衣と姫香が対峙していた。


 先に動いたのは麻衣だ。

 にやりとほくそ笑み、その場にしゃがんで、腕を伸ばしたかと思うと、突如その姿が消失した。


 移動先は姫香の後方、頭上よりも少し高い位置。

 麻衣は重力に従い自由落下しながらも、伸ばした手で、姫香の綺麗な首筋を狙う。

 元々ギリギリの高低差を狙ったこともあり、手は即座に届いた。そのまま首を絞めようとするが、


「おろっ?」


 手元から一切の感触が消え、地面に着地する。

 その耳は、前方五メートルの辺りからも着地音が聞こえてきたことをキャッチしていた。


「……残念。首、いけると思ったのに」

「初手はとりあえず回避する、と決めておりましたの」

「いいねぇ。すぐ終わったらつまらないもんね」


 麻衣は破顔してみせながらも、内心では舌を巻いていた。




 ――0.1秒。




 それは自由落下する物体が五十センチ分を落ちるのに要する時間であり――同時に、人間の反射神経では及ぶことのできない刹那でもある。

 この限界はスポーツ界でも採用されているほどで、たとえば陸上短距離では、ピストルの発砲から0.1秒以内にスタートした場合はフライングとみなされてしまう。


 麻衣が狙った先制攻撃は、初見殺しとも言うべき必殺の奇襲だった。

 テレポーターが持つガード範囲レンジ――テレポートを受け付けない空間的範囲の上限は五十センチであるが、麻衣はこのギリギリを狙い、姫香の頭上、おおよそ五十センチの位置にテレポートしたのである。

 そうなると、麻衣が自由落下して姫香に触れるまでおおよそ0.1秒。

 姫香は、というより人間である以上、これを防ぐことはできない。

 実際、麻衣は首筋に触れることができたし、テレポート前に体勢も整えていたから、直後、即座に首を締め上げ、全体重を掛けることで瞬殺できたはずだった。

 仮に姫香が愚直に反応しようものなら、到底ガードに間に合わず、今頃絞殺されていたに違いない。


「これはどうかな?」


 麻衣はボクシングの構えをつくってから、すぐに左手を握った。

 テレポート発動。

 行き先は、姫香の正面。

 またもやガード範囲のきわを攻めており、一歩踏み込めば致死攻撃を叩き込める間合いだった。


 姫香はまだテレポートしていない。

 麻衣は間髪入れずに右ストレートをぶち込む。

 しかし拳が届く前に、姫香が何やら反応したのがわかり、とっさに左手を握り込んでいた。


 三メートルほど後退する。念のため、さらにもう一度握り、距離差を十メートルほどに広げた。


「逃げ腰ですわね。最初の威勢はどうしましたの?」

「ふーむ。五十センチかぁ……」


 テレポーター同士の格闘戦では、テレポートで一気に距離を詰めるのが基本となる。

 ただしテレポーターには五十センチのガード範囲があるため、どう足掻いても五十センチまでしか近寄れず、残りは自力で埋める必要がある。


 五十センチと言えば拳やつま先、膝も届く距離ではあるものの、単に届かせることと、相手を殺傷できる威力で届かせるのとでは訳が違う。

 後者の威力を発揮するためには相応の構えとモーションが必要であり、これらを考慮すると、実際は五十センチ以上の開きになってしまうのだ。六十、七十、あるいはそれ以上に。


 そこまで開いてしまうと、優れた反射神経を持つ者に対しては、テレポートによる接近がアドバンテージにならない。

 普通に反応し、対応できるからだ。


 目前のお嬢様には、それほどの力がある。


「昔はわたしが強かったのに、今じゃ勝てないかも」


 麻衣は姫香を注視しつつ、昔話を展開する。作戦の一つだった。


「一緒になってパパにしごかれてたよね。懐かしいなあ」

「……」




 ――なぜ人間は熊に勝てないんだと思う?


 麻衣は父の言葉を思い出していた。




 ――圧倒的身体能力の前には、小手先の技術なんて無力さ。


 麻衣はかつての記憶を蘇らせていた。




 ――麻衣。姫香ちゃん。いいかい、技術におごっちゃダメだよ。身体という根本そのものを鍛えることが一番大事だってことを忘れないようにね。


 ――王介おうすけさん、うちの娘に何教えてんすか……。


 ――おや、晴臣はるおみくん。姫香ちゃんは素晴らしいよ。僕と同じ才能があったら、僕を超える逸材になっていたかもしれない。




 姫香は王介を慕い、麻衣よりも熱心に鍛錬に取り組んでいた。

 逸材の余地有りと評された姫香が、だ。

 しかもそれは王介無き今も続けている。


「もう一度訊くけど、ひめっちってパパのこと、絶対好きだったよね?」


 一方で麻衣は、そうではなかった。

 根本を鍛えることが一番時間がかかるということを知っていたから。そこに近道はなく、要領の良さも無関係で、アスリートのように、ただただ気が遠くなるような修練を積むしかないとわかっていたから。

 麻衣はそれを面倒だと捉えた。兵士になるわけでもないし、多少人並以上に優れていれば、あとは技術だけで事足りると結論付けたのだ。


 その差は大きい。まともにやり合って勝てる相手ではない。だからこそ先制で決着を付けるつもりでいたし、


「人のパパを好きになるなんて、ほんっとに気持ちわるいなぁ」

「……」


 今も攻撃ならぬ口撃作戦を遂行している。


 姫香は本気なのに。

 怖いくらいに集中していて、戯れ言に惑わされることなど万に一つもないというのに。


「ッ!?」


 姫香が動いた。

 その姿が消え――麻衣の側方、右側に現れる。


 が、麻衣は最初から判断することを止めており、姫香が消えた時点でテレポートを発動していた。後方に五メートルほど下がる。

 姫香の強烈な蹴りが、麻衣のいた空間を切り裂く。

 風を切る音が麻衣にも届いた。


「野球選手のフルスイングかっての……」


 単なる技術では繰り出せない、速さと重さの乗った一撃であることを麻衣は瞬時に見抜いた。

 食らえば無事では済まないし、カウンターはおろか防御する隙さえもない。向き合った時点で敗北する。

 だからこそ麻衣はテレポートを使う。


 姫香が消える。

 消えたという状態変化は、瞬きさえしなければすぐに分かるし、左手を握るというアクションだけならすぐにも移行できる。さすがに0.1秒は超えられないが、傍らに出現した姫香の攻撃が届くよりも早く完了できる。


 麻衣は現在地よりも左方、七メートルほど離れた位置にテレポートで移動していた。

 姫香は今度は左側面から仕掛けたようで、利き足は違うのに、寸分違わない蹴りが空を切っている。


「両方ともまんべんなく鍛えてます、という威嚇かな?」


 姫香にその意図は無かったが、武器として両利きであるという事実は、片側すらその域には到底至れていない麻衣にとっては大いに牽制となっていた。


 姫香は止まらない。麻衣の左右にテレポートしては蹴りをお見舞いしようとする。

 麻衣は、そんな姫香の姿を捉え続けて、不意に消えた時をトリガーに自己テレポートをして回避する。


 一撃、二撃、三撃四撃――単調だが、油断できない蹴りが繰り返される。

 その間、麻衣は回避しながらも、姫香のテレポート精度を観察していた。


 ――テレポート後の体勢に乱れはない。


 テレポートを行った時、発動者の体の向きは、右手がテレハンド――テレアームの先端に重なるように調整される。極端な話、右手を下向きに構えていて、かつテレハンドを上向きに構えた状態でテレポートした場合、発動者は上下逆さまになって移動先に転送されてしまう。当然、頭から地面に落下することになるわけで、格闘戦すらままならない。


 しかし姫香は常に、地面に直立するような体勢でテレポートを行えている。右手とテレハンド、二つのパラメーターを要する調整などお手の物だということだ。

 麻衣も少なからず練習してきた自負があったが、姫香も相当練習を積んだに違いない。

 テレポートスキルでリードすることはできそうにない、と早々に結論付けた。


 麻衣は姫香の猛攻を交わしながら隙をうかがう。

 いや、見た目上は隙だらけであった。

 明らかに威力を最優先した、大ぶりの蹴り。回避され、カウンターを仕掛けられることなど考えてもいないように見えるし、実際考えていないのだろう。


 姫香が再び消えたのを察知して、麻衣はテレポートで後方へと回避した。

 ただし距離差は少し短めにして三メートルほど。

 目前に姫香が現れ、勢いの衰えない蹴りが放たれる。麻衣はその軸足の、膝の位置を素早く目視しつつ片足を上げ、すぐさまテレポート。

 姫香の前方、ほぼ五十センチの位置に移動し、上げていた足を彼女の膝めがけて振り下ろす。

 姫香の身体には蹴りの慣性が残っている。普通なら回避も防御もできず、膝関節の破壊は不可避なのだが――


「だよねえ」


 麻衣の踏み潰しが空を切る。

 姫香が自己テレポートで逃げたのだ。

 そもそもテレポートがあれば動作の隙など関係が無い。テレアームさえ構えておけば、左手を握るだけでそこに一瞬で飛べるのだから。


 逃げた姫香がどこに移動したのか、麻衣は探そうとして、


「しまっ」


 そばに姫香の気配を感じながらも、全力で左手を握った。


「……ふー、危ない危ない」


 あとゼロコンマ一秒でも遅ければ、あの蹴りを食らっていただろう。


 相手が視界から消えた場合、それはテレポートによる奇襲だと考え、自分も即座にテレポートで逃げねばならない。

 が、逃げるタイミングはそれだけではない。もう一つある。


 それは自分がテレポートで奇襲して、相手がテレポートで逃げた後――その姿を視認できなかった時だ。

 視認できなかったということは、相手は後方か上方に逃げたことを意味するが、具体的にどの位置にいるかまではわからない。

 だから麻衣はさっき、周囲を見渡して探そうとしたのだが、それこそが致命的なミスだった。


 ――探している間に奇襲を受けたら?


 麻衣の反射神経では到底追いつけない。

 だからこそ、相手が視界から消えた時は、すぐさま奇襲が仕掛けられると仮定して、とりあえずテレポートで距離を取るしかない。少なくとも相手を視界に収めるまでは、繰り返し。


 麻衣は三回ほどテレポートを発動して、ようやく姫香の後ろ姿を視界に捉えた。

 直後、姫香はテレポートを発動して数メートルほど前進。しかし向きは百八十度変えていて、麻衣と向き合う格好となる。


 二人の間は、二十メートル近く離れていた。

 もっともテレアームは三十メートルまで伸びるのだから、こんな差はあって、無いようなものだが。


 遠目に見る姫香は神色自若そのものだった。

 まるで機械のように無感情で、無愛想で、正確だ。息の乱れも見られない。

 一方で麻衣は、単純な身体能力では敵わない分、表には出さないものの焦りがあった。


 回避優先の戦い方は二人とも同じだが、一つだけ違う箇所がある。




 ――姫香には反射神経がある。




 麻衣にテレポートで接近された時、視界に入ったままであれば、姫香はテレポートを使わない。そのまま反応できるし、麻衣相手なら打ち勝てる自信があるから。

 一方で麻衣は、姫香に接近された時に、たとえそれを視認できていたとしても、既にテレポートで逃げている。姫香相手では分が悪いからだ。


 常に逃げるしかない麻衣と、視認できた時に限りカウンターを仕掛けられる姫香。

 相手に反撃できる手数が多いのは、圧倒的に姫香であった。


 動き出さない麻衣を見て、姫香が左手を握る。

 麻衣の目前にテレポート。しかし麻衣の姿は無く、視界にも映っていない。

 姫香は再度テレポートを発動し、数メートルほど横に逸れると、麻衣が真後ろから接近戦を仕掛けようとする光景が目に入った。

 すかさずテレポートで麻衣の側方に飛び込み、何度も空振りしてみせた蹴りを叩き込むが――感触は無し。

 遠目に麻衣が見えていたから、回避はせずに、ゆっくりと足を降ろす。


「寝技に持ち込む気ですわね……」


 思えば初手でも後方からの首絞めを狙ってきた。

 純粋な瞬発力の劣る麻衣としては技巧で攻めるしかないのだと姫香は考える。

 とはいえ相手を捉えたところで、テレポートで逃げられてしまえば意味がない。麻衣もその程度はわかっているはずだ。

 もしかすると、そうされないよう、先に左手の無力化を狙ってくるかもしれない。


「だとしたら、しめたものですけれど」


 手や指という小さな、しかし動かしやすい部位を狙うのは本質的に難しい。それこそ反射神経と瞬発力の領分であり、姫香には麻衣に狙われたところでやられはしないという自信があった。

 むしろ逆に掴み返すか、はじき返すかして反撃に転じることさえ可能だとも。


 麻衣の姿を注視しながら、姫香はあえて自分の足で歩き、近づいていく。

 テレポートは便利だが、思っている以上に疲労感が蓄積する。姫香はその正体を掴めないでいたが、ともあれ、可能な限り省エネを心がけようと改めて決意した。


 距離差、二十メートル。麻衣が動く様子は無い。


 距離差、十五。

 まだ動かない。作戦を練っているのかもしれない。が、その目線ははっきりと姫香を捉えている。


 距離差、十――


 麻衣が消えた。


 視界には現れない。姫香はテレポートで待避する。

 まだ視界に入っていない。再度テレポートをして、今度は麻衣の姿が見えた。が、それもすぐに消え――さらに離れた位置に出現した。

 そうかと思うと、またもや消えて、別の位置に現れる。


「……攪乱かくらんのつもりですの?」


 姫香は平然とした面持ちでつぶやき、麻衣を見据える。

 麻衣が視界に現れた時は、テレポートせず反撃の隙をうかがう。

 麻衣が視界から消えた時は、すかさずテレポートをして体勢を立て直す――

 その繰り返しを、一度も間違えることなく、己が反射神経を以て冷静に、正確に捌いていく。


 そんな姫香を前に、麻衣も全く動じていない。

 何度も、何度でもテレポートを繰り返し、姫香に迫っては離れることを繰り返す。

 この行動は姫香の予想どおり、攪乱であった。

 姫香は今、一瞬の隙が命取りになるような場面において、あえて自らの反射神経を試している。機械的にテレポートで逃げるのではなく、反撃するために、あえて逃げないでいる。


 集中していないはずがない。

 疲れないはずがない。

 いくら姫香が超人的ポテンシャルを持っていようと、所詮は人間だ。そして人間である以上、集中力には限界がある。




 ――持久戦だ。




 麻衣は長期的に負担を加え続けて、姫香の消耗を狙う作戦に出ていた。

 ただし単なる消耗戦ではお互いジリ貧にしかならず、そうなった時に勝てる保証はない。麻衣はもう一つ、揺さぶりを取り入れる。


 でたらめにテレポートを続ける麻衣が、不意に姫香を見据えてから消えた。

 その視線の動きを見ていた姫香は、奇襲が来ると直感する。視野に麻衣は現れない。背後か、上か。いずれにせよ避けるしかなくて、いつもどおりテレポートで距離を取った。

 しかし、移動先にて姫香は、さっき自分が居た場所ではなく、八メートルほど前方に麻衣が出現したのを認める。重そうなパンチが虚空を切り裂いた。

 それはまるで、その位置に姫香が現れることを予想しているのかのようで。


「先読み、ですわね……当たるはずがありませんわ」


 麻衣が拳を突き出した体勢を解き、姫香へと向く。


「鉄砲も数撃てば何とやら、だよ」

「自ら下手であることを自覚していらっしゃいますのね」

「なら受け止めてみたらどう?」

「言われずともそのつもりです」


 姫香は平然と答えつつも、受け止めるのは厳しそうだと感想を抱いた。

 姫香が反応できるのは、構えている自分に対して、麻衣が視界の内に入ってきた時だけである。後方のような死角に来た場合は追いつかないが、今や追いつかないのはそれだけではなかった。


 たとえ視界に入ってきたとしても、姫香自身がテレポートした直後であったなら。

 たとえ視界に入ってきたとしても、麻衣が判断を省いて即行で攻撃を仕掛けてきたなら。


 それは通常の奇襲よりも、攻撃が届くまでの時間が短いことを意味する。

 些細な短縮だが、元々瞬きすら許されない、刹那の戦いである。この短縮は非常に厄介で、姫香の反射神経アドバンテージはゼロに、いやマイナスになると姫香は悟っていた。


 麻衣がテレポートして、姫香の背後へ移動した。

 ほぼ同時に姫香もテレポートして、その場から離れる。

 そんな回避行動を先読みした麻衣が、次に姫香が出現する位置を見定めて、即座にそこへ飛び、攻撃を繰り出す。とはいえ、この広い空間で、先読みなど早々当たるはずもなく――空振りに終わる。


 しかし麻衣は間もなくテレポートし、攪乱を狙いつつ、姫香を視界に定めたら再び背後へと移る。

 それを姫香が回避して、ほぼ同時に麻衣も再度テレポートして、先読みした位置で拳を奮い――そんな応酬が展開された。


「分の悪い持久戦だこと」


 姫香は麻衣に聞かせるよう、ことさら大きな声でつぶやく。


わたくしが一回避けるのに対し、あなたは二回のテレポートと攻撃動作を繰り出しています。持久戦にしては分が悪いということにお気づきにならないのかしら?」


 すらすらと喋りながらも、麻衣の動きを漏れなく追い、避ける。

 余裕を崩さないように。

 実は焦っている内心を悟られないように。

 姫香は努めて振る舞う。


 そう、姫香は焦っていた。


「あわよくば攻撃が当たると期待しているのでしょうが、テレアームの可動範囲は半径二十メートルを超えます。どこに飛ぶかもわからない人体の行き先を当てるなど、確率的に無謀ですわ」


 テレポート。攻撃、空振り。

 攪乱、攪乱。テレポート。

 攻撃、空振り――単調なパターンが何回も、何十回も繰り返される。


「そもそも仮に当たったところで、その拳が急所に当たるとは限りません。あなたの威力なら、急所に当たらない限り、どうということはありませんよ。さすがに何回もいただくと違ってくるのでしょうが、それこそ確率的にありえません」


 しかしゼロパーセントでない以上、ありえないとは言い切れない。

 もしかしたら、いきなり急所に当たるかもしれないのだ。

 余裕ぶっているものの、麻衣の拳は油断できない威力だった。たとえば頭部に当たった場合、致命傷は免れない。


「……当たるよ」


 両者、五メートルほどの距離で相対したところで、麻衣が口を開いた。


「ひめっちがとっさにどこにテレポートするか、だいぶ傾向が掴めてきたからね。その証拠に、最初よりは近づいてるでしょ?」


 確かに麻衣の言う通りだった。

 十回、二十回と繰り返すうちに、麻衣のテレポート先は姫香の回避先に、確実に近づいている。数メートル差にまで迫ったことも数回あった。


「偶然ですわね。わざわざ口を開くとは、さては焦っておられますね?」


 焦っているのは姫香だった。

 そこまでは考えていなかったから。

 というより、ただでさえ集中していて、考える余裕が無かったから。


 一方で、向かいの幼なじみは、最初から喋りながら戦っていたように、どこか余裕がある。それはマルチタスク――複数の物事を並列して処理する要領に長けているからだと姫香は思った。

 もしかしたら、これはただの悪あがきではなく、立派な作戦なのかもしれない。


 姫香は初めて冷や汗を感じた。


 このまま長期戦に付き合うだけで勝機はあるのか。

 逆転の手を打たれる前に、強引にでも反撃すべきではないか。

 麻衣はカウンターを狙っている? でも彼女の力量ではたかが知れて――


「くっ!?」


 頭を働かせると体が鈍る。

 危うく不意を突かれそうになって、姫香は思わず声を発してしまった。


「おっほう、焦ってますなあ」


 麻衣の、人を苛立たせる声音が響くが、姫香は聞いてはいなかった。

 一刻も早く落ち着きを取り戻すため、テレポートを複数回実行して、あっという間に麻衣から五十メートル以上離れた。

 もはや細かい表情や左手の動きは見えない距離。だが、姿が消えればすぐにわかる。姫香は麻衣に目を配りつつも、深呼吸で更に落ち着かせようとした。


 しかし麻衣がそれを許さない。

 その姿が消えて、一瞬だけ数十メートルほど手前に出てきたかと思うと、また消えて――姫香の背後に出現する。


 姫香はまだテレポートをしていなかった。後方から、自らの頭を狙われたのだということが、風圧でわかった。

 頭に届く前に、本当に間一髪のところで、左手を握る。


「はぁ、はぁ……」


 ――危なかった。


 姫香の読みでは、自分に近づくまでに少なくとも二回は姿を見せると踏んでいた。

 テレアームの可動距離は二十メートル程度だと思っていたから。

 ところが実際はそうではなかった。




 ――少なくとも二十五メートルは伸びる。




 だからこそ、たった一度の経由で、麻衣に背後を取られたのだ。

 なぜ基本的な性能限界をきちんと調べなかったのか、と姫香は自責の念に駆られる。そして。




 ――テレアームの可動範囲は半径二十メートルを超えます。




 ついさっき発した自らの台詞。

 麻衣はこれを『テレアームの可動限界距離を誤認している』と仮定し、早速戦略に組み込んできた。


 ――これだ。この機転こそが、麻衣の武器。


 なら、もっと厄介な作戦を考えたところで、何ら不思議はない。

 長期戦は、そのチャンスを与えることに他ならない。

 そんな暇を与えちゃいけない。


 身体能力は、反射神経は、自分が優れているのだ。

 テレポートの扱いだって負けていない。

 何を恐れることがある?


「しっかりなさい、わたくし!」


 姫香は吹っ切れた。


 口をつぐみ、思考から一切の雑念を排する。

 ただただ目の前の相手を見据えて、一発を叩き込むことだけに集中して。


 果敢に左手を握る。

 麻衣の側方にテレポート。同時に蹴りを叩き込もうとするが、麻衣は即座に消失する。

 視界には現れない。再出現したのは姫香の後方だということだ。

 いつもなら奇襲を想定して即座にテレポートで逃げるが、姫香は逃げなかった。

 蹴り上げようとした後を強引にコントロールして、素早く前にステップを踏みながら体を捻る。

 その途上で、目前に麻衣が現れた。

 拳を繰り出しながらも、その表情は微かな驚きを示している。


 ――いける。


 麻衣の拳は届かない。

 むしろ届かないのに自ら腕を近づけている格好であり、姫香にとっては絶好のカウンターチャンスだった。

 ステップの勢いを力づくで止め、同時に、繰り出されてくる麻衣の腕に、骨を折るつもりで無力化しようと、両手を伸ばす。

 姫香は確信した。これを避けることはできないと。

 長年修練を積んできた姫香は、感覚的に人間の限界というものがわかっている。交わせるはずがなかった。


「おっとっと」


 しかし、麻衣は数メートルほど後退していた。

 無論テレポートを使用したのだ。

 一瞬見せた表情は既に鳴りを潜めていた。台詞も発していることからまだ余裕が見える。

 なら、余裕が無くなるまで攻めるまで。


 姫香は麻衣を追いかける。

 麻衣が逃げる。

 それを姫香が再び追う。勇猛に。大胆に。


 ここに来て両者のテレポート頻度が急上昇する。

 時には秒間複数回の発動も交えながら、何十、何百と離散的な位置取りが繰り返される。


 繰り返されるうちに、麻衣の顔が渋っていく。

 焦りと疲労の色が見えてくる。


 ――勝てる。


 姫香はまたもや確信した。

 今度は逃げられない。先に体力か、注意力が尽きるまでは続く。

 麻衣より続けられる自信はあった。


 そうだ、普通にやれば勝てるのだ。

 はやる気持ちを抑えて、麻衣を追い詰めていく。


 その時だった。


「あ、ら……?」


 平衡感覚の乱れを、姫香は突如感じた。

 ぐらりと地面に倒れそうになるのを、何とか踏ん張る。


 しかしその隙が見逃されるはずもなく。


 姫香はとっさに左手を握ったが、それは麻衣の右拳が顎にヒットした後だった。


 十メートルほど後退した位置で、姫香は膝をついた。

 クリーンヒットは回避できたようで、脳しんとうも何とか免れたが、それよりも突然襲った違和感が深刻だった。




 ――この目眩は、何?




 立ち止まっている暇などない。

 姫香は何度も左手を握る。

 何度も、何度も。


 そんな彼女の位置がめまぐるしく、コマ送りのように変わっていくのを、麻衣は眺めていた。


「鍛錬は大事なんだよ、ひめっち」


 麻衣はあえてテレポートで距離を取り、遠目で姫香のテレポートを観察する。

 追撃を叩き込むために。

 トドメを指すために。


「テレポートを繰り返すとね、脳に負担がかかっちゃうんだよ。たぶん、一瞬で目の前の光景ががらっと変わっちゃうせいだね。度が過ぎると、そんな風に目眩が起きちゃう――って、聞いちゃいないね」


 姫香は今、麻衣に反撃されないよう、がむしゃらにテレポートを繰り返している。

 それでもフィールドの外へ逃げないところに、姫香の意地と覚悟を感じて、「さすがだね」麻衣は思わずつぶやいた。


 麻衣には誰よりもテレポートの修練を積んだ自負があった。

 天神家の令嬢たる姫香とは違って、誰かの目を気にする必要もない。その気になれば一人暮らしのレベルで時間を担保できるし、実際そうしてきたのだ。

 この蓄積の差がものを言う瞬間があればいいと頭の片隅で考えていたが、この結果は予想以上だった。


「まさかこんなことも知らないとは思わなかったなぁ」


 麻衣は姫香を視線で捉え続け、その移動パターンを読み取る。


「うふっ――見ーえたっ」


 麻衣はテレポートで接近した。

 姫香の軌道はシンプルだった。フィールドから出ないよう、右に飛んで、次は左に飛んで、と左右交互にテレポートしているだけだ。

 細かい位置こそ特定できないものの、全方位の可能性に比べればはるかに読みやすい。


 麻衣は姫香の位置を先読みしてテレポートし、同時に攻撃を叩き込むことを繰り返した。

 さすがに一度や二度では当たらない。

 姫香も、細かい移動量を調整して、何とか先読みされないよう足掻いている。目眩はまだ止まないようだ。

 単純な移動とはいえ、その状態でテレポートを繰り返せる根性には目を見張るものがある。麻衣は感心していた。


 二十回ほど繰り返したところで、麻衣の蹴りが姫香の左足にヒットした。

 ぐらついた姫香に、麻衣はすかさず追撃を試みる。

 右手で姫香の左腕を掴み、折る勢いで引き寄せながら、真の目標たる左手の、親指を。

 自らの左手で握って――へし折る。


 ボギッと。

 耳を塞ぎたくなるような音。


「あぐっ!?」


 それがほぼ同時に、お姫様に似つかわしくない悲鳴によって上書きされる。

 麻衣は興奮しそうになるのを抑えながら、テレポートでいったん距離を取る。


 姫香は地に膝をつき、肩で息をしていた。左手に力を加えているのが見て取れるが、テレポートが中々発動しない。


「やっぱりね。親指を無力化したら、発動も無力化できるんだ。ふむふむ」


 他人事のようにつぶやきながら、その目は冷静に姫香を――痛みに食いしばって堪えながら、なおもテレポートを続ける幼なじみを捉え続ける。

 移動する頻度は明らかに落ちていた。数秒に一度しか動けていない。


「でも曲げようと思えば曲げられるみたいだね。完全に無力化したかったら、もぐしかないのかなぁ――まあいいや」


 麻衣は姫香の前方、一メートルの付近に移動。反撃を警戒しながらも接近し、


「わたしの勝ちだね」


 一気に距離を詰め、苦悶に満ちたお嬢様の顎に右ストレートを叩き込む。文句無しのクリティカルヒット。

 間髪入れずに姫香を抱き寄せ、みぞおちに膝蹴りをぶち込んだ。


「ちなみに目眩だけど、テレポートで鍛え続ければ適応してくれるよ。フィギュアスケーターでいう三半規管みたいなものなのかなあ」


 全身から力の抜けた姫香を優しく地面に降ろしながら、麻衣はへらっと相好を崩した。


「楽しかったよ、ひめっち……さてさて。第二ラウンドと参るぜ」


 綺麗な首筋に両手をかける。

 握力を加え、体重を乗せて――


 完全に脈が途絶えたことを確認してから、服を脱がし始めたのだった。

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