3.古井戸

犬は風のように走った。犬には強い毛が生えていてそれをしっかり握るようにと男はいった。男の名はアラムという。妹の名はリサという。犬の毛はちょうどマーラの手首から肘くらいの長さがあった。複数を束ねて握る。犬はさらに走った。マーラは振り返った。自分が長く暮らす家。それがある樹を見たかったのだ。それはけやきの樹だと伝え聞いていた。すっとかたちよく伸びた樹形。先が見えないほど高い。左右に広がった枝葉は先端に青い葉をつけていた。周りには様々な樹が生えている。思い出せる限りマーラは樹の種類を数えた。桜、もみじ、こなら、しい、椋、様々な樹が生えている。だがそれらは混然一体となって、遠くに消えていった。周りにはさらに樹が生えている。あれはどこの町だろう。それぞれの樹にはドールが住んでいる。ドールの町が出来ているはずだ。大地から見上げる樹の国は木漏れ日が差し込む優しい国だった。アラムは犬に微妙な指示を出しながら、古井戸へと進んだ。行く手には木々のない開けた土地が見える。森を抜ける。するとそこには満開の花々が咲き誇る草原が広がっていた。マーラは身近に草を見るのは初めてだった。「ここからは道がありません」アラムは困ったようにいった。「いままで来ていたのはけもの道なのですが、ここから先は人の道を利用します」犬は長い草を避けて短い草を踏みながら、アラムの持っているコンパスでいうところの西南へ進んだ。やがて、石を敷き詰めた広場に出た。「地図を見せてください」アラムはそういうと、マーラの地図を広げた。アラムは出発地点のけやきの木を指し示した。「ここから、ここまできました」地図の中ほど、森を指す絵から外れてすぐのところ、道がある。「この線がこの道です」「古くに人が作ったものです」「今でもときおり人が使っています」アラムは周りを見回した。そして念を押すようにマーラに言った「一番恐ろしいのは人です」「ドールを知らない犬はたしかに恐ろしい。しかし、一番怖いのはドールを初めて見る人間です」「人とドールが離れてしまった今、ドールの存在を知られてはいけない」アラムは持っている荷物から、布袋を取り出した。「これは我が家に伝わる魔法石です」「もし万が一、人間に見つかったらこれをぶつけてください」袋から渡された魔法石は、きらきらと輝き、不思議な色をしていた。それは彼の眼の色に似たグリーンで複雑に七色の光を放っていた。「残っている数が少ない、できれば使いたくない、人には見つからないようにしてください」そこまでいうとアラムは犬を走らせた。


犬は前よりももっと早いスピードで、石の小道を駆け抜けた。十字になった道を曲がると、その先に石を積んだ小山が見えた。「古井戸です」アラムは犬を止めて、小山を見上げた。岩の大きな塊が積み上げられている。左右は崩れていて、ドールでも登れそうだ。アラムは左から岩を登って行った。マーラもそれに続いた。ほどなくして小山の上に着いた。樹を加工して板にしたものが頂上を平らに覆っている。「木が腐っているかもしれない。踏み抜かないように気を付けて」アラムはそういいながら、慎重に足場を探した。マーラは周りを見回した、犬の背よりも高いところに立っている。遠くまで草原が見える。これほど遠くを見るのは初めてだった。つま先立ちになって草の向こうを見てると、大きな山のようなものが見えた「あれは何?」マーラはアラムに聞いた。「人が乗る車というものです」アラムは木の板を調べながらいった。「山のようですが、あれに人が乗ると動くのです」アラムは荷物からほうきを外した。マーラは彼の荷物が不可解だったのだ。大きなリュックに、長い杖、そこまでは旅行者としてわかる。だがリュックには明らかに邪魔でしかない、ほうきが結び付けられていた。旅行者としてほうきを持ち歩く必要性がわからない。掃除をしてまわるというのか?「大丈夫です、この辺まで、木の板は腐ってない」アラムのいる場所のすぐ先で突然木の板は無くなっていた。そしてぽっかりと古井戸が口を開いていた。「どうやって水を汲み上げるんだ?」マーラは聞いた。アラムは片手にほうきを持ち、古井戸の周りに積まれた石の上を危なっかしく歩いた。「もしかしたら人が使う桶があるかもしれないです」しかし、古井戸は使われなくなって久しいらしく、使えそうなものは無かった。アラムはリュックにぶら下げていた鍋を持つと「これに汲んできます」といった。そして同じくリュックにぶら下げたランプを持ち、リュックから大切そうに蝋燭の切れ端を引っ張り出した。それらの動きをマーラは目を丸くして見ていた。マーラの周辺で火を扱うドールを見たことがない。熱は太陽から光を集めて水を温めるくらいで、普段の光はヒカリゴケやホタルの明かりを使う。火など恐ろしくて使えるものではない。アラムはリュックからレンズを取り出すと慎重に光を集めた。そして、蝋燭の芯に光の点を合わせると、しばらく待った。やがてそこから煙が立ち上る。蝋燭に火が付いた。それをランプのなかに収めると、「いつでも隠れれるようなところで待っていてください」といって、ほうきにまたがった。「一体何をするんだい?」マーラはアラムの奇妙な行動を見ていった。「このほうきで空中に浮かびます」そういうとアラムは短く言葉を発し、古井戸の中に消えた。「アラム!?」マーラは古井戸の中を覗いた。井戸の中はランプの明かりで柔らかく照らされ、ほうきにまたがったアラムがゆっくりと井戸の底に降りていくのが見えた。井戸の奥には満々と水が溜まっている。ランプの光が水面に反射してきらきらと輝いていた。


太陽の光か火の光があればドールは動ける。そう聞いたことがある。だが、実際に火を見るのは初めてだ。なんだか力が湧いてくるような気がした。アラムが水を汲んでまた地上に戻ってきた。リュックから、水のろ過装置と蒸留装置を出して組み立て、水をそそぐ。そしてランプの蝋燭を取り出して、蒸留装置の蝋燭にも火をつけた。古井戸の中と地上を往復して、水を汲み、ろ過して蒸留する。それを何度も繰り返して、ひと瓶の蒸留水を作った。アラムはそれを古井戸のそばで休ませていた、妹に持っていく。毛布にくるまれた妹は目を閉じてぴくりとも動かない。その唇に水を含ませる。ひと瓶の水を与えて、彼はしばらく待った。「間に合えばいいのですが」彼は待ち続けた。日が傾き、空が茜色になったころ、妹の瞼が柔らかさを取り戻し、動いた。目に潤いが戻り、開いた瞼の下でゆっくりと光を取り戻していった。「……お兄ちゃん」妹はアラムを見てたしかにそういった。アラムとマーラは、リサを抱えて犬に乗り、もとの樹の下に戻った。「家に寄って少し休んでいかないかい?」マーラはアラムにこう提案した。「とっておきのお茶があるんだ」「カカオ茶じゃない、本物のお茶だ」アラムは少し笑った。「ではお言葉に甘えてもいいですか」アラムはお礼にと、ほうきにマーラを乗せて飛んだ。樹の幹を垂直に上がっていく。マーラの家の前まで飛ぶと、今度はリサを迎えにアラムは降りて行った。リサが家の前に到着すると「もう少し飛びましょう」といった。マーラはその日初めて森の上を飛ん

だ。空一杯に雲が広がり、茜色に染まっていた。東の空は黒く青く、星が光っていた。地上を見ると、いくつもの明かりが見えた。「あの明かりの元には人間が住んでいるのです」アラムはそういうと、森の中に戻った。


その夜は、マーラがアラムを質問攻めにした。どこから来たのか、なぜ様々なことを知っているのか、ほうきや魔法石のこと。彼はにこやかに問いに答えてくれた、回復したリサは、マーラの家の中に置いてある様々なものを不思議そうに見ては、それに慎重に触った。リサの瞳もアラムに似た美しいグリーンだった。日が沈むまで二人は喋った。そして心ゆくまでお茶を飲んだ。白夜の国の夜は短い。すぐに夜明けが来て、旅人は旅立つだろう。生命の水を求めながら、時には犬に乗り、時にはほうきで空を飛び、知らない国を旅するのだろう。マーラはそう思いを巡らせながら、静かに眠った。(2018年3月3日 了)

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18年3月2日・空飛び人形と生命の水 一日一作@ととり @oneday-onestory

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