2.水と冒険


マーラは人間の姿を一度だけ見たことがある。木の下を歩く大きな生き物。形はマーラ達ドールに似ているが大きさが完全に違った。マーラの何十倍も大きい。マーラは気づかれないように木の枝に姿を隠した。マーラ達のようなドールを作ったのは人間だといわれている。ずいぶん昔、人間はドールに生命を吹き込み、あるものは奴隷のように、またあるものはペットのように扱った。だがある日、そんなドールの存在は忘れられ、ドールは人間の暮らしを真似て暮らすようになった、やがて時は立ち、ドールが樹上に暮らすようになると、ドールもまた人間の存在を忘れていった。

「もうすぐ日が暮れる」マーラはカカオ茶を男に勧めながらいった。「今日はどこかに泊まるのかい?」男は首を振った。「急いで出発しないと……」マーラはため息をついた「急いでも仕方ないだろう、日がないと我々は動けなくなるのだから」「そういえば妹さんはどこにいるのだい?」男は困った様子で「この下の洞に寝かせています」といった。「連れてきなさい」「今日はここに二人で泊まるといい」男の表情が明るくなった。「いいのですか?」マーラは苦々し気に「仕方あるまい、いまさら近くの宿屋まで行くわけにもいかない」といって真っ暗になった窓の外を見た。これでは家から出たら5分もしないうちに動けなくなる。ヒカリゴケのランプの光も弱くなってきた。「さあ、急いで、妹さんを連れてきなさい」



男が彼の妹を連れてきた。毛布にくるまれぐったりとしている、小さな少女だ。男は大事そうにに少女を抱えて立っている。マーラは部屋の中央のソファに彼女を降ろすように指示した。そして彼に尋ねた。「だいたい想像は付くが、彼女は“水”を失ったんだね?」男はうなづいた。マーラは「もちろん、我が家にも常備してる水はあるが、これでは駄目なのかい?」と続けた。男はもう一度うなづくと、「妹のような完品のドールは、保存料の入った水に拒否反応を起こしてしまうのです」といった。マーラは理解した。マーラが買ってくる水は、木の葉に付いた雨粒や露をあつめたものだ。それは腐らないように微量の保存料が入っている。マーラのようなジャンクと呼ばれる、完品ではないドールは、乱暴に言えば水分さえあればいい。マーラはカカオ茶でお手軽に摂取しているが、月に一度水を飲めば、あとはカカオ茶で過ごしてしまえる。でも完品は違う。純水と呼ばれる水が必要なのだ。それには大量の水がいる。それを蒸留して、煮沸消毒(それにも大量の水が要る)した瓶に集める。うまくすれば何年でも持つ純水になるが、その技術は失われて久しい。今の技術では純水は作れても、数日しか持たないのだ。そのせいで完品のドールは激減した。皆、どこかを変え、ジャンクになった。最初に組み立てられてそのまま変わらないというのは、非常に珍しいものとなった。「とにかく、今日は休もう」体の動きが鈍くなるのを感じながらマーラは言った。「この時期は数時間もすると日が昇る。それから出発すればいい」男はマーラに礼を言った。



翌日、マーラは物音で目覚めた。日が微かに昇っている。白夜の国はほんの数時間の夜を終えて、旅の男を目覚めさせた。「お世話になりました」男はそういうと妹を抱きかかえて出発しようとした。「待ちたまえ」マーラはそういって男の手帳を見た。そこには何やらぐにゃぐにゃした線が描かれているだけだった。「これでたどり着けるのかい?」マーラは心配になった。あの地図を貸そうかと思ったが、一度でも手放せば二度と手に入らない代物だ。マーラは考えた。「途中まで、地図をもって着いていこう」樹上を行けば危険はない。西の三本目の樹まで行って、その先は男に頑張って行ってもらうしかない。マーラはそう考えた。男はしばらく考えた。「私には最短のルートで行く方法があります」そういうと、男はマーラを家の外に連れ出した。男は樹を降りていく。マーラは慌てた。ここで樹を降りるなんて正気の沙汰ではない。マーラは樹を伝いながら、男の後をついていった。もちろん来たこともない場所だ。眼下に地上が見える。うっそうとした草という植物が生えている。男は草の間を通り、樹の根元にたどり着いた。男が口笛を吹く。しばらくすると遠くの方からガサガサという大きな音がした。樹の葉がこすれるような音だ、何かが草をかき分けてやってくる。



荒い息づかい、耳元まで裂けた口、鋭い牙、爪の生えた足。マーラは慌てて樹上に逃げようとした。犬だ。本物の犬だ。ドールをかみ砕く恐ろしい犬だった。一方男は冷静だった「大丈夫です」男は犬に手を振り大声で何かを言った。犬はその場にしゃがみこんだ。「この子に乗って行きます」マーラはその場に立ちすくんだ。「犬に……乗る?」男はうなづいた「この子は幼い時から私の家で育てた、いわば家族なのです」「あなたは来ますか?」マーラは自分が高揚するのをどうしようもなく感じた。樹上を降りるなんて考えたこともない自分。でも古地図に魅せられ、知らない地上の世界に思いを馳せていた自分。その地上を今、行くことができる。マーラは男の手に腕を伸ばした「私も乗せてくれ」片手には古地図を抱いている。冒険が今始まろうとしていた。

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