18年3月2日・空飛び人形と生命の水

一日一作@ととり

1.古地図と井戸

もう日暮れ近くになってマーラは本を閉じた。今日も一日が終わる。白夜の国も眠りに着こうとしている。マーラが寝る前にもう一杯、カカオ茶を飲もうか考えていると、ドアを叩く音がした。

「すまない、古地図を見せてもらえないか?」ドアを開ける前から外で声がする。聞き覚えのない、若い男の声。抑えてはいるが焦りの色も感じられる。マーラはドアを開けるのを躊躇した。もちろん、彼はこの辺では少し有名な古地図の収集家だ。といっても古地図なんてものに興味を持つ者の間でのことで、別段すごく有名というわけではない。地図なんてものの必要性が薄れて、地上などというものに興味を持つ者が減った今日、古地図が安くたたき売られていて、何となく始めた趣味だ。

さっきまで読んでいた本も地図に関係する本だったが、彼はそれを10ページも読んだら眠くなった。ドアが激しく叩かれる。居留守を決め込もうかと思ったが、部屋にはランプが煌々と灯り、彼の影が窓のカーテンにくっきりと浮かんでいた。今さら家に居ないふりはできないだろう。

観念してドアを少しだけ開けた。コツリと硬い音がする。ドアを叩いていた男が一歩下がった時の音だった。マーラは慎重に視線を落とした。男は素足ではない。足元を硬いもので覆っている。靴というやつだ。昔の旅行者は靴を履いて大地を歩いたという。その靴だ。マーラは男の顔を見上げた。「なにかご用ですか?」男は大きく息を吸い込んで慎重に言葉を探しながらいった。「古井戸の載っている地図を探している」



マーラは男を部屋に招いた。彼は靴を履いた者を見るのは初めてだった。生まれてこの方、樹上を離れたことのないマーラにとっては、靴というものが樹から落ちる危険性のある、奇妙な装置にしか見えなかった。その靴を履いた男は焦っていた。「夜分に恐れ入ります、私はこの近くに古井戸がないか探しているのです」男は手短にそう話した。「わかった、君はこの辺の古地図を探しているのだね」マーラは手近にある引き出しを開けると、古い大きな紙を引っ張り出した。「この樹は、この地図でいうとこの辺りに生えている。一番近くの古井戸というのは………」しばらく二人で地図をにらんでいた。「これでしょうか?」男は地図の一点を指し示した。「そう、それだね」「この場所はここから西に3本、樹を渡って、大地に降りる。そこから南に………」「………30メートルだ」メートルという単語を久しぶりに使った。大地に降りて30メートル地上を“歩く”。言ってみたものの考えるだけで恐ろしい。地上には恐ろしいけものが住んでいる。それは、我々を一発でかみ砕く強靭な顎を持っている。それらから逃れるために、我々は樹上に移動したのだ。



「一つ聞きたい。君は古井戸になんの用があるのだい?」靴を履いた男は地図を手帳に書き写していた。マーラは男と自分にカカオ茶を入れるために湯を沸かしながら尋ねた。「まさか、地上に降りて、古井戸に行くつもりなのかい?」男は顔を上げると、マーラをじっと見つめた。「水が必要なのです」男はそういうとまた地図を写しはじめた。マーラも男を見つめた。男の目の色は深いグリーンだった。マーラは「もしかして君は、完品の……ドール?」と聞いた。緑の目は珍しい。男は違うといった。「私は完品ではありません、ジャンクです」男は声を落としてこういった。「ただ、妹が……水が必要なのです」マーラは深くため息をついた。「どんな深い理由があるのか知らないけれど、水は人間にしか手に入れられないものだ」「完品ならなおさら、人間に保護を求める方がいいよ」それを聞くと男は緑の目を悲し気に伏せ「人間はもうドールの存在を信じない」「自力で水を手に入れるしか方法がないのです」といった。

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