初夜・3
湯浴みが終わってエリザがローブを着たか着ないかのうちに、先ほどの仕え人が戻ってきた。エリザが真っ赤な顔をしているのにくらべて、彼はまったくの無表情だった。
エリザの姿を足の先から頭の先までじっと見ると、いきなりローブを剥ぎ取った。あまりに突然のことで、エリザは声も出せなかった。あわてて両腕で胸を隠した。
仕え人は、石鹸などが入った箱から小さな小瓶を取り出した。蓋を開けると、かすかな甘い香りがした。
「動いたり騒いだりしましたら、暗示をかけますからね」
前もって仕え人はエリザに釘をさした。たぶん、動いたり騒いだりしたくなるようなことをするのだろう。
彼は小瓶から香油を手にとると、エリザの首筋や腕、細い足に塗り始めた。
「…う」
エリザは思わず声をあげた。
我慢しなければいけないのだが、仕え人の手の感覚がくすぐったい。体の奥からざわつくような、不思議な感覚にエリザは戸惑った。
エリザは初めて薬湯の薬効を知った。
ムテは、生殖能力が乏しい種族である。その代わり、豊富な薬の知識がある。仕え人が調合した薬湯には、女性の感度を上げるような成分が含まれていたのだ。
そして今塗られている香油には、もうすでに男であることもなくなった仕え人には何の効果も与えないようだったが、男性をそそるような成分が含まれているに違いなかった。
初めて感じる奇妙な感覚に、エリザは目をつぶり、恥ずかしさに歯を食いしばった。
お湯でほぐれたはずの体は、再びカチカチに固まってしまった。
祠のさらに奥の部屋に特殊な寝所がある。
先代の最高神官マサ・メルが作らせた部屋のひとつで、黒い石を組み上げられて作られている。外の世界と内の世界を完全に遮断することができる部屋であり、常に銀の結界をまとい続けているマサ・メルにとっては、唯一それを外すことができた場所だった。
ここで、マサ・メルは多くの巫女たちと交わった。そして、出産もこの場所で行われ、多くの子供が生れたのだ。
清められているとはいえ、何か血なまぐささを感じる。
女たちの悲鳴が聞こえてくるようだった。それは、性交による快感の悲鳴なのか、苦痛の悲鳴なのか、はたまた出産の苦しみの声なのか、子供を得た喜びの声なのか? いづれのものだとしても、エリザには恐ろしく思えた。
部屋は八角形だった。
その隅々に仕え人たちが待機して見守っている。この部屋の形が魔力を高めてくれるのだと、仕え人がいう。確かにそうかも知れない。部屋の中央に座らされたエリザには、仕え人たちの直視に、魔の力以上の凄みを感じて、気が落ち着かない。
せめて、席を外してくれたら……と思う。
銀に輝くムテの結界も、その行為の間は外される。かつて、その瞬間を狙ってマサ・メルを殺そうとした女がいたらしい。最高神官は運良く事なきを得たが、それ以降は信頼のおける仕え人たちを、行為の時に同席させるようになった。
その風習が今でも脈々と続いているのだ。
時間が過ぎてゆく。最高神官はなかなか現れない。
先ほどの香油の香りがむせた。塗りつけられた手の感覚が再び戻ってきて、エリザはぞくぞくと身震いした。
不安にかられて、エリザはあたりを見回した。
そそり立つ壁は黒塗りされていて、その中、使え人たちの銀髪が、幽霊のように浮かびあがる。その奥に光る眼差しも銀色で、刺すようにエリザを見据えている。
壁が迫ってくるような、闇に押さえつけられるような胸苦しさで、早まっていく自分の呼吸の音だけが響いた。
闇の世界に、これから自分の身に起こる情景が浮かんでは消えた。
銀の目にさらされて、すべてをあらわにされ、押さえつけられ、かつてここで悲鳴をあげた女たちのように、引き裂かれていくのだ。
不安は突如として恐怖に変わった。
聞いたことがある。
蛮族は自分たちの望みを叶えるために、生贄を差し出して祭るそうだ。
故郷の村の人々は大喜びで祝福し、お祭り騒ぎで巫女姫を見送った。その姿が思い出された。
喜びの表情だっただろうか? いや、残虐な微笑みだったかもしれない。送り出してくれた村人たちは、生贄を祭ったのだ。
癒しの巫女として帰ってくれば、村にも多大な恩恵がある。巫女の知識は村を潤し、豊かにするだろう。一人の少女を捧げることで……。
今の自分はまさに生贄として捧げられた羊だった。まさに儀式が始まろうとしている。
壁に染み込んだ女の叫び声が、自分の声にすり替わってゆく。エリザの呼吸は止まった。
エリザは立ち上がると、たった一つの入り口目指して走り出した。
もう家に帰りたい! 後ろ指さされてもかまわない!
巫女に選ばれて誰もが祝福してくれる中、母だけが悲しそうな顔をしていた。
「お前には普通の娘として、平凡ながらも恋をして、愛し愛されて結婚してもらいたかったよ」
しかし、入り口はエリザには遠すぎた。
四方八方から銀の波のごとく、仕え人たちが押し寄せてきて、エリザを押し倒した。
押さえつけられた感覚がさらに恐怖をあおり、エリザは自分でもわけのわからない悲鳴をあげた。声は部屋中に響き渡ったが、この部屋から漏れることはないだろう。
エリザは必死に抵抗して暴れ、泣き叫んでいた。
「お気を確かに……。このようなことは、一瞬で終わることです」
仕え人の一人が、指先をエリザの額に当てた。とたんに体の力が抜けて、エリザは動けなくなってしまった。
ムテの暗示のひとつだ。
これは、母親がききわけのない子供をおとなしくさせる一番簡単な暗示だった。エリザは、ききわけのない子供だった。情けない気分でいっぱいになった。
母の言葉を笑顔で返し、村を出てきたのは自分の意志だった。
村に恩恵を与え、尊敬される巫女になりたかったのは自分だった。
エリザは、再び部屋の中央に戻された。
涙をふき取られ、乱れたローブも整えられた。髪も梳かされた。
再び涙が潤む。
エリザは呪文のように言葉を唱えていた。
……一瞬で終わる……
……一瞬で終わる……
やがて、入り口の扉が開かれた。
銀色の背の高い影が入ってきたかと思うと、入り口近くの仕え人から灯りを受け取った。
そのとたん、銀色の光は消えて、蝋燭の光の中、銀色の髪が反射して輝いた。
最高神官は結界を外したらしい。その行為は、身に付けていたものの一番上のものを脱いだといえるだろう。
エリザは、動けないままにその様子を見ていた。動かせるのは目と唇だけだった。
最高神官の瞳は、他の仕え人たちと同じように、自分を見つめている。
ムテらしい銀色の目だ。冷たい魔を持った目だ。
もう逃げることは出来ない。エリザは思わず目をぎゅっとつぶった。
長い時間がたったような気がする。
と、思ったとたんに何者かが頬に触れた。
思わずエリザはびくっとしたが、けして目を開けることはしなかった。一瞬、我慢すればいいのだ。一瞬だ……。
目の前が明るくなった。最高神官は、灯りをかざしてエリザを見ているようだった。
「いったいどうしたのです? 怪我をしているではないですか?」
ムテの神官らしいこもったような滑らかな発音だ。エリザはそっと目を開けた。
先ほどの捕り物で、仕え人の爪がエリザの頬を傷つけていたのだ。
仕え人たちが少しだけざわついた。
きれいにふき取られたとはいえ、時間がたった。頬にかすかに血がにじんでいるのを、最高神官は見逃さなかったらしい。
彼は灯りを床に置いた。
ちらりちらりと燃える蝋燭。その灯りはやわらかい。
エリザはぼうっとその光を見つめていた。神官が自分を見つめているのがわかる。
氷のような冷たい目を、エリザは見たくはなかった。片手がエリザの肩を抱いたが、目線をあわせないようにして、エリザは唇をかすかに動かした。
一瞬で……すむ……。
エリザの視線の隅に白い指先がちらついた。蝋燭に照れされ弧を描くようにふられた指に、エリザの意識が重なった。
とたんに体が自由になった。
エリザに掛かっていた暗示がとけたのだった。
エリザはあわてて肩に掛かった神官の手を払うと、はじかれたように後ずさりした。立ち上がれなかったのは、暗示のせいではなく、腰が立たなかったせいである。
奥の仕え人がエリザを取り押さえようとして立ち上がるのを、最高神官は手で合図して止めさせた。
一瞬静寂が流れた。
最高神官サリサ・メルは、再び灯りを手にとると立ち上がった。
蝋燭の灯りがエリザの上に影を落とし、最高神官をますます長身に感じさせた。
彼は、すべての状況を把握したのだ。
周りに、再び銀の結界がまとわりつき、あたりは銀色に輝いた。
「今夜はここまでですね」
そういうと彼は入ってきたほうに向かって歩き出した。
あわてた仕え人たちが一斉に立ち上がった。
「お言葉ですが、サリサ・メル様! 今夜は一番巫女姫の体調が整っている日なのです。お子が出来る可能性が非常に高い状態にあります。今夜を逃しては、今度はいつこのような恵まれた夜がくるのかはわかりません」
最高神官は、一瞬立ち止まった。
ふりむいた横顔は人形のような顔だった。揺らめく蝋燭の明かりに照らされて、怒っているようにも、哀れんでいるようにも見える。
「体調が整っていても、すべてが整っているわけではありません」
そういうと、最高神官は銀色の髪を翻して、部屋を出て行ってしまった。
何がいったい起こったのだろう?
エリザは一瞬頭が真っ白になっていた。おそらく、様々な思いがエリザの頭の中で押し合いへし合いをして、すべてあぶれだしてしまったらしい。
仕え人たちは、部屋の扉が閉まったと同時に騒ぎ出した。そのざわめきが、エリザの複雑な思いに方向付けをした。
エリザに押し寄せてきた思いは、身を捧げずにすんだという安堵感ではなかった。
もっと悲しくて切ない思い。情けなくてたまらない恥ずかしい気持ちだった。
惨め……それだけだった。
最高神官の有無を言わせぬ言葉には、感情の入る余地がない。
巫女姫としての務めを果たせなかった。所詮は辛抱のたりない子供だと思われたことだろう。
しかしそれよりも……女ではないとあきれられてしまったことが切ない。
自分がまだ成熟しきっていないことは、充分に自覚はしていた。確かに怖くてたまらなかったし、受け入れがたいと感じていた。でも、覚悟はしたはずなのだ。
未熟さゆえに、すべてを否定されたような感覚。まるで自分が消されてしまったような、虚しい気分。
なぜ、耐えられなかったのだろう?
どうせ捧げなければならないものならば、今日、すべてが終わってしまったほうがよかった。次の時まで、巫女である限りは憂鬱な気分が続くのだろう。
しかも、仕え人たちの落胆振りはひどいものだった。
明日からますます冷たい目で見られることだろう。
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