01.心の貧しいものは幸いである

『幸福なるかな貧しき者よ、神の国は汝らのものなり。―――マタイ5:3』





鳥の囀る声。木の葉同士が擦れ合う音。

ここ最近は聞こうともしていなかった優しい自然の音が、こんなに近くに聞こえる。

深い微睡から時間をかけて意識が浮上した。そこから何度か浅瀬を行き来し、そうして漸く、覚醒した。

目を開く。

直射日光が入らない、程よく光の差し込む大きな窓は開けられ、透けたカーテンが穏やかな風にはためいている。夏特有の草の匂いがした。

開け放たれた大窓からは良く晴れた空が見える。太陽はほぼ真上にあるようだ。

良い具合に差し込む陽の光に頭の中がはっきりしてくる。それにつれて、思わずスルーしてしまいそうになった超重要案件に気づいて、マルガレータは勢いよく飛び起きた。


――――――ここ、どこだ?


思わず身体の確認をする。全く見慣れないネグリジェを身につけていた。

ここに来て昨日の事件はまさか夢ではないだろうなと勘繰ったが、跳び起きた際に感じた全身の軋みは日頃の運動不足を物語る筋肉痛で間違いないだろう。

軋む身体に鞭打ち、大きなベッドから何とか降りる。

部屋の奥の壁には本棚が備え付けられている。天井までぴったりと届く本棚には満遍なく本が敷き詰められていた。

この部屋にはベッドこそあるものの、それ以外に見当たるものはテーブル、ソファと部屋の雰囲気に合ったアンティークの調度品。大変広い部屋だが家具などは殆どなく、生活感がない。普段は使用されてない部屋なのだろう。

部屋の観察を終えて次は窓に駆け寄った。寝ていた時は空しか見えなかったが、こうして見ると言葉も出ないくらいの広い庭が眼下に広がっていたのだ。


「……、お屋敷じゃん……」


庭は庭でも、これは庭園だ。

よく手入れされた青々と茂る芝生、よく手入れされた各々の品種の美しいバラ園。まだ咲いていない他の花達はどの季節に咲くものなのだろう。

美しい庭園とこの屋敷を黒い森がぐるりと囲み、その森の向こうに――――


(…、町だ)


マルガレータの住む町が見えた。マルガレータの町の隅には鬱蒼とした黒い森があり、背の高い木々の間から覗くように白亜の古城が見えていた。

町よりも高地に建っているその屋敷、これ自体は相当古いものらしい。その美しさとどこか神秘的な気配すら漂わせる立地故か昔は皆屋敷を目指して森に入って行ったが、黒い森に入った者は遭難してそのまま行方不明になるか、屋敷の方へ進んだはずなのに気が付いたら戻ってきてしまっているなど誰も屋敷へ辿り着く事ができなかったのだとか。

以前テレビ局も来たことがあるらしいが、やはり屋敷へは辿り着けなかったのだという。

それ以来誰も近づかなくなったという曰く付き物件であり、ここから森越しに町が見えるという事は現在地はその屋敷でまず間違いない。

なぜ自分がこの屋敷にいるのかさっぱりなのだが、今自分が来ているネグリジェといい生活感はないものの埃一つない大部屋といいよく手入れされた美しい庭園といい、確実に誰かが住んでいる。

昨夜あの化け物達に襲われてその後どうなったのか記憶が曖昧だが、そこから記憶がなくここで今こうして目を醒ましたという事は、この屋敷の人に連れてこられたのか?

どうして警察に保護させなかったのだろうだとか何故屋敷の人が自分を見つけたのだとか色々気になる事は山積みだが、まず屋敷の人を探して礼を言わなければならないのではないだろうか。

先ずは目を醒ましたことを報告しなければ―――と窓の外から視線を外して背後を振り返ると。


「おはようございます、お嬢様。お加減はいかがでしょう」

「きゃああああ!!!???」


全く気配なく佇んでいた女性に驚いて悲鳴を上げてしまったが、女性は一切動じなかった。艶のないダークブラウンのロングヘアーと硝子玉のようにくすみ一つないエバーグリーンの瞳が特徴的な若い女性だった。

灰色のシルクの衣服を身に纏っているが、今の口調からしてここのメイドか何かなのだろうか。


「お嬢様、お加減はいかがでしょう」

「あ、え、あの、…はい、問題ない、です」

「私、只今よりお嬢様のお世話をさせて頂く、シルキーと申します。それではお食事の準備ができておりますので、こちらへどうぞ」

「えっ、あの」

「こちらへどうぞ」


有無を言わさない。入力された事以外を話さないような、人形めいた女性だ。

何を言っても恐らくずっと同じことを返されると踏んで、この女性の後を大人しくついていくことにした。


部屋から廊下に出る。あの部屋もそうだが、屋敷の外観とは違い内部はダークカラーで統一されていた。かといって陰鬱さは一切なく気品を感じさせる色合いで纏められている。

元々の先入観があるだけに、見れば見る程ギャップのある屋敷だ。

案内されたのはやはりダイニングルームだった。だだっ広い部屋の中心に大きなテーブルと幾つもの椅子が規則正しく並べられており、童話にでも出てきそうだとすら思った。

テーブルには既に食事が用意してあった。椅子を引かれて「どうぞ」と言われてしまえば従う他無いとこの数分できちんと学習はしたつもりだ。

一流ホテルもかくやという食事の出来栄えと味に死ぬ程ビビったが、女性(シルキーと名乗っていたが)にそれを伝えたものの「光栄にございます」と淡白な反応が返って来た。この人、本当に表情筋が仕事をしていない。


次に案内、もとい引っ張りこまれたのはどうも衣裳部屋のようだった。

あっという間にネグリジェを剥ぎ取られ、素人目でもわかる程の上等な服を着せられた。決して豪奢なものではなく何方かと言えばシンプルなものだが、質素という言葉より気品があるという表現の方が似合うだろう。

ちなみに着ていた服はどうしたのだと聞いたところ、「あの服は捨てさせていただきました」という子気味良い返事がされた。

着替えさせられ、一体自分は何をしているんだろう…と現在自分が置かれている状況が更にわからなくなってきた時。


「これからお嬢様を主の元へお連れ致します」

「…主?」

「この屋敷の主であり、私共の主です。それではこちらへ」


シルキーはどんどん先へ進んでいくので、マルガレータもとりあえず後をついていく。

彼女が奥へ進んでいく度に、窓が少なくなって行く。

それにつれて廊下は暗くなっていき、ついに壁から窓が無くなると、窓の代わりに壁にかけられたランプの灯りが廊下を照らしていた。まるでこの通りだけ夜のようだ。

窓のあるエリアは清潔さを感じさせたが、ここは薄ら寒く冷やかな印象を受ける。


(…地下牢みたい)


あの窓のあるエリアと同じ作りのはずなのに、受ける印象はまるで違う。

ここの「主」に対する不安を膨れ上がらせていると、ずっと歩き続けていたシルキーが足を止めた。

彼女の目の前には、重厚な扉がある。シルキーは扉の前にもう一歩歩み寄ると、数回ノックをした。


「主、お嬢様をお連れ致しました」

「…っ」


やはり、ここが主の部屋なのだ。背筋が強ばる。

しかしシルキーのノックに対する返事がない。もしかしていないのだろうか。

この扉の先からは、驚く程に何の気配もない。だが、


―――――コン、コン。


この先にある部屋の奥から、ノック音が確かに聞こえた。硬質の木を指の骨で叩くような音だ。

『入れ』と。そんな意に聞こえた気がした。

シルキーは静かに扉を開けた。金具が軋む音を立ててゆっくりとそれは開かれる。

薄く闇が立ち込めた室内は殆どの家具が白と黒で統一されており、金属類はほとんど見当たらない。執務用デスクにはファイリングされた書類や書物が積まれ、開きっぱなしの書物は執務の名残を感じさせた。

その机の向こう、黒い革張りの椅子に腰掛ける影。明確な輪郭もなく不定形に戯れにヒトのカタチを形成しては端々を散らせているそれが、ゆったりと腰を上げた。

陽炎のように揺らめく黒い輪郭の中でただ一つだけ、その部屋の中で唯一の色彩である深紅の双眸がはっきりと蛇のようにこちらを見遣っていた。

気紛れにカタチを形成しては消えて行くはずのその脚が一歩歩む毎にコツ、コツ、と床を叩く。その音に引きずられるようにぼやけた輪廓が上等な革靴に飾られた脚を形成していく。

脚、腕、指、髪の一筋までそれはやがてはっきりと形成されて行き、あの冒涜的な姿とは一転し現れたのはスラリと背の高い男だった。


「…、……」


暗闇の中でも影すら落とさない、血が通っている事を感じさせない冴え冴えとした白い肌。

上質なウールのダークスーツの上からでもわかる均整の取れた肉体は、服を着た彫刻作品にも見える。こちらの目を刺し貫くような毒々しい赫の眼光がなければ、人外じみた美しさを持つ人形だとすら思っただろう。寧ろこれが人形なら、多くの人間が財産を擲つに違いない。

女神のようだなどといった清らかな美しさではなく、これは人を狂わせ堕落させる部類の美である。これが実際生きて動いているのだから質が悪い。

更にこうして向かい合いようやく理解したが、此の男と向かい合った際マルガレータはこの男の胸の下ほどしか身長がない。マルガレータの身長を顧みて考えればこの男の身長は190以上あると見ていいだろう。

地面すれすれまで良く伸びた豊かな黒髪は、ぼさぼさという表現は不適切だと思える程度にはある程度整えられている。そういう癖のある髪質なんだろう。マルガレータの髪は青みの強い黒髪だが、此の男の髪は一切の色味がない本当の漆黒だ。

総評、あらゆる部位に於いて稀代の芸術家が持てる手を尽くしあらゆる最高級品で創り上げた至高の芸術作品の如き外観の男だった。全く同じ外観の人形があるならさぞ大金持ち共が経済をブン回したに違いない。


「…顔色が昨夜よりいい。よく眠れたようで結構だ」


非常に耳触りの良い低温のベルベットボイスに眩暈すら覚えた。そしてその声が、昨夜の妙に途切れた記憶を徐々に暴いて来る。

怪物の群れ。赤。腐敗。蝙蝠の声。夜。黒。赤、金、赤、赤赤赤赤赤赤――――

決して鮮明とは言えないが、その断片が物語る壮絶な光景に今更ながら腹の底を掬い取られるような心地になる。

長い前髪から覗く蛇のような目が弧を描く。

その様がどんなに恐ろしくも、目の前の男はあの怪物の群れからマルガレータの命を救った恩人だった。出来る事は少ないが、礼を尽くさなければいけないのは当然だろう。


「…昨夜は命を助けて頂いてありがとうございます。そればかりか、こんな厚遇をして頂いて」

「そう固くなるな、ただアレらからお前を保護しただけだ。謝礼をたかる気もない」

「ですが、」


目線だけでもう一度、『固くなるな』と制される。

鋭い眼光に気圧されて、渋々肩の力を抜いた。

形の良い唇が笑みを作った。不敵ではあるが、どこか幼さを感じさせる不思議な笑みに得体のしれないものを感じる。


「それにな、『良いもの』を見せてもらったのはこちらの方だ。私も久しぶりに気分がいい。これからこれがずっと見れるのだから長く生きてみるものだな」


…………ん?今スルーしかけそうになったが、引っかかるワードを聞いた気がした。

マルガレータの怪訝そうな表情に何を考えているかすぐわかったのだろう。

男はおや、と意外そうな声を上げた。声だけで顔は笑っているが。


「シルキーが言っていただろう?今日からお前の世話係だと」

「ええ。私は確かに」


あの時だ。あの時、シルキーは『只今よりお世話係を務める』と言っていた。

だがそんな意味で言っていたと誰が想像できる?

いつの間にかマルガレータの後ろに控えていたシルキーが、想像を絶する言葉を告げた。


「本日から、お嬢様はこのお屋敷で生活為されます。改めまして、私は本日よりお嬢様のお世話係を務めさせていただきますシルキーと申します」


……………は?


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