怪物のバラード

桃酢

00.偶像を形作るものは皆無力である

『偶像を形づくる者はみな無力である。彼らが慕うものも役に立たない。』―――イザヤ書44:9





神様なんて、いない。

私はそう信じて止まなかった。

結局神様なんて、苦しくて苦しくて逃げ道もない人達がせめてどうしようもない現実から更に逃げる為の『はけ口』でしかないのだと、幼いながら自覚したのは確か、私が齢10歳の時だった。

結局人間なんて弱い生き物なんだと自覚したのはそれから数週間も経たない内。


私が、生物学上の『両親』にあたる人間達に捨てられた日。

私は確かに、神の非存在を自覚した。



0.



そうして、自分の中の『神』が死んだのは早くも2年前の事だ。

最早形骸化した祈りを捧げて、朝食のパンを食べる。全く内容のないこのルーティンが、マルガレータの一日の始まりだ。

両親は既に仕事に出かけていて、広いテーブルには兄と姉とマルガレータだけだ。

兄も姉も、お互いだけで話す。マルガレータとは目を合わせようとはしなかった。

さっさと食事を終えて、食べ終わった後の食器をキッチンに持っていき、さっさと洗ってキッチンを出た。当然あちらもマルガレータを無視するので、マルガレータも何事も無かったかのように振舞う。

―――――マルガレータを見て見ぬフリしているのはあちらの方なのに、マルガレータの振る舞いに傷ついたような表情をするのもあちらである事が、ずっと不可解ではあるけれど。

それも毎日の事なので然して気にならない。




マルガレータの家は両親、兄、姉、そしてマルガレータの5人で成り立っている。

父は大手会社の社長、母は医者、兄と姉は超名門の州立大学に通う、俗にいうエリート一家だ。そんな一家の末娘として生まれたマルガレータも、両親や兄達のようにエリートの道を行くのだろうと―――少なくとも両親は、信じて疑わなかったのだ。

だが、悲しきかな。マルガレータには才が無かったのだ。

生まれてから両親に英才教育を叩き込まれ、同年代の子供より遥かに頭は良かったものの、両親が望む「天才」ではなかったのだ。

そんなマルガレータに、我慢強く教育を施していた両親は、一言。


「やっぱりアンタは脳無しね」


そう言い放った両親の目は、とても実の娘を見るような目ではなかった。

マルガレータはその日、自分がいったい両親からどう見られていたのかを知った。最初からこの両親は、子供達を愛していたのではなく―――『エリートである子供』を愛していたのだ。いや、寧ろそれが愛であるのかさえ疑わしい。

子供がエリートになれば、エリートである自分達の株も上がる。エリートしか要らない両親にとって、この家にとって、マルガレータは最早「邪魔者」なのだ。


もう両親はマルガレータを見ない。

娘に裏切られたと理不尽に嘆く母親からの理不尽な平手が飛んで来ようと、もうどうでもよくなった。

一応「妹」として見ていたのであろう兄と姉は、マルガレータがどんな仕打ちを受けようとこの家に置いて絶対の存在である両親には逆らえず、成す術もなく見て見ぬふりをした。

この家はマルガレータを捨てたのだ。


憑りつかれたように勉強をしていた反動なのか、マルガレータは日々を無気力に過ごすようになった。

勉強はこなすものの、嘗てそこにあった心はない。行き場を失くした欲は失せ、死んだように生きた。


正しく努力し研鑽を積んだのにも拘らず打ち捨てられた彼女が、同時に信仰に無関心になるのも道理であった。

『死んだ後の保証しかない』キリスト教の教えに縋るには、マルガレータに課された現実というのは途方もなかった。

絶望すら出来ないまま、マルガレータは今日までを過ごした。




とまあ、ここまでがマルガレータの来歴だ。

あれから2年経った今親とも兄姉ともほとんど会話を交わさない。

平日は学校に行って休日は朝早く出掛けて遅くまで帰らない。

無関心であろうと、やはり家の中では無意識に構えてしまう。家というのはマルガレータにとっての苦痛であり、あまり居たくないというのが本音だ。

今日は休日。この日とて一日中図書館に籠り、閉館時間ギリギリまで籠城した。

郊外であるこの付近は公共施設の営業終了時間が少し早く、この町の図書館は22時に閉館する。

点在する街灯と家々の明かりのみで、数メートル先も分からない夜道を一人帰宅する。

これが兄や姉なら真っ先に両親が使用人の迎えを寄越すが、マルガレータは放置されている。帰りが遅かろうと誰も気にしない。

そこまで考えていつも思う事がある。

どうせ、このまま帰らなくても誰も気にしないのではないだろうかと。

誰も気づかないのではないだろうか。寧ろいなくなった方が皆清々するのではないか。

そうは思っても、それを実行する勇気も気力もなかった。結局そのまま帰宅する、いつもと同じ日常。明日もどうせ同じ一日。

同じ―――――


《―――――――》

「…?」


前方。街灯のぼやけた明かりが届かない夜の黒に閉ざされた道の先から奇妙な音がした気がしたのだ。

反射的に足を止めて、足音を立てないようにする。

足音が聞こえなくなった今、聞こえるのは家々から聞こえる団欒の声と自分の呼吸音のみ、であるはずなのだが。


《―――――――》


自分から物音を絶ち耳を澄ませていた分よりはっきりと音が聞こえ、それが「声」である事に気づいた。

呻き声か唸り声か判別がつかないが、普通の状態の人間がまず発する声出ない事は確かだ。闇の先にいるのがまずまともな状態の誰かではないという可能性がマルガレータの帰宅の足を縫い留めた。

(…いや、そんなわけないじゃない…考えすぎだよね…)

マルガレータは嫌な予想へと勝手に向かう思考を振り払おうとした。

元々マルガレータは少々神経質な所がある。臆病と言っていいのかもしれない。

部屋の中で触れてもないはずのビニール袋の音が聞こえたり、不安定に積み上げた本がひとりでに崩れる音に過剰に反応する質だ。

今回も変な心配性だろう、さっさと通り抜けてしまおうと一歩踏み出そうとした矢先、先に動いたのは向こう側だった。


《―――――――》

《―――――――》

(…?いま、二つ聞こえたような―――)


闇の向こうで誰かが動いた。その声が一つではなく複数であると理解したのとほぼ同時に、「それ」は真暗闇からずるりと街灯の光の下に姿を現した。


「…っ!?」


用心深く観察していたが故に、真っ先に「それ」の「異常」を見てしまう。

夏場だからだろう「それ」が来ていた半袖のポロシャツから晒された腕の色は腐り落ちた柿のように熟れた茶褐色。乾ききった皮膚とは裏腹にその下の異様に水気を含み腐りきっている肉は、今にもジュクジュクと蛆の湧きそうな気配すら漂わせる。

見るからに生きた人間ではない事など、平静を失っているマルガレータにも理解できた。口の中に広がり始める生唾が、コレが夢か現実化を教えてくれた。

窪んだ眼窩の中、水分が少ない干からびた目玉がぎょろりと確かにマルガレータを捉えているのを見てしまった。

そして、予想よりずっと早い動きをするそれらが、「群れ」を成して夜の闇からひり出して来るのを――――


人間は本気で恐怖を覚えると喉が引き攣って声はおろかまともな呼吸の仕方も忘れる。

マルガレータは弾かれたように、それらと反対方向へと全力で駆けだした。

勉強ばかりで碌に運動もしてこなかった身体は極度の緊張で強張っている。足も頭も満足に動きもしないのに本能ばかりが「逃げろ」と身体を駆り立てる。

振り返る。奴らはまだいる、そしてマルガレータを群れで追ってきていた。

既に息が上がって肋骨と肺が悲鳴を上げている。それでも奴らは追ってきていた。

もう諦めただろう、流石に、今度こそと何度も願うように振り返っても、彼らは足を止めずマルガレータを追って来る。

疲れから足が動かなくなってくる。こっちが減速し始めているのか、あちらの動きが早くなってきているのかは分からないがどんどん間が縮んできていた。

どんな手を使ってでも逃げなければ、駄目だ、アレに捕まっては――――縺れそうになる足を無我夢中で動かしていた所為か周りが見えなかった。ドン、と勢いよくマルガレータにとっては突如現れたかのように見えた壁に肩をぶつけた。


「いってえ!どこ見てんだぁ!」

「ぁ…っ!」


マルガレータが激突してしまったのは通行人だったようだ。

駄目だ、足を止めたらすぐに追いつかれる、と軽く会釈だけして直ぐに逃亡を図ろうとするマルガレータの腕をぶつかられた通行人が強く掴んだ。


「っごめんなさ、はなして……!」

「あぁ?お嬢ちゃん何でこんな時間に外にいるんだぁ~?」

(っ、酒臭い…!)


最悪な事に酔っ払いにぶつかってしまい、尚且つ絡まれてしまった。

彼には悪いが、何とか腕を振り解いて逃げようとするも同年代の子供と比べても非力の部類に入るマルガレータの抵抗など成人男性にとってはほぼ意味を為さなかった。

だがこちらは一刻を争う緊急事態だ。多少手荒になっても仕方ないと必死に暴れるマルガレータに、最初はふざけていた酔っ払いも苛立ちが募ったようで。


「暴れんなよ!」

「やだ、放して!嫌、ぁ…!」

「チッなんだぁ!?暴れんじゃねえっつってんだろうが!」

「い゛…!」


暴れるマルガレータにキレたのか酔っ払いは乱暴にマルガレータを突き飛ばした。

完全に目の据わった酔っ払いが、突き飛ばされて倒れ込んだマルガレータの方へ大股で歩いて来る。

その最中に。


《―――――――!》

「…!」

「あぁ?んだぁ…?」


耳障りな呻き声が耳に届く。

しまった、と思うより先に、酔っ払いを干からびた手の群れが覆い尽した。


「っなんだ、おい、やめ、―――」


―――――そこからの光景は、筆舌に尽くしがたい。

干からびた腕が、腐った水で膨れ上がった腕が、黄ばんだ歯が、彼の腕を首を足を捻り齧り毟り、次々と彼からこぼれる悲鳴は獣と相違なかった。

ただ、息をするのも忘れたまま呆然と、先程まで酔っ払っていた男が弄ばれていくのを見ていた。

漠然と頭の中で「逃げないと」と、それだけが内照してほぼ反射的に後退る。

自分のせいで、無関係の人を死なせてしまったという罪悪より生への執着が勝った。

化け物達に食い散らかされもう動かなくなっていた男が、あの化け物達と同じような呻き声を上げて伏せていた頭を上げた。その姿はついさっきまで生きていた姿の面影すらなく、全くそれらと同じもので。

濁った眼玉が、マルガレータを真っ直ぐに見た。


「あぁ、あ、……!」


それらが一斉に、今度こそマルガレータだけに狙いを絞って腕を伸ばしてくる。マルガレータは必死に後退って、何度も足を縺れさせながら逃げ惑った。

頭の中は一切の余裕が無いはずなのに、駆け巡るのは今日までのマルガレータが送ってきた日々だった。走馬灯だろうかと、これまた余裕が無いはずの頭の隅で客観的に思う。

冷たい視線、心ない言葉、誰もマルガレータを愛そうとしなかった人達、見て見ぬ振りをした人達、捨てた人達。そんな人達に振り回されて、今捕まればここで人間じゃないモノに変えられて死ぬ?もういっそ笑い飛ばしてやりたい話だ。

生まれてたった12年。何とも最悪な人生だ。

ここで死んだって誰も悲しまない。誰も気にしない。みっともなく生にしがみついた所で、マルガレータの未来に希望なんてない。

希望なんて、ない、のに――――


(しにたく、ない)


誰も信じられない世界で、それでもここでは死にたくないと叫ぶ。

こんな世界で生きたいとすら思わなかった。こんな最悪の12年間を思い出して、楽しい時なんて少しもなかった。

死んだら楽になれると信じてさえいた。

だが、彼らの仲間にされるくらいなら、殺されて人間じゃない何かに作り替えられてしまうくらいなら。


「っ、ぅ、ぁああああっ!!」

《―――!》


奴ら目掛けて全力で鞄を振り回す。ぶち当てた瞬間鞄越しに鈍く嫌な音がした。

もう体力も限界で走れない。走る体力もなければいずれ追いつかれる。

だったら、せめて奴らを消耗させようと思った。

焦りと恐怖で自分が相当混乱しているのも自覚しているし、鞄なんかでこんな化け物達を撃退できるはずもないという事も。だが、何もせずに捕まるよりずっとずっとマシだ。

ギリギリまで抵抗してやる。化け物なんかになりたくない。

その一心で鞄をがむしゃらに振り回すが、やはり想像通り化け物達は然程ダメージも負っていない様子だった。体力だけが消耗されていき、もう鞄を振り回す力すらもなくなっていって。

それを見抜いたかのように、一斉に化け物達の腕が叢のようにこちらに伸びてくるのを目にして、(ああ、もう今度こそ、本当に無理だ)と。

逃げられるだけ逃げた。抵抗できるだけ抵抗した。もう成す術はないし、逃げるだけの力なんて残ってない。

ここで、終わるのか。

ゆっくりと、化け物達の手が伸びてくるさまがスローモーションのように見えて。奴らの背負う月が綺麗だと、運命から思考を逸らすような場違いな事を思う。

その時だった。


―――キチチ、キチチ――――


まるで幼子が嘲笑うような甲高い音が聞こえる。

マルガレータの耳に聞き馴染みのあるそれは、この付近にも生息する蝙蝠の鳴き声だった。

その鳴き声が最初は一つ。それらが徐々に数を増していく。10や20といった数ではない。文字通り、鳴き声が降り注いでくる。

やがて怪物達とマルガレータの間を蝙蝠の群れが割って入って来て、漸く状況の異常さを自覚した。


月が消えている。

無数の蝙蝠の群れが、正しく空を覆い尽していたのだ。一塊になって渦を巻く蝙蝠の群れは一つの生命体のように統率の取れた動きでうねり、化け物達の群れに突き立つが如く落下した。

突き立ったかと思えば蝙蝠達は化け物の群れの周りを散開して渦を巻き、閉じ込めていく。密度を増していくそれはまるで巨大な黒い檻だ。

黒い檻は一分も経たぬうちに内へ内へと収束していき、蝙蝠達の身体は編み上げるようにして――――ひとつのヒトの形を、形成した。


「―――――」


月が解放される。そのぼやけた白金の光の下、「それ」はただ一人だけ佇んでいた。

照らされていても尚、その輪郭がはっきりしない程に闇によく溶けた長い髪。

夜を織り込んだようなぬばたまの肢体と浮かび上がる影すら差さぬ冴え冴えとした白い肌。

白黒の絵画を思わせる風貌の中でただ一つ、煌々と赫く輝く双眸があまりに異質に見えた。まるで目の中で、陽が燃えているようだった。血のような赤い炎と黄金のような金の炎が混ざり合う事なく踊り、凍てついた針のように鋭い輝きを放っている。

雪光のようにぼう、と浮かび上がるほどの氷肌、その形のいい唇へべっとりとルージュのように塗り付いた鮮赫。

男は、一人の化け物の頭を鷲掴んでおり、化け物の首には抉れるような噛み傷が見て取れた。そんな化け物を何の感慨もない表情で地面に叩き落とすと、化け物の身体が音も立てずに静かに灰になって行った。

あれだけいた化け物の群れは嘘のように消え失せていた。


「――――御機嫌よう。お嬢さん」


男が紡いだただの『挨拶』に、マルガレータの身体が徐々に弛緩していく。

身体が言う事を聞かない。金縛りとはまた違う、物理的に動けないのではなく身体から一切の緊張が抜けていくのだ。

彼が笑む。覗いた歯は針のように鋭く尖っていた。


「このような時間に、そんな『香り』を振り撒いて無防備な姿を晒すなど、そちらから「食ってくれ」と言っているのと同義だぞ?」

「――、は、……」


男が近づいて、ぬばたまで編み上げた手を、指をマルガレータの頬に掛けた。

此の世のものではない――直視すれば気でも触れてしまいそうだとさえ思える美貌から発せられる、腹の底を蕩かす艶麗な声音がマルガレータの正気を奪っていく。

頭の中が痺れて、ブラックアウトに似た感覚が突然襲った。

力の入らなくなった手から鞄が滑り落ちて、地面に落ちる音がした気がした。


「美しい御嬢さん、今は実を委ねると良い」


力の入らなくなった身体が男に抱き起こされたのを自覚したのが最後だった。

男の、いっそ悍ましささえ感じさせる奇麗な笑みが見えて。

マルガレータの意識は、眠りとはまた違う深い場所へと叩き落されてしまった。


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