アルカロイド
ゆきさめ
アルカロイド
青い湖畔、緑の木々に囲まれたそこは、まさしく静寂が形になったような場所だった。
大樹の、その大きく広げた腕、それで切り取ったような複雑な形の空が天上に張り付いている。まるで無名の画家が描いた、まったく無名の絵画であるようだった。
鮮やか、というにはあまりにも静かなその緑に包まれて、少女がここには住んでいた。ここには基本、彼女しかいない。ここは人里離れた森の最奥、少女一人きりでは心細いだろう。現に彼女はたった一人、憂いでいっぱいにした瞳をしているのだ。
「ああ、ああ。此方へ、おいでなすって」
なすってェ、と甘える様に繰り返される音、吐き出すその唇。
そろりと伸ばされた腕は、灰桜色だった。優美に湾曲した腕をいっぱいに伸ばして、緩慢な動きで彼女は空を仰ぐ。
「ねーえ。此方へ、此処へ、おいでなすってェ」
ふわりと広がって蘭の花に酷似するその袖は、彼女そのものだった。大変きめ細かくある美しい袖口、そんな彼女の着物に価値などつけられるはずもない。今は亡き母と父から譲り受けた、それはもう彼女の自慢の着物だった。
美しい花となった彼女は、今日もまた待ち続ける。
彼女のように美しい彼を、今まだ見ぬ彼のことを。
「早く、早くゥ。アタクシ待っておりまするの、どちらへ、ええ、一体どちらへ行ってしまわれましたの、ああ、あァ、早くおいでなすって」
自分には届かない、高い所にいる彼の姿。
それは母からよく聞いていた。それは母からよく言い聞かされて。
彼は女のような容姿でもって、彼女を魅了するのだ。黒と褐色の地に、水色の斑点を残す振袖姿にも似たその容姿でもって。彼女を、幾万の星の数の様な女たちを魅了するのだ。
ふわりふわりと舞う彼は、もうすっかり成人しているに違いない。
それに比べて彼女はまだ幼かった。彼には到底及ばない。
小さな腕を伸ばして、こちらへ、こちらへと彼女は懸命に誘いかける。
それは確かに懸命であり、詰まるところ、まさしく一生懸命というものであったろう。
「アタクシ、ずっとずうっと、貴方を待っておりまするの。ねェ、今日はここいらまで、いらしてすらも、くださらないの?」
はらはらと涙を流せば、彼女はゆるゆるとその両腕で目元を押さえる。慎重だった。
もうそろそろ日が一番高くなる頃。
大体この頃になると彼は彼女の上をくるりんと旋回して、その斑点の色のような空に舞い上がっていく。それだというのに、一体今日はどうしたことだろうか。
彼には敏感な彼女は、しかし彼の気配を感じ取ることすら出来なかった。
振袖を広げたような姿の彼は儚げなものだから、もう他の所で落ち着いてしまったのかも知れない。あの細い黒の模様と半透明の浅葱色の姿は、当然彼女以外をも魅了するのだろう。小柄でいながら大きな両の袖、すらりとした痩躯。何より青年の証といえよう漆黒の斑点などといえば、それはもう美しいとしかいえない。
彼の姿を見て、誰がその美しさに溜め息を吐かないというのだろうか。
彼女は心配に駆られる。
彼女がいるのはここらで一番奥まった所。他にいい所はたくさんあるだろう。彼はどこか他の所へいってしまったのかもしれない。そこにはここよりも美しい湖があるのかもしれない。鮮やかな緑があるのかもしれない。香り高い花たちが咲き乱れているのかもしれない。
そしてなにより、ここにいる自分よりももっと、もっと。
「あァ、なんてこと!」
細い両手で口元を覆う。
彼女よりも美しい仲間は多くいるだろう。
きっと彼はここに飽いたのだ。そう思えば胸が張り裂ける想いだった。
それもそのはず。彼女は遠い彼に叶わぬ恋にも似た感情を抱いている。高い空を舞い踊る彼に、その手は届かない。一度として彼女の元に降り立ったことはなかった。
それはつまり、己に魅力というものが一切ないということなのだ。
「アタクシ、アタクシ、どうしてこんな」
ぽってりとした灰桜の腕を静かに見下ろす。広がった蘭の花のような姿は幼い故に丸かった。幼少期ゆえの丸みを帯びた身体。
それをそっと抱え込んで、緑の先にしゃがみ込む。身を縮こまらせて、彼女は俯いた。薄灰がかった桜色はふわりと広がり、まるでそう、小さな蘭の花だった。
さて。
浅葱の彼は彼女から離れてどこへ行ったかといえば、ただ気紛れなだけらしい。
振袖のような褐色と黒とをひらりひらりと揺らめかせては、通り過ぎる誰をもハッとさせる彼は、普段通りだった。たまたま綺麗な花を手に取り、苦くも甘い香りと蜜とを楽しんでいた時間が長かったのかもしれない。それとも今日は一段と日差しが強く、木陰で身体を休めていたからかもしれない。
それは彼にしか分からないことだが、ともあれ優美な姿の彼は相変わらずだった。
彼にとって蘭の花の彼女はなんでもない、下に見える脅威か、あるいはただ風景の一つかであったのかもしれない。彼女はその事を分かっているのかいないのか。それは彼の知るところではない。
そうしてふわりふわりと踊るように揺れる彼は、自らの同胞を見つけた。
真っ白に包まれて幸せそうな目をした同胞は、浅葱の彼を見つけると「おい」と声をかけた。ぞんざいなそれに彼はゆるりととまる。
「なんだね、どうしたね、それにとまるとは随分と滑稽じゃあないか」
「や、滑稽とは失礼な奴め。おまえには分からないだろう、この暖かな真綿が!」
「ああそうさね、分かりたくもないさ」
「なぁに今に分かる。ああ、おれはもう長くないから、その分いい旧友としておまえの幸せを祈ってやろうじゃないか」
ふうふうと息を吐きながら笑った同胞は彼を哀れむように一瞥、それから全身を震わせて大いに笑ったらしい。
一方彼は懐かしい同胞のある種滑稽な姿に溜め息を吐いて、こちらもまた哀れむように一瞥をくれてやるのだった。
「まぁ、あなたは馬鹿だったから知らないだろうね」
「なんだその言い方は。確かにおれは馬鹿だったが、おまえは一番に賢い奴じゃないか。そんな奴と比べてもらっては困るぜ」
「違う違うな、わたしが賢いんじゃない。知らないのが多すぎるのさ」
「何を謙遜することがあるか。謙遜は時として傲慢であると知らないのか」
「それはすまないことをしたな、しかし事実なのだ。じゃあこうしよう、あなたは一番の馬鹿だから、何も知らないだろう」
「そうだそうだ、素直にそれを言えばいい」
彼の哀れみの視線すら、同胞は気にしないらしかった。ふるふると指先を震わせて、その喉かあるいは身体かを弓なりにさせて笑うのだ。
彼はついと空を見上げ、風を見つける。
「哀れな同胞よ、またの機会はないだろうがそうさね、またいつか」
「ああ、どこかでまた会おうな」
よく笑う同胞を置いて、彼はひらりと空へ進む。
後ろで甘ったれた同胞の声がするが、彼には関係なかった。
「なぁ、聞いてくれよ、おれの長い友人がおれを馬鹿だと言いやがるんだ」
「あんたはお馬鹿でしょうに」
「なんだぁ、おまえまでおれを馬鹿にするのか、まったくどいつもこいつも」
「はいはい、黙った黙った。あんたみたいなのは嫌いじゃないけどね、風流じゃない」
遠くなる二つの声。
彼はただ首を振った。
「ところでおまえは、どこで靴を見つけてくるんだ? 八つも、二足を四つ見つけてくるのか?」
「あたしは靴なんて履かないよ」
「そりゃあそうか、おれも履かないからな」
「あんたの足はどこだい。言ってご覧よ」
「ここらだな。いや、こっからやもしれん。まぁなんだ、足から食って欲しいもんだ」
やはり彼の同胞は馬鹿だった。
日常茶飯事のこの繰り返しに、彼もまた慣れていた。彼は自分の親の顔を知らないが、きっとこうやっていなくなったに違いない。よく知っていた、彼は賢かった。
「まったく、足なんて食えやしないよ」
女の声に、一瞬彼は身を強張らせる。
それからしばらくすれば、当然のようにしゃりしゃりという音がした。
彼はただ目を瞑って、やりすごした。そうすることしかできなかったし、それがただしかったのだ。
日もずいぶん傾いた頃、彼はいつもの順路を忘れる。
いつも散歩をする小さな湖の畔へ足を運ぶのを忘れたのだ。
あそこには小さな蘭の花がたった一つだけ、ぽつねんと咲いている。
「わたしは今日何かを忘れているな」
呟くも、誰も答えない。
それもそうだ、彼のそれは呟きだ。誰も気にとめない。その程度のことだった。
彼は文字通り翅休めのためにふらふらと端に寄った。今日ももう終わる。
* *
「あァ、あの方は遂にはいらっしゃらなかった! あのお姿はもう見えないッ!」
こんなアタクシじゃあ駄目なのかしらん、と彼女はその可憐な唇でほろりと零した。
一日ジッとしていたものだから、強張った筋肉をほぐすようにゆるゆると動く彼女だが、それにしたって頭の中は彼のことで一杯だった。
浅葱色の美しい彼はもう来ないのだろうか。そこで彼が絶えていればいいのだが、もしそうでないのならば。何処か、別の所に落ち着いてしまったというならば、ああ口惜しや、と彼女は涙ながらに己の腕を軽く噛んだ。
幼いこの少女にとって、見上げた空に彼がいなくてはいけなかったのだ。
幼心にそれを恋と理解した彼女は、その通り恋焦がれる思いだった。
日中の日差しを直に受けて、じりじりと頬を焼く光に目を細める。ぴくりとも動かず、彼女は今日もまた待っているらしい。
「此方、此方へ、おいでなすって、ェ」
灰桜のふっくらとした腕を伸ばして、湾曲した『それ』を上手く隠すように。
自慢の姿を緑のそこに置いて、遠い空を仰いだ。
日差しはまだまだ昇りきらない。
「ねェ、ねーェ。早く此方へ」
囁く言葉は何も揺らさない。
だからどこにも届かない。
ところで彼女が生まれてかれこれ幾月かが巡ったのだが、薄情にもその時の流れというのは彼女を少女から女にするのだった。
それはつまり、その少女らしさを主張するゆったりした身体の丸みが失せる事を意味し、彼女自身は知らないが、それは彼女の美しさを損ねつつも別方向に高めるのだった。
そうなってしまえば、それこそ彼と目前にて遭遇、あるいは逢瀬をするのは難しい。
最近の彼女は背が伸びた。
肉が落ちたのか若干細くもなった。
彼女はまだ自身の変化に気付かない。心が少女のままだから、ずっとそうなのだ。少女の恋は少女のそれであるから、彼女はずっと少女のままなのだ。
だからすいっと腕を伸ばして彼を待つ。その姿がたとえ幼子から離れても。
叶わない恋と、それは彼女も知っていた。
「……あァ、でも出来るなら」
あの方を間近に感じて、この腕でぎうっとその存在を閉じ込めてみたいものだと。
ぼんやり空を眺めながらそう思う。
そうこうしているうちに、彼女は太陽が真上にある事に気付いた。じりじりと焼きつけるような陽射しに、もはや柔らかさはない。
こんな暑さに負けて落ちてこないかしらん、と目を細めて見上げた青い空。
そこにふらふらと楽しげに広い袖を揺らす彼の姿を認めて、すうっと大きく息を吸った。
待ちに待った彼の姿だ!
「此方、此方へ、もっともっと、アタクシの傍に来て、その綺麗なお姿を、もっと」
声を張り上げる少女の囁き声に、彼は気付かない。
いつものように両手を大きく広げて、彼女はただ彼が落ちてくるのを待った。降りてきてもらえないのならば、もう撃ち落されるか何かされねばならないのだ。視線で落ちて木やしないかとばかりに、ジッとみじろぎせずに彼を見上げる。
それは憧憬と、そして渇望の視線だった。
「おいでなすってェ!」
囁き声の叫び声。彼女の枯れた声は、しゅうしゅうという音にも似ている。
彼はいつものように彼女よりもずっと高い所を進み、眼下の彼女をちらりと見た程度で畔の方へ向かっていってしまった。
「やや、悲しい、悲しいィ」
するりと肩を下ろした彼女。
今日もまた彼は遠かった。
早くしなければならない、彼に固執するがゆえに限界を設けざるをえないのだ。そして彼女の成長こそ、彼女の想いを妨げるのだ。
「アタクシのお傍に……あァ、」
呼ぶ名前も、彼女は知らなかった。
くらりと感じるそれを、行ってしまった彼と強い日差しのせいにして彼女は静々と目を閉ざした。強い日差しと空腹とに、彼女はゆるゆると薄灰桜の袖を揺らすものの、彼女が待ち望むのは彼だけなのだ。
一方彼女に気付く事もなかった彼は、小さな彼女の声を葉の擦れる音と見当をつけて青い湖畔を覗きこみながら、悠々と散歩を続けていた。彼の日課だった。
昨日の同胞はきっともういない。
同胞が甘えていたあの女の居城を避けるように、彼ははたはたと袖を揺らしてゆく。浅葱色の透けたその色が、空に尾を引くようだった。
彼の日課といえばこの湖畔を過ぎて、一番鮮やかな花を手に取り戯れることだが、今日ばかりはなぜだか気が進まなかった。
それでも日課であったからか、それとも腹が減ったのか、彼はここらに咲く一番の花へ足を向けた。
「あらあら、どちら様かと思えば」
先客があった。
美しい花に囲まれた美しい姿。彼のそれと酷似しているが、その同胞には濃い褐色は見られなかった。女であったらしい。
ひらりと手を振られ、彼はまたとまった。
つい先日もこうだったか、とひっそり苦笑を漏らしたのに同胞は気付かなかった。
「今日も美しい、と社交の言葉もないの?」
「あぁ、今日もお美しい。ええ、一段と」
「そう、そうでしょう?」
普段のようなやり取りに、彼は息を吐く。
気が進まなかったのだ。
「貴方もお綺麗になられて!」
「それはご丁寧に、ありがとう」
「恋するものは綺麗になるって言うじゃない? 言うわよね。言うのだけど、そう、貴方もお美しいということは恋でも?」
「いいえわたしは」
「そう? 私は恋をしたのよ、綺麗でしょう。だから綺麗になったの、ねぇ」
「それは結構なことで」
正直この同胞の話はどうでもよかった。
しかし彼は賢かったから、きちんと話を受け流しつつも返答はしっかりしたものだった。
同胞も満足したのか、うっとりした表情でそっと袖を揺らして見せた。この同胞なりの微笑かもしれない。
「八つ足の彼は元気かしら……」
あぁまたか。やはりくるべきでなかった、と彼は小さく後悔をした。どうしてこうも重なるのか。
そういった時期なのか、偶然か。
その点はどうでもよかったが、面倒ではあった。立ち合う瞬間でなくとも、行く末など賢い彼でなくとも分かっただろう。
「凄いのよ、銀色の城を私に見せてこう言うの。『これが金色に変わる頃、もっと近くへ降り立つといい』って! だから私、今夜の月が一番綺麗な頃に彼の所へ行くの」
「……あぁ」
彼は呻いて返した。
自己陶酔しているような同胞は、気にする様子を微塵も見せずに続ける。
「衣装はこのままでしかないけれど、どうかしら、綺麗? 彼に見合うかしら」
同胞が思い人の隣に立ち幸せそうに笑う姿は一瞬しか思い浮かべることが出来なかったが、それでも彼は曖昧に頷いた。
真実を告げたところで何にもならない。
また袖を揺らした。やはりこの同胞の微笑がこれなのだろう。
「貴方もそんなに綺麗なんだから、早く相手を見つけた方がいいわ。何も気にならなくなるんだから!」
「花の蜜よりもかい?」
「ええ! どんなに素敵な花よりもよ!」
本能に勝るものなどないだろうに。
そう思いながらも、彼はその場を離れる。
「また会うこともないだろうけど、また」
「そうね、どこかでお会いしましょ」
その夜、彼は耳を塞ぐ。
しゃりしゃりと音がするようだった。
いつか己もああなるのか。
毒を食らわば皿まで、ではないが、つまりそうなのだ。毒すら恐れず全てを食らおうとするものが、一体いかほどいるというのだろう。彼は耳を塞ぐ。
同胞の歓喜か、悲嘆かの声がする。
* *
彼女はひどく成長してしまった。
背も伸びて、子供らしさがすっかり抜け切ってしまったのだ。
豊かに膨らんで丸みを帯びていた身体はすらりと細身になり、たっぷりした袖口もまた細くなった。
雨の翌日、若干湾曲した水の粒でその姿を確認した彼女は、それはそれは絶望した。
今まででさえ魅力などなかったというのに、唯一自慢の姿格好がこんなではどうしようもない。その薄い灰桜色の着物は、最早父と母から譲り受けた自慢ではなかった。
「なんて、なんてこと……ッ」
よよ、と鳴き崩れる彼女は、雨粒と同じようにほろほろと涙を流した。
こんな姿ではもう彼など夢の向こうだ。触れることは愚か、その姿を近くで見ることさえも出来ないだろう。
「あァ、もう……もう」
こんな姿ではおいでなすってと呼びかけたところで、自己満足にすらならない。
少女の恋心は儚くも散る定めらしい。
幼い恋であったが、それでもその姿が成長した今、その恋は不恰好で叶わぬものでしかなかった。
そろそろと緑の下から這い出て、彼女はいつもの場所に腰を下ろす。ふわりとした蘭の花にも似た裾だが、やはりすらりとした様子で花にしては違和感があった。
それに気付いてまたしゃくりあげ、しかし彼女は顔を上げて空を仰いだ。肉が落ちて細くなってしまった両手をしっかり伸ばして、彼を待つ。
それは本能か、否か。
「此方へ……おいでなすってェ」
小さな唇で言葉を紡ぐ。
その目に映る幾重にも重なった世界の中、尾を引くような浅葱色と褐色の色と漆黒の色とを探すのだった。
当然それはあの彼の姿であって、そう、彼女はここへきても諦めない。
やはり本能であるかもしれない。本能的に彼を求めているのかもしれない。
なんにしろ、彼女はもう既に恋する少女から脱しなければならないのだ。夢を見る時間も残り僅かもない。
彼女の成長と、彼の寿命と、彼女自身の寿命とがそれを許さない。
「早く、早く早く、早くウ」
焦るのは仕方のないことだった。
世の中はたいてい上手く行かないことの方が多いことを彼女は知っているが、それでも望まずを得なかった。彼の訪れと、その先の満ち足りた幸福とを。
彼女は日が高くなるのを待つ。
いつもの時間を日時計で確認し、空を仰ぎ続ける。普段通り。強い日差しに彼が落ちてくればいいのに!
そうこうしているうちに、ひらりひらりと大きなそれを翻してやってきた彼は、幾分やつれた様子だった。同胞の末を続けて見て、少しは疲れているらしい。当然だろう。
やつれてふらふらとした彼に、彼女は涙を流す。動いてはいけないと思いながら、それでもすっかりやせ細ってぼろぼろの彼に涙するしかなかったのだ。
高いところからの光を受けて、きらりと雨粒を反射するのにも似ている。花弁が雨の翌日に、その綺麗な雨粒を零すのに、酷似していた。
それを見つけて、ほう、と溜め息にも似た吐息を吐き出した彼は、くるくると彼女の前に降りてくる。
「……あァ」
愛しの、かの方が目の前に。
「同胞は、もう皆いなくなったのだろう」
ぼそぼそと呟いて、彼は静かに、静かに、彼女の伸ばされた手のその先に。
「もう、ここらでは、わたしだけだ」
「いいえェ、アタクシがいます」
「恋など本能のまやかしに惑わされて、みな落ちていったのだ」
「まやかしなどではございません、ねェ、ねーエ、此方を向いて、もっと近くに」
「どの道わたしもその本能によって、消化されるのかね、どうだ、美しいお嬢さん」
「アタクシ、ずっと見ておりました」
「それはそれは、気付かなくて失礼したね。あんまりにも美しい姿だったから」
彼女は感涙に咽ぶように、うめき声を上げた。感涙など当然なことであった。彼女の夢見た彼は今、目前にいるのだから。
「お美しいのはそちらでございます、あァ、その澄んだ浅葱と漆黒のお色といったらもう!」
いつか夢見たように、彼女は彼を抱き締める。その細くなってしまった腕で、くしゃりと彼の細い肢体と美しい振袖のようなそれとをまとめて掻き抱く。
「アタクシ、ずっと、ずっと」
彼女の可憐な唇が、彼の褐色の袖口を食む姿は、一つの絵画のようだった。
翅の一片がひらりと舞うのを涙目に追いながら、彼女はただ一心に彼の糸のような腕を引き寄せる。細く長く成長した腕で彼をその胸に閉じ込め、彼女の口唇は静かに彼へと寄せられる。
小さな唇は彼の頭に口付ける。口づけにしては、優しすぎた。
しゃりしゃりと、音がした。
* *
蘭に擬態する花蟷螂の姿がある時消えた。
青い湖面に浅葱の斑模様と、褐色と漆黒との片翅が、つんと浮かぶ様子が見られるようになったは恐らくその頃と同じだっただろう。しばらくは突き立ってられたように、優美な姿で浮かぶ片翅だったが、そのうち吸い込まれるようにくるくると回りながらも湖の底へ姿を消した。
浅葱斑と名を持つ蝶に毒があると、花蟷螂が知っているかどうかは誰も知らない。
またそれと同じく、花蟷螂が浅葱斑の毒を食らったのか、はたまた毒を食らわば皿までとその翅を追って深い蒼の底に落ちたのか、そのようなことは無論誰もが知り得るわけがないのだ。
彼女と彼の姿はもうない。
それは食い食われる本能の末か。
どちらにせよ、そろそろ枯れた冬が来る。
アルカロイド ゆきさめ @nemune6
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