第245話 ナツコ・ハツキ
ぴんと伸ばした左手人差し指の爪先でボタンがくるくると回る。
ツバキ小隊の制服に用いられているボタンだが、制服の上から〈R3〉を装備したせいで1つとれてしまった。
ナツコはそんなボタンへ意識を向けて、微少時間ごとにそのモーメントを正確に求める。
運動方程式は完璧に把握していた。宇宙戦艦艦内なので若干の重力制御が働いているが、制御パラメーターを明らかにしてしまえばどうと言うことも無い。
観測は出来ている。後はどう動かすか。
指先の感覚を頭の中で数値化。
ボタンが回転を続けるために必要なエネルギーを算出し、脳を介して指先の動きを制御。
ボタンは落ちること無く指先で回転を続けている。
ナツコの目論見はここまで上手くいっていた。
身体を動かしているのは脳からの信号だ。左右の脳に1つずつ存在する、極めて処理能力の高い領域を適切に使ってあげれば、身体の細かい動きも精密に制御できる。
そう仮定して練習を繰り返していたのだが、結果は上々というところだった。
最初の内は脳の処理能力に対して大きく劣る身体の動きが足を引っ張ったが、反応が遅れる分を計算に入れてあげたところ解決した。
脳からの制御信号を強くすることでも動作は上手くいくが、そちらはやってから後悔した。無理な速度で身体を動かせば少なからず損傷する。それが指先の小さな動きでも。
ボタンはいつまでも止まることも無く落ちることも無い。
身体の制御にも慣れてきたと、ナツコはより複雑な動作を実験しようと脳の中枢へ意識を向ける。
能力の劣る左脳で環境認識を。より精密で高速な演算が可能な右脳で肉体制御を。
ボタンにかかる全ての力を計算し、左手人差し指だけでなく、両手の感覚を脳の制御下に置く。
回転するボタンを下から小さくつついて打ち上げ、宙に浮いたそれを中指の爪先で受け取る。再び打ち上げて薬指。もう1度打ち上げ小指の爪の腹へ。
そこから手全体を傾けて、ボタンは薬指、中指、人差し指と来て、弾かれて真上へ打ち上がる。
空中で回転するボタンを左手親指の爪先で弾くと、右手親指の爪で受けてそのまま人差し指へ。
慣れてきたので速度を上げていく。
ボタンを弾いて左手人差し指へ。そのまま弾き返して右手中指。更に弾いて左手中指。
左右の手を繰り返しボタンを行き来させ、指の間を通し時には手の甲を滑らせて、縦横無尽に動かす。
練習に夢中になっていたが、聴覚が来客の接近を告げる。
世話係のトメではない。彼女は腰が悪く足音が独特だ。
来客は複数。先頭を歩いているのはナギ。彼女はナツコの世話係では無いが、艦内の雑務全般を請け負っている。時折トメに変わってナツコの世話をしていた。
後続は、数が多い。でもそのうちの1つに特徴的なものを見つけた。一切無駄の無い歩き方。こんな歩き方をするのは、少なくともナツコの知ってる中ではフィーリュシカだけだ。
高く打ち上げたボタンは左手人差し指の爪の上へ。
回転を続けるボタンだが、次第にその回転は遅くなり、爪の上で縦になったまま静止した。
練習の成果は十分だと、ナツコはボタンを手のひらでつかむ。
丁度その瞬間に医務室の扉が叩かれる。
返事をすると扉が開いた。
1人入ってきたナギはナツコへと尋ねる。
「失礼します。
ナツコちゃん、お客様をお連れしたのですけど、会いますか?」
「はい! 是非!」
元気いっぱいの返答を受けてナギが後ろ手で扉を操作し開くと、ツバキ小隊の隊員たちが入ってくる。
イスラにカリラ、トーコ、サネルマ、そして最後尾にフィーリュシカ。
「タマちゃんの話が長くて暇だから遊びに来たぜ」
先頭で入ってきたイスラが声をかけると、ナツコは笑顔でそれを迎えた。
「私も暇で退屈してたんです!
トメさんったら過保護で、病人は休んでないと駄目だって!」
「あ、なんだ病人だったのか。じゃあ遠慮しておくか」
イスラが冗談めいてそう言うと、ナツコは声を上げて主張する。
「病人じゃ無いです! 健康です!
もうすっかり良くなったんです!」
その主張をイスラは笑い飛ばす。
続々と入ってきた隊員たちはナツコのベッドを囲った。
全員が入ると、ナギは「ごゆっくり」と言い残して医務室から出て行く。
「本当に大丈夫ですか?」
心配したサネルマがナツコの額に手を当てる。すっかり熱は引いていたし、ナツコは有り余る元気をアピールした。
「大丈夫そうですね」
「そうなんですよ。でも休んでいないと駄目だって」
「休むのも仕事のうち」
起き上がろうとしたナツコの身体を、トーコが無理矢理横にさせる。
ナツコは「むぅ」と嫌がったが、以前余りに過保護な看護を受けたトーコは容赦しなかった。
じっとしていなければ縛り付けると脅すと、ナツコは大人しくなった。
「フィーと戦ったらしいね。
とんだ無茶だよ」
顔を寄せたトーコが厳しい口調でそう言うと、ナツコも照れて頭をかいた。
「はい。自分でもそう思います」
照れながらも、ナツコは視線をフィーリュシカへと向ける。
フィーリュシカは無表情のまま微動だにしなかった。
更に小言を重ねようとするトーコだったが、その肩が後ろから叩かれる。
「ちょっとトーコさんよろしくて?
以前の約束を覚えていらっしゃいます?」
「何の話?」
カリラから問われて、全く覚えが無かったトーコは問い返す。
約束を忘れられていたカリラは不機嫌そうに返す。
「賭けの話ですわ。
ナツコさんとフィーさん。どちらが勝つか賭けていたでしょう?
それで、ナツコさんとフィーさんは先日実際に戦闘して――
結果はいかがでした?」
カリラがナツコへと問う。
ナツコは照れ笑いして返した。
「えへへ。負けちゃいました」
にやりと笑ってトーコの顔をのぞき込むカリラ。
しかしトーコはそれを認めない。
「模擬戦の話でしょ」
「どちらが勝つかという話でしてよ」
「実戦と模擬戦は別」
いがみ合う2人。そのまま小言を言い合いながら、ベッドから離れて入り口近くで口論を続ける。
カリラは頑固だし、トーコも負けず嫌いだから決着はつきそうもない。
「もう1回模擬戦をやれば良いのさ」
イスラは遠目に言い合う2人を見て意見を述べる。
再戦の機会にはナツコも賛成する。
「はい! 次は負けません!」
熱意の籠もった瞳でフィーリュシカを見るが、そちらは静かに首を横に振る。
「必要無い。勝敗は明らか」
「言うじゃないか。
――だが違いないね」
イスラが笑う。ナツコはそれに対してそんなことないと抗議する。
フィーリュシカは小声で「次は勝てない」と述べたが、その声はナツコの耳にしか届かなかった。聞こえたナツコも、フィーリュシカが冗談を言っているのだと取り合うことも無くイスラとの口げんかを続ける。
「機体をぶっ壊したって聞いたぜ」
「そ、それは……。
――そうですね。壊しちゃいました。
ごめんなさい、サネルマさん。折角〈ヘッダーン5・アサルト〉を手に入れてくれたのに」
謝罪されたサネルマは「気にしないで」と微笑みかける。
「ナツコちゃんが無事なのが一番ですよ。
機体なら替えを用意すれば良いだけですから。
幸い〈ヘッダーン5・アサルト〉は前線配備が進んでいるので、大隊から受領も出来そうですし」
希望的観測にナツコも喜ぶ。
すっかり使い慣れた機体なので、出来れば次も〈ヘッダーン5・アサルト〉が良かった。
整備士としてイスラも告げる。
「機体さえ届けば直ぐ調整かけるよ。
前と一緒で構わないだろ?」
「あ、可能なら拡張装甲外して欲しいです。
あと放熱板というか、冷却機構組み込めます?
前の機体、コアユニットを熱暴走させてしまったんです」
イスラはサネルマと顔を見合わせて、それからフィーリュシカの表情を確認する。いつも通りの無表情を見て、無駄なことをしたと振り返ると、ナツコの頭を撫でるように小突いた。
「熱暴走起こす前に警告が出るだろ」
「えへへ。無視しちゃいました」
「そりゃ暴走もする。
コアユニット溶かして無いだろうな」
「溶かしました。
というか、臨界爆発までいったので、もうバラバラです。跡形もありません」
再びイスラはナツコの頭を小突く。今度は冗談ではなく、少し強めに。
悪いことをしたと自覚していたナツコはそれを受け止めて、申し訳なさそうに謝罪する。
「ごめんなさい。
でもそれくらいしか私がフィーちゃんに勝てる道筋が無くて」
「無茶したよ全く。
しかも結局負けたんだろ?」
「うぅ……。
イスラさん、意地悪ですよ」
敗北を指摘されたナツコはしゅんとした。
いくら何でも無茶しすぎだろうとイスラは表面上だけ怒りながらも、内心ではそこまでやったのに無事だった中身の方を賞賛していた。
「運が良くて助かったな。
ま、機体データ回収出来なさそうなのが分かって良かった。取りに行く手間が省ける。
――〈アルデルト〉もか?」
そういえば確認していなかったとイスラは振り返りフィーリュシカに問う。
彼女は音も無く頷いて答えた。
「そう。
コアユニットが臨界を起こした。必要なデータはバックアップ済み。回収の必要無し」
「そりゃどうも。ありがたいことだね」
ふざけたようにイスラは笑う。それから、ナツコの示した調整案について一応了承を示した。
「装甲外して放熱板と冷却機構追加すれば良いんだろ?
名誉隊長様がそう言うなら準備はしとくよ」
「ありがとうございます!
是非お願いします!」
ナツコは表情を明るくして礼を述べる。
イスラは「実行はタマちゃんの許可が出てからな」と、割と絶望的な条件をつけたのだが、ナツコはきっとタマキなら分かってくれると妄信して元気に返事をした。
「それで、ナツコちゃんの退院許可はいつですかね?」
機体の話が終わったのでサネルマが問いかける。
「交渉中なんですけど、熱が下がって1日経つので、多分もう少しだと思います」
「もう少し、ですか。
一応これ、持ってきたんですけど必要です?」
サネルマはカバンから教育用端末を取り出した。
ナツコはそれに目を輝かせる。
「あ! 私の端末! 必要です!」
「持ってきた甲斐がありました」
サネルマが差し出した端末を、ナツコは両手でしっかりと受け取った。
体調が良くなったのにベッドから出して貰えないナツコにとって、それは心の底から求めていたものだった。
「ありがとうございます!
今なら理解出来る気がするんです!」
教育用端末に保存された統計的〈R3〉戦闘力学を開いて、ナツコは意気込む。
レナート・リタ・リドホルムが提唱した、機械に最適化された運動力学。
脳の中枢部分奥にある思考能力の極めて高い領域を自分の意志で扱えるようになった今なら、これまで難解すぎて理解出来なかったこの論文内容も習得できるかも知れない。
力の正しい使い方が分かれば、今よりずっと効率的に動けるようになる。
医務室の扉がノックされ、しゃがれた老婆の声が入室を求めた。
入り口付近で言い争いをしていたトーコとカリラが返事をすると、トメが入室する。
「おやまあ賑やかだねえ」
「あ! トメさん!
やっとここから出してくれるんですか!?」
きっとそうだと信じて疑わないナツコは嬉々として尋ねる。
しかしトメはゆっくりとした動きで首を横に振って否定した。
「後で体温を測ってから判断しましょうねえ」
「昨日計ったときは平熱でした!」
「今日も平熱だといいんですけどねえ。
それまでは休んでいて貰わないと困りますよ。
ではお着替えしましょうね」
トメは蒸しタオルと着替えを手にしていた。
彼女はゆっくりした動きで、しかし確実にナツコの服のボタンに手をかける。
「ちょ、ちょっと待って!
着替える前に皆さん退室を――」
これまで幾度も同じ部屋で着替えをした仲であっても、まじまじと見られるのは恥ずかしい。
ナツコがトメ以外の退室を求めると、トメもそれに頷いた。
「あらまあ、そうでしたねえ。
誰にでもプライバシーというものは保証されていますから。悪いですが皆さん、退室して頂けますか?」
老婆の頼みを拒否できる人は居なかった。
イスラとサネルマはナツコに別れを告げて医務室の出口へ向かう。
言い争いをしていたトーコとカリラも、そういうことならと廊下に移動して言い争いを続けた。
ただ1人。ベッドの脇にフィーリュシカが残っていた。
彼女に対してトメが何かあるのかと首をかしげる。
「少しだけ時間を頂きたい」
「フィーネさんの頼みでしたら」
トメが2歩下がると、フィーリュシカはベッドの横に立って、そっと手を伸ばした。
指先がナツコの額に触れる。
ナツコが抵抗すること無くじっとしていると、数秒でフィーリュシカは手を離した。
「特異脳の状態は安定している」
「特異脳?」
「あなたの頭の中にある、脳組織が異常発達した領域」
「へえ、そう呼ぶんですね」
「そう聞いた」
フィーリュシカは短く答える。
ナツコも彼女がそう言うのだからそうなのだろうと納得した。
そんなナツコへと、フィーリュシカは告げる。
「あなたの特異脳の使い方は効率的とは言えない」
「はい。私もそう思います。
なのでこれから勉強しようかと」
ナツコが教育用端末を示すと、フィーリュシカは頷いた。
「それがいい。
効率さえ上がれば、あなたは誰よりも強くなる」
「それは、どうでしょう。
結局、フィーちゃんには勝てませんでした。
それどころか、どうやって物理法則を書き換えたのか、いくら考えても分からないんです。
――ちょっと、髪を触っても良いです?」
問いに、フィーリュシカは首をかしげながらも了承を返した。
ナツコはフィーリュシカの銀色の長い髪へ手を伸ばし、手のひらで髪の感触を確かめて、そのうちの1本を選んで指先でつかんだ。
銀色の髪の中で、1本だけ僅かに金色に染まる髪。
「これって、何です?」
「手」
極めて端的な回答がなされた。
ナツコは口の中で「手」「て」「テ」と繰り返し呟いて、尋ねる。
「手、です?」
「そう。自分の本来の手」
「なるほど。これが手だったんですね。
あっ! だ、大丈夫でした? 私あの時必死になって、フィーちゃんの手、焼き切っちゃいました」
地下空間での戦いの最後、ナツコは自分の脳内に侵入してきた金色の糸のようなものを思考演算で断ち切っていた。
フィーリュシカは小さく頷いて返す。
「問題ない。しばらくすれば再生する」
「それは良かったです。――ちなみにどれくらい?」
「30年程度」
「良くなかったですね……」
ナツコにとって30年は余りに長い期間だ。
もしかしたらフィーリュシカにとってその程度の期間はあっという間なのかも知れないが、罪悪感が沸いてくる。
「ごめんなさい。
何が起こってるのか分からなくて慌てちゃって」
「問題無いと言った。
ただ少しばかり驚いた。
人間の脳には対抗手段がないはずだった」
「やっぱりその、特異脳、のせいなんでしょうか?
私も詳しいことはさっぱりだったんです。でも何かが頭の中に入ってきているのだけは分かって、それでそれを切るようにイメージしたら、あとは勝手に……。
本当にごめんなさい」
「謝る必要は無い。
ただ手は鋭敏なので離して欲しい」
ナツコは「あ」と短く声を上げて、指先でつまんでいたフィーリュシカの『手』を離す。
『手』は意志を持ったように動いて、フィーリュシカの銀色の髪の中に紛れて認識出来なくなった。
「ごめんなさい」
「問題無い」
フィーリュシカはいつも通り平然としていた。
『手』を持たないナツコにとっては、それを指先でつかまれた感覚は理解し得ないが、わざわざ彼女が指摘する位だから結構嫌だったんだろうとは推し量れた。
謝罪に対してフィーリュシカはかぶりを振る。
それから無表情のまま、抑揚の無い声で淡々と告げる。
「〈しらたき〉修理完了までの時間稼ぎは終了した。
これからはあなたを守ることだけに専念する」
その言葉にナツコは笑顔で答えた。
「はい! これからもよろしくお願いしますね!」
ナツコにはまだフィーリュシカが必要だった。
特異脳の使い方は分かった。でももっと効率よく扱えるようにならなければ、フィーリュシカには及ばない。
――少なくともナツコ自身はそう考えていた。
「ではこれで失礼する。
大佐殿。ナツコを頼む」
「はい頼まれましたよ」
トメは皺だらけの顔に柔和な笑みを浮かべて答えた。
そしてゆっくりした動きながら一切の容赦なく、的確にナツコの服を脱がしにかかる。
「わ、分かってます。もう、自分で着替えくらい出来るのに。
あ、ちょっと、フィーちゃん! 早く退室してください! プライバシーの侵害ですよ!」
ナツコの命令に従い、フィーリュシカは足早に退室した。
ナツコは着替えを自分でやると抗議を試みたが、結局トメには逆らいきれず、為すがままに着替えさせられた。
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