第5話

 退院の日、ブラウスにネクタイの制服に着替えていると迎えにやって来たお母さんにどうして制服なの、と訝られた。学校に用があると言うと、あからさまに難しい顔をされる。あなたを突き落とした犯人、まだ捕まっていないんでしょう。殺人事件が二つもあった学校なんて気味が悪いわ。どこか別の新しい私立にでも転校したら? お母さんの言い分は正しかったけれど、あたしは首を横に振った。もう大丈夫。あの学校には『名探偵』がいるんだから。まだ少し背中は痛むけれど、ナースステーションにお世話になったお礼を言ってから、あたしはお母さんの車で学校に送ってもらう。校門にはポロシャツにスラックス、白衣を肩に引っ掛けた保志先生と、半袖の夏用制服姿の慧天が待っていた。慧天はいつも通りヘッドホンを付けている。汗で耳がかぶれなきゃ良いけど。シッカロールでもはたいてみようかな。思いながらあたしは車を降りる。慧天が薄く微笑んだ。そう言えば保志先生は、いつも持っていた本を持っていない。

 慧天とは毎日会ってたのに、二週間離れているとやっぱり学校は異界めいている。世間から隔絶された場所なんだろう。同世代の子供を集めて纏めておく場所なんて、よく考えたらホラーだ。毎日顔を合わせるクラスメート。繰り返される授業。大人もまた学校以外を知らない人が多い。大学を卒業してすぐに教師になると、色々勘違いしやすい性格になると聞いたことがある。すぐに先生先生と崇められて、調子に乗るんだと。それを矯正できる大人もまた、いない。稀に独特の価値観を持つ人もいるけれど、それはごく少数らしい。まあ、そんなもんだろう。学校の内側にいるあたし達は、その異常性に気付きにくいのだ。理不尽も、愛憎も。

 学校の中に入って、仮捜査本部に向かう。ドアを四回ノックすると、気弱そうに眉をハの字にした刑事さんがそろそろと開けてくれた。苛立った顔をして教卓に向かって座っているのは警部さん。そんなに怒らないでよ。子供の戯言でもさ。この人もまた、学校以外を知らないのかもしれない。

 そして窓際のハイプ椅子には、河原崎先生が座っていた。いつかと同じ、暗い色のワンピースを着て。

「まず保志先生の提案で行ったDNA鑑定だが、河原崎水落先生と長谷忠良先生の親子鑑定結果は、九十パーセント以上と出た」

 やっぱり、と少しヘッドホンをずらしていた慧天は呟く。

「だがその事実が何を意味しているのか我々には解らない。君達はそれを、説明してくれるのだろうね?」

 慧天は。

 ヘッドホンを外した。

 歯を食い縛って。

 二年ぶりにもう一度、外に踏み出した。

「僕の名前は西園慧天、彼女の名前は本条静紅。二年前、水鏡小学校であった女教師自殺事件の関係者です」

 ぽかん、とした顔になる警部さんと、ざわめく刑事さん達の声に、慧天は手を震わせている。本当は今すぐにでも被りたいだろうヘッドホンを、必死で堪えている。

「それは――女教師が学校で飼われていたウサギを殺し、自殺した、あの事件の事かね?」

「はい」

「ノイローゼになった教師が学校にアーミーナイフまで忍ばせていたと言う――」

「そうです」

「……ウサギの死体から犯人を当てたと言う、当時小学六年生だった」

「その、西園慧天です」

 警部は長い長い溜息を吐いて、眼を押さえた。

 あたし達の名前を確認しなかったことを不覚と思っているんだろう。あたしはともかく慧天の名前は一度聴いたら忘れない、保志先生タイプだ。あたしはちょっと漢字が珍しいけれど、名字はありふれている。彼らが知っていたのはあたしの名字だけだ。おまけの西園慧天の事なんて視界にも入れていなかった。それは結構な、捜査ミスでもある。多分聞いても名字だけだったんだろう。制服には名札もあるし。人の認識なんてそれで足りてしまうものだから。それにあたし達は偶然の事件発見者でしかない、子供だったから。

 ヘッドホンから漏れ聞こえてくるのはキラー・クイーン。そこから漏れる言葉は、火薬かゼラチン? レーザービーム付きダイナマイト? 慧天の今の言葉は、この捜査本部にどう響いただろう。若干小学六年生にして謎解きを行った慧天。泣きながらあたしが語ったことは、どのように調書に記録されただろう。慧天がうさぎの謎を解いてくれたから。うさぎの謎とは何かね? 本当は最初からみんな殺されてたこと。それから内臓を取り出しやすいようにお腹を切ったこと。鋭利な刃物の物だった。鍵の掛け忘れなんかじゃなかった。でも、でも先生は死んじゃった。どうして。慧天。慧天に会わせて。怖いよ。慧天。助けて、『ヒーロー』、助けて。あの時泣きじゃくるあたしを根気強く相手をしてくれた若い警官さんは――そう言えば、もしかして?

「……説明を」

 警部さんが疲れ切った声で呟く。

「この事件の説明を、頼む」

 無精髭が流石になくなっている警部さんに、こくん、と慧天は頷いた。


「河原崎先生の母親は、校長先生、当時の顧問に性的暴行を受けていた可能性があります。しかしDNA鑑定の結果、父親は長谷先生でした。当時同級生だった彼も暴行に加わっていたんです。そして彼女は妊娠した。父親がどちらとも知れない子供を」

 僅か十四歳で。

 今のあたしと同い年か、と思うと、今となっては二人に対する嫌悪感は拭えない。

「二十三年経ち、その子供はこの学校に赴任してきました。恐らくは母親に言い聞かせられていたのだろう、当時の顧問、校長先生を復讐として篭絡するために。何も告げないまま近親姦をさせる事を、目的に。そしてその家庭崩壊を、……楽しむために」

 う、と何人かの刑事さんがうめく。

 確かに、気持ちの悪い話だ。父親と、なんて。でも校長先生は父親じゃない。調べてみなかった限り、多分河原崎先生も、それには気付かなかっただろう。何を根拠に校長先生の方だと思ったのか。回数、だとか思うと、生々しくて吐き気がした。お気に入りの生徒の前では眼鏡を外す校長先生。その、『お気に入り』に、何をしていた?

「二人の不倫は、職員室では有名だった。勿論長谷先生も知っていた。でも二十三年の間に、彼は少し変わっていた」

「変わる?」

「彼は二人の近親相姦による妊娠を恐れたんです。止めるよう、あの日彼は校長を説得に行った。二十三年来の共犯者相手に、校長先生はリラックスするために眼鏡を外して臨んだ。それは校長先生の癖だった。そして多分、二人は口論か揉み合いになった。そしてその時、殺意の有無は解らないけれど、長谷先生は裸眼だった校長先生の眼に指を突き立てて殺してしまった」

「指! 凶器は指か!」

 警部さんは膝を叩く。

 あの日長谷先生は黒いタンクトップを着ていた。

 それでもいじめっ子を叱っていた。

 教師として彼はニュートラルだった。

 ちょっと、ぞっとする。

「多分水飲み場にルミノール試液を噴霧すれば、反応が出ると思います。手を洗っただろう痕跡。新鮮な血痕より、ヘミンを形成しているような古い血痕の方が発光が強いですから」

 ヘミンは血液に含まれる要素の一つだ、ルミノールには激しく反応する。推理小説の知識だけど、誰からも指摘は入らなかった。

「……次の日、長谷先生は河原崎先生と一緒に屋上に行った。鍵を持っていたのは河原崎先生で間違いがないんです。昼休みのひと気のない職員室から取り出していった。普段施錠されているそこでなら秘密の話もできる。長谷先生は、河原崎先生に自分が二十三年前に何をしたか告げたんだと思います。そして、柵に上った。柵は自殺防止の為に高くて、体格の良い長谷先生を無理やり担ぎあげて落とすことはできません。ただし、自分で乗りえるなら体育教師には容易だった。そして長谷先生は、自殺したんです。多分娘への贖罪の為に」

「俺が見たのはその後で、屋上への鍵を持って行く振りだった、ってわけか。都合のいい目撃者にされたわけだ」

 保志先生が自嘲気味に呟く。慧天は首肯した。

「河原崎先生が屋上に行ったのも、その為です。密室殺人、という表現は案外間違ってない。密室の鍵は、彼女の手にあったんだから」

「密室殺人は自殺の見せ掛け、か」

 警部さんは再び長い溜息を吐く。

「ふふふ」

 不意に、河原崎先生が笑って慧天を見る。

「それで、私は何の罪に問われるのかしら。校長先生を殺したのは長谷先生、長谷先生は自殺、私は何もしていないわ。そうね、屋上の鍵を開けたことぐらいかしら。自殺幇助にでもするつもり?」

「静紅を突き落としたのはあなただ」

 消去法だけど多分当たっているのだろう。ああ、と河原崎先生は思い出したように声を出す。

「でも彼女、生きてるじゃない。私の母と違って」

 悪びれずに彼女は言う。

「私はね、四歳の時に母が死ぬまで何度も何度も何度も聞かされたのよ。お前は人殺しの子だ、お前は人殺しの子だ、って。母は自殺する時初めて私に笑い掛けて言ったわ。『さあ今からあなたは人殺しの子よ』って。そして首を吊った。間接的に母を殺した二人の男の子供だって、ずっと刷り込まれて来た。私は人殺しの子よ。だけど誰も殺していない。どころかこのお腹には新しい命が宿っているわ」

 腹を撫でた河原崎先生は、笑っている。妊娠。だから身体を締め付けないワンピースを? 慧天はヘッドホンを握り締め、耳を塞ぎたいのを必死で堪えている。聞きたくないのは同じだ。多分あたしも慧天も、保志先生も。吐き気がする。それでもこの人は、産むんだろう。人殺しの子供を、産むんだろう。そしてどうするつもりなのかは解らない。人殺しの子と、歌うように言い聞かせるのだろうか。母親がやったのと同じことをするのだろうか。それは駄目だ。愛してくれない親の元に生まれるなんて、不憫すぎる。人殺しの子。校長先生はもう死んでいる。河原崎先生はおそらく執行猶予がつくだろう。父も母も知らない彼女は、子供をどうするつもりなのか。この人は狂っているのだろうか。自分の子供を、どうしようと言うのか。

「一体誰に似るかしら。私? 母? 父? その子もまた、自殺者の――人殺しの子になる。こんなに綺麗な連鎖ってないわね」

 歌うようなソプラノで先生は笑った。

 聞き惚れそうな声だった。

 思い出すのは夜の女王のアリア。

 聞け、復讐の神々よ、母の呪いを聞け。

 呆然としていた刑事さん達の中で、警部さんがはっと正気に戻る。

「まずは本条静紅に対する傷害容疑で緊急逮捕だ! 署に連れて行け!」

 つられて動き出した刑事さんは、座ったまま抵抗しない河原崎先生に手錠をかける。でも多分大した罪には問われないだろう。あたしは全治二週間だったし、三階じゃ殺意は否認できる。高笑いしながら連れていかれる河原崎先生にぞっとしたものを覚えながら、最初にしゃがみ込んだのは慧天だった。限界だったんだろう。ぜーぜー言いながらヘッドホンで耳を塞いでいる。ボリュームを上げて深呼吸をしながら、歌を聴く。

「でも、復讐とは言え近親相姦狙ってたのは、気持ち悪いな……しかも子供まで作って」

「そういう復讐もアリだったんだよ、多分」

 保志先生を見上げて、あたしはそのどこか疲れたような顔を見上げる。

「先生、いつも持ってた本、どうしたの?」

「ああ、返してきた。水穂ちゃん――河原崎先生のお母さんな。彼女に借りてたもんだったから、仏壇で線香あげるついでに」

「もしかして好きだったの?」

「さてね」

 大人はすぐ誤魔化す。

 溜息を吐きながら慧天のヘッドホンを取ってみると、流れていたのはボヘミアン・ラプソディだった。Beelzebub has a devil put aside for me。魔王よ僕から悪魔を取り除いてくれ。

 あの時の悪魔は、その耳から去って行っただろうか。へたり込みながら深呼吸する慧天に、手を伸ばしたのは警部さんだった。

「捜査協力には、感謝する。だがあまり変な事件に首を突っ込まない方が身のためだぞ。心身症だろう、その音楽中毒は」

「大丈夫、です。ありがとうございます」

「大丈夫と言っているうちが危ないんだ。君はまだ中学生なんだぞ。もっと別の趣味を持つと良い」

「努力します」

 あたしの手と警部さんの手、両方を取って立ち上がった慧天は、久し振りに他人に向けて笑った。

「そう言えば警部さん、名前は何て言うんですか?」

「ああ、こっちも教えるのが礼儀と言うものだね。諏佐だよ。諏佐清矢すさ・せいやだ」

「二年前は、ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げると、諏佐警部も苦笑いをした。

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