第4話
次の日にもなると生徒の話題は長谷先生の事に移行していた。良い先生だったのに、と泣いている生徒もいる。慧天をいじめてた連中もソフトボール部だったから、複雑そうな顔をしていた。でもやっぱりどこか思い詰めた顔の女生徒も散見されて、それがやっぱり気になった。声を掛けるとあからさまに怯えられる。理由が解らなくて首を傾げると、何人かの女子が集まって来てその子を守るように取り囲んだ。何か用、と強気に睨まれると、何でもないです、と言う他はない。長谷先生は在学中の経験を生かして男女ソフトボール部の顧問だった。校庭の部室には仏花が供えられ、スポーツドリンクなんかもちらちらと見える。誰が片付けるんだろう、なんて窓からそれを見ながら、あたしは音楽の教科書を出した。芸術の授業は三択で、音楽・書道・美術だ。なんとなく音楽にしたのは、慧天に自分の弾いた曲を聴いてもらいたいとか思ったからかもしれないしそうじゃないかもしれないし。まあどうせ声は聞いてもらえるから、それ以上を望むと蜘蛛の糸が切れるよね。うん。ちなみに慧天は書道をしているけれど、あれの美醜はあたしにはよく解らない。ただ解るのは、慧天の字があまり上手くないことぐらいだ。なんて言うか、バランスが悪い。多分ヘッドホンのリズムにつられているんだろう。
なるべく早めに音楽室に向かって空気の入れ替えをしようと、あたしは席から立ち上がる。慧天がこっちを見たから、音楽、とだけ答えた。こくんっと顎を引いて、ぱたぱた慧天は手を振る。行ってらっしゃい。行ってきます。あたしと慧天が受ける授業で違うのは芸術ぐらいだ。体育は男女に分かれるけれど、結局同じグラウンドだし。
窓から光の差す階段を上って三階にある音楽室に着くと、案の定窓は全て閉まっていて蒸し暑くなっていた。階段を上がって来た身体には、ちょっとしたサウナみたいに感じられてうんざりする。教科書でぱたぱたと首の汗が溜まりやすいマイクを扇ぎながら、あたしは順番に窓を開けていった。その度に風が入って来るのが気持ち良くて、自分は何て良いことをしているんだろう、なんて思ったりする。風に膨らむカーテンが顔に掛かるのすら楽しい。今日は良い風が入りそうだ。何の曲をやるのかな。英語なら大丈夫かと思って慧天の前でアメイジング・グレース歌ったらボロ泣きされちゃったからなあ。よく調べてみたらあれは致命的な選曲ミスだった。それにしても慧天は昔と比べて涙もろくなった気がする。切っ掛けなんて、解り切っていることだけど。
そう言えば音楽の担当は河原崎先生だったな、と今更な事を思い出しながら、あたしは鍵の閉まっていないドアを開けて音楽準備室に入る。机が一つと雑多な楽器が山を作っているそこは、秘密基地みたいでちょっと面白かった。こっちも窓を開けると同時に、机からひらりと何かが落ちるのが眼の端に映る。何だろうと思って屈む。写真だ。あまり新しくない。赤ん坊を無表情に抱いている少女の――
ドンッ
「へっ?」
写真を拾った瞬間。
あたしは窓に向かって突き飛ばされる。
そしてそのまま。
身体は空に、飛び落ちた。
(――ッ)
これほど空手部で良かったと思うことはなかった。慌てて取った受け身。だけど畳と違って地面は平らじゃない、木の根が背中を直撃して痛みに声が出なかった。けふっと喉を鳴らす。咽喉マイクは壊れたようで、破片が首にちょこちょこ刺さってるのが痛かった。まあ、この距離じゃ慧天を呼べるわけでもないし、どうでも良いか。でも高いんだよねこれ。あと二年は使いたかった。
他所事を考えていられる余裕があることから、自分の状態がそんなに深刻じゃないことを客観的に理解する。背中を強く打ったのがじわじわと効いてきて、思わず目じりに涙が溜まった。誰か見付けてくれるかなあ。心配なのはここが裏庭と呼ばれる場所だからだ。空気も湿気て人の行き来はあまりない、だけど告白には絶好の場所。事実ここで慧天に告白した子をあたしはこの一年半で三人知っている。通訳連れて来る時点で引いてた女の子達は、せめて自分の声でごめんなさいと言った慧天に、ちょっとだけ泣きながら去っていったっけ。さてあたしはどうしよう。告白タイム。そうだな、慧天には謝りたいな。あたしの所為で慧天はああなっちゃったんだし。あたしみたいな厄介な幼馴染がいなければ――慧天は笑って――
「静紅ちゃん!」
聞こえた声に朦朧としていた意識が少しだけ回復する。
慧天?
かろうじて動く首をまわして三階に向かう階段を見れば、二階部分の窓がガラガラと開けられた。そして飛び降りて来るのは、ヘッドホンを付けた男子生徒。手に持っている赤いペンケースはあたしのだ。そうだ、新しい曲の日なのに教科書だけ持って忘れてたのか。それを届けに? こんなジャストタイミングで? 駆け寄って来る慧天はポケットから携帯端末を取り出して、ハンズフリーにする。電話の相手は保志先生だった。そうか、一応保健の先生か。って言うかいつの間に番号交換するほど仲良くなってたのあんた達。ひゅー、ひゅーと喉を鳴らしながら、あたしは身体を動かそうとする。でもどこもかしこも痛くて無理だった。骨が折れてる箇所はない、と思う。手、足、首。みんな動く。三階は比較的低階層だ、死にはしない。だからって二階からジャンプするのも危険だけど。それにしてもただ苦しくて痛いだけってのは地味に来るな。あーあ、情けない。『ヒーロー』なのに、あたし。慧天を守るどころか自分の身も守れないんじゃ、全然『ヒーロー』じゃないよ。
『西園? どうした』
「静紅ちゃんが倒れてる!」
『どこで?』
「裏庭、身体動かせないみたい!」
『意識は?』
「静紅ちゃん? ……瞼ぱちぱちしてる、ある!」
『外傷は?」
「マイクが壊れて首から血がッあと腕擦り剥けてて、多分窓から落ちて、落とされて? 解んない、静紅ちゃん、返事しない、静紅ちゃん、静紅ちゃん! 返事して、嫌だよ、僕をまた人殺しにしないでッ静紅ちゃん、静紅ちゃん!」
『落ち着け西園!』
初めて聞く、保志先生の怒鳴り声。ひゅっと喉を鳴らして黙った慧天は、そのまま深呼吸をする。あたしの手を取って脈を確認して、それからぼろぼろ泣き出した。もう中学生なんだから、そんな泣き方しないでよ。心配でうかうか気絶も出来ない。発作を起こしかけている慧天は、ぎゅっとあたしの手を握っている。握り返すと、指は、動く。足も頑張れば膝は曲がるし、痛いのは背中だけみたいだ。
『良いか、今本条の一番近くにいるのはお前なんだぞ。お前にしかできないことがある。解るか西園。解るな西園。お前はそれを、経験したはずだ』
小学校の時。落ちて来た『先生』。あたしは逃げた。慧天は近付いた。きっと助けようとしたんだろう。でもそれは叶わなかった。『先生』は死んだ。え、待ってあの時を思い出せって、あたし、死ぬのかな? 意識が朦朧として来て、瞼をぱちぱちさせる回数もおぼつかなくなる。背中が痛い。頭を打ってないのは僥倖だ。だけど口が動かないのは困ったな。慧天。慧天は人殺しじゃないよ。あたしを助けてくれた。慧天はあたしの『ヒーロー』だった。だからあたしも慧天の『ヒーロー』になりたかった。でもあたしは弱い。こんな所で転がってるぐらい弱い。悔しいなあ。慧天こんなに泣かせちゃって。悔しいなあ。
『一一九番は出来るか? 俺もすぐ行く』
「はい!」
慧天ははっきりと返事をした。
通話が切れる。
「『先生』を殺したのは僕だった。でも静紅ちゃん、静紅ちゃんは助けるからね。絶対絶対、助けるから、だから」
ぎゅっと手を強く握られる。心地良い。手を取り合ってきた、ずっと。だったら今も大丈夫だろう。慧天がいる。大丈夫。腕や足を曲げ伸ばしさせて骨折の確認をされる。頭には触らない、打ってたら大惨事だから。首の傷。マイク部分が折れてプラスチックの尖ったパーツが何カ所か刺さってる。地味に、痛い。でも一番痛いのはやっぱり背中だな。さすって欲しいけど、うつ伏せになるのも危険だろう。ああ、でも、触って欲しい。
「僕は、『名探偵』じゃない。静紅ちゃんの『ヒーロー』になるんだ」
馬鹿だな。
そんなのもう、叶ってるよ。
二年前の、あの日から。
今にも途切れそうな意識の中、救急車のサイレンと保志先生が走ってくる足音を聞く。指先を動かすと、拾った写真の気配があった。あたしの頭を抱いて身体を起こさせた保志先生がそれに気付いたのか、息を呑む気配がする。少女と赤ん坊。がらがらと音を立ててやって来るのはストレッチャーだ。あたしの指から写真を取った保志先生は、それを白衣のポケットに入れる。救急隊員二人に身体が持ち上げられてベルトでストレッチャーに固定され、地面の凸凹を感じながら最後は救急車に乗せられる。同乗者は一名までと言われて、慧天が乗った。保志先生は自分の車で追い掛けると。受け入れ先の病院を探す電話の声を聴きながら、今度こそあたしの意識は完全に落ちた。
意識が戻ったのは病院の個室だった。薄目を開けて何があったのか思い出そうとすると、ベッド脇のスツールに慧天が腰掛けて、保志先生が立っているのが解る。首には包帯の感覚、マイクの破片で付いた傷だろう。背中はほぼ一面に湿布を張られているような気配があった。気持ち良い。やっぱり背中打ってたんだな。手足に力を入れると指先まで自由に動く。後遺症もなし、と思いたい。それにしても生きてて良かった、九死に一生ってこんな感じかな。思いながらまた眼を閉じる。眼を開けているって言うのは案外億劫だ。絶えず画像が入って来る。何も動かなくても。と、かちゃり、音がした。慧天がヘッドホンを外したらしい。確かに病室は静かだ、必要ないんだろう。あたし達の声は、聴けるから。漏れ聞こえるのはやっぱりQUEENだ。We Will Rock You。あ、怒ってるな、と選曲で解る。そりゃ、幼馴染が突き落とされてたんだから、怒っては欲しい。
「あの写真、なんだったんですか?」
いつもよりはっきりとした声音の慧天の質問に、保志先生は溜息を吐く。
「中学の時の同級生だ。二年の時に突然学校に来なくなっちまった子でな。引っ越したとかなんとか噂はあったが、子供を孕んだって話も聞いたことがあったんだ」
「じゃあその写真の赤ん坊は、その子供かもしれない?」
「推測だ。しかも父親は知れない。言えなかったのかもしれないが」
「音楽準備室に」
あたしはまだ力を入れるとちょっと痛む身体を起こして、眼を開ける。驚いた顔の二人を見ながら、にへ、と笑う。大丈夫、大丈夫。『ヒーロー』はこのくらい、平気でなくちゃいけない。手当ても受けたんだから。
「落ちてたんです。拾おうと屈んだら、突き落とされて」
保志先生は脇にいつもの本を挟んで、ペットボトルの蓋を開ける。緑茶じゃなく紅茶、アールグレイだった。もしかしたら慧天とお茶会をしていたのかもしれない。あたしが寝てる間に。
コンコン、とドアをノックされて、はい、とあたしは答える。
慧天がヘッドホンを付けると同時、入って来たのは警部さんと刑事さんが一人だった。
「意識は戻ったんだね。早速で悪いけれど、君は突き落とされたのかな? えーと、本条さん?」
病室の前にはネームプレートがある。そう言えば名前すら聞かれたことなかったな、両方の事件で第一発見者だったのに。まあ、子供に用はないんだろう。被害者か加害者にでもならない限り。警部さんの一歩後ろで手帳を開いている刑事さんの眼光は鋭い。怖いほどじゃないけど。本当に怖いのは死ぬことだ。否、死なれることかもしれない。あたしも、慧天も。だから慧天は錯乱した。人殺しにしないで。人殺し。見捨てる事もそうだとしたら、あの時逃げたあたしも十分、人殺しの仲間だ。
「カーテンの影から突き落とされたので、顔は見えませんでした。ただ、背丈はそんなに高くなかったと思います。あたしと同じぐらい」
「君の身長は?」
「一五七センチです」
「一六〇センチ前後か。男性ではなさそうだね」
「共犯者かもしれません」
「それを決めるのは君ではないよ」
ぴしゃりと言われる。
あなたでもありませんよ。
「探偵ごっこがしたかった割に詰めは甘かったようだね。退院するまでは警護に警官を付けておくから安心すると良い」
「ありがとうございます」
「それじゃあ失礼するよ。身体は大事にね」
わざとらしい皮肉っぽい言葉と一緒にドアが閉じられる音。写真のことは言わなかった。多分あの人には意味がないだろうから。それにしても身体が湿布くさい。いつまで続くんだろうと思ったら、全身打撲で二週間の入院だとヘッドホンを外した慧天に言われた。健康優良児だったあたしとしては病院はちょっと珍しい場所だけど、二週間は長い。授業のノートは慧天に持って来てもらうとして。
その二週間、ありがたいことに慧天は毎日病室に来てくれた。ノートを写したらペットボトルの紅茶でお茶会、確かに茶葉の舞わない紅茶は味が違うな、なんて思いながら飲むのはやっぱりいつものミルクティーだ。たまにコーヒー牛乳を買おうとすると慧天にじっとり睨まれる。慧天、コーヒー苦手だからなあ。しかしトイレに行くにもいちいちナースコールで看護師さんを呼んで車椅子に移ってからトイレへ、と言うのは中々面倒くさいし恥ずかしかった。お風呂はもうわしわしと大雑把な作業状態で髪を切ろうかと思ったほどだ。着替えは両親が持って来てくれたから苦労しなかったけれど、背中の湿布を代えて貰うのは痛かった。我ながら、間抜けをしたものだと思う。本当、『ヒーロー』には程遠い。
「また犯人が静紅ちゃ――静紅に何かしないとも限らないからね。そう考えるとここって一番安全な場所だと思う。ドアには見張りの警官さんが座ってくれてるし」
「あの人この前椅子に座って居眠りしてたわよ」
「そ、それは……」
「慧天が一緒にいてくれるのが、一番安心する。ごめんね、あたしが慧天を守らないといけないのに。これじゃあの時と同じだ。また慧天から何かを奪っちゃう。宿題やる時間とか」
「それは学校で済ませるから平気。時々真野君達もノート貸してくれるようになったし」
「真野? って誰だっけ、クラスメート?」
「前に僕のヘッドホン取ろうとした子達。真野君と、小泉君と、池谷君って言うんだ。静紅が窓から落ちた日に選択音楽で僕達を見てたらしくて、手伝えることがあれば手伝うって言ってくれた。今はラインで友達登録してるけど、喋りすぎってよく言われる」
くす、と慧天は笑う。確かに携帯端末を持たせると慧天は饒舌だ。普段喋らない反動もあるんだろう。それにしても友達が一気に三人もできたのか。これはお祝いにアップルパイでも焼かないとなあ。退院したら砂糖たっぷりの甘いの作ってあげよう。あ、でも男の子だと甘いもの苦手かな。念のために何か違うものも? うーんと考え込むあたしの手を取って、慧天が額に手の甲をくっ付ける。
「……静紅より大事なものなんて、そうはないよ」
ぽつりと言う慧天に、あたしはちょっと意地悪な気分になってみる。
「静紅ちゃん、ってもう呼んでくれないの?」
「あ、あれは慌ててたからで、つい出ちゃっただけでっ」
くすくす笑うだけでも背中の筋肉は使われるらしく、ちょっと痛い。静紅ちゃん、か。お隣同士になって十余年、ずっとそう呼ばれて来た。慧天。静紅ちゃん。静紅ちゃん。慧天。砂場遊びを崩されたら真っ先に怒りに来てくれたっけ。だからあたしも、慧天が遊んでるブロックを持って行こうとする子には駄目、と言った。幼稚園の時の事が湧いて来るなんて、案外走馬燈なのかしら。でも背中は初日より痛くない。痛み止めの薬も処方されているから、そっちが効いているのかもしれない。
案外慧天の中でもあの事件は終わってないのかな。ああそうだ、退院したら新しい咽喉マイク買わないと。警察とか、買ってくれないだろうか。あの警部さんじゃにっこり笑って却下だろうなあ。支出が痛い。そろそろポール・ロジャース版のQUEENのアルバムとか買おうと思ってたのに。
「静紅を助けられなかったのは、僕だ」
ぽつりと慧天が言う。
「I'm taking my ride with destiny. Willing to play my part」
「メイド・イン・ヘヴン?」
「うん」
これが運命ならば、喜んでこの役割を引き受けよう、か。
それはあたしも同じだ。
あたしは慧天の手を握る。慧天も握り返す。手を取り合って。いつも二人でいたから。
「あれ? 俺お邪魔虫? シュークリーム買ってきたんだけどなー」
「うわあ!」
いつの間にかドアを開けて入って来ていたらしい保志先生の声に、思わず飛び上がる。と、背中が痛かった。この教師保体の癖に何と言うことを。詫びに寄越せシュークリーム。甘いものはアップルパイしか作れないのよ、あたし。そしてお母さんも。つまりアップルパイ以外の甘味には常に飢えているのよ。しかもなんかお高そうな箱に入ってるし。ぎぶみーしゅーくりーむ。ちなみに英語圏でシュークリームと言う言葉は通じないらしい。シューズ・クリーム、靴墨だと思われるとか。元々フランス出身だと言うけれど、勿論本場のなんて食べたことがない。何か色々飾り付けられて綺麗だったりするらしいけど、別にどうしてもと言うほど食べたいとは思わない。お茶会にはシンプルでも甘いお菓子があれば、それで良い。大体複雑な形のお菓子は食べにくいのよ。彩りのミントとか添えてるとそれをどうしたら良いか解らなくなったりもするし、お皿に掛けられてるソースはぬぐった方が良いのか解らないし。
案の定大きくて、生クリームとカスタードクリームの両方が入っているシュークリームの味は、至高だった。紅茶のお供にも良い。慧天はあっぷあっぷとクリームが零れないよう格闘してて、まるで子供みたいだった。十四歳って十分子供か。義務教育だしね。学校内での怪我だったから入院代も学校が出してくれる。やっぱり警察はあたしに咽喉マイク代を出してくれても良いと思う。まあそれは置いておこう。喉の包帯が外れるとちょっと首が寂しい。この二年、いつもマイクを付けていたからだろうか。お陰で慧天にはヘッドホンを外させっぱなしになってしまっているけれど、個室だから外の音は殆ど聞こえなくて、我慢出来る程度らしい。気の所為でなければ、ちょっと声も大きくなった。昔みたいだなあと思う。でも、夜には慧天も帰ってしまう。あたしもヘッドホン買おうかな。誰もいなくても寂しくなくなるように。あたしが孤独にいる時、地球の裏側ではサンバを踊っている。そう思えばまあ多少は、寂しくもないか。サンバってよく知らないけれど。肌を露出したおねいさん達が踊りながら練り歩くんだっけ? 何それちょっと見たいけど、携帯端末は落ちた時に壊れて絶賛修理中だ。メールも出せない。立ち歩きも制限されてるから貸本屋さんなんかにも行けなくて、地味に、暇。
指に付いたクリームを舐め取りながら、いやね、と保志先生は話し始める。
「例の写真持って河原崎先生の実家に行ってきたのよ。お付き合いさせて貰っているんですがって嘘吐いて。西園慧天と申しますって言って」
慧天が先生の脛を蹴る。珍しく暴力行為に出た。良いぞ慧天。
「いやちょっと隠れ蓑に使っただけだよ! そしたら腹割って話してくれてさ。実家にいたのは河原崎先生の両親じゃなくて伯父夫婦で、河原崎先生の母親ね、まあ俺の同級生だった子なんだけど、転校してすぐ休学して、十四歳で子供産んだんだって。父親は最後まで黙秘して。そんで子供が乳離れした時期、四歳って言ってたかな、その頃に首吊って自殺したんだってさ」
「父親は――」
「その子、ソフトボール部だったんだよね。校長先生が顧問やってた」
「まさか」
慧天がヘッドホンをぎゅっと握る音が、個室に響いた。
「今は警察に話してDNA鑑定してるところ。本条が退院する頃には結果が出てるんじゃないかね」
思い出すのは校長先生と長谷先生が亡くなった時、陰鬱そうな顔をしていた女子達だ。同級生だけど部活までは知らない、でももしかしたら彼女達もソフトボール部だったのかもしれない。そしてあの子は。もしかしたら校長先生に。或いは。
あたしは今日はストレートの紅茶を一口飲んでから、保志先生を見上げる。
「それ、長谷先生の分も鑑定してみてください」
「長谷? まさかあいつも?」
「確信はないです、ないですけれど、多分大人の言うことは聞く人達だから」
「――解った。電話で刑事さんに伝えるよ」
すぐに携帯端末を取り出した保志先生は、適当な疑いを長谷先生に掛けて鑑定の追加を取り付けた。慧天はあたしの手を握って、うん、と頷く。多分女子生徒達の複雑そうな様子に気付いていたんだろう。もしかしたらその部活まで。慧天は人の事を観察するのが上手いから、長谷先生の可能性にも気付いていたのかもしれない。可能性――そう。女生徒達に対する、性的暴行についての。でも流石に二十三年も遡れるとは思っていなかっただろう。あたしだってそうだ。でも。
河原崎先生――河原崎、水落先生。
子供に水に落ちるなんて名前、付けるだろうか?
望まれない子供だった彼女をそれでも乳離れするまで育て上げた母親は、何を考えて。
何を考えて――死んだんだろう。
それを考えるのは、『名探偵』の領分だ。
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