第3話
二年前、あたしと慧天は小学六年生で、あたしは生物係として主にウサギの世話をしていた。八匹いたアルビノの真っ白なウサギはそれでもそれぞれ個性があって、あたしにやたらと懐いてくれる子もいれば飼育小屋のドアを開けただけで隅に逃げ出す奴もいた。当番制で掃除とエサやりをして、片付いたら鍵は『先生』へ。まだ若い女の先生で、今はもう、そのルージュが不自然なぐらい濃かった事しか思い出せない。お化粧に慣れていなかったのかな。いつも書類を溜めて怒られていたから、適当になっちゃってたのかもしれない。
ある日学校に行くと、ウサギが全部死んでいた。外に出ていたことから前の日の生物係のあたしが鍵を掛け忘れたんだろうとクラスどころか全校生徒に指弾された。野犬や野鳥に内臓を引きずり出されていた姿は、今でも鮮明に思い出せる。あたしはそんなことしていない、ちゃんと鍵は『先生』に預けたと弁明した。『先生』は、どうだったかしらねえ、と困った顔を見せた。ルーチンワークみたいになっちゃってたから、よく覚えてないのよ。絶望的な気持ちになった。ウサギ殺しと罵られ、女子からは無視されたし、ノートは罵声の落書きでいっぱいにされた。机を窓から放り投げられたこともあったし、鉛筆を残らず折られもした。長かったおさげの髪は授業中に引っ張られて、椅子から転げ落ちたこともあった。あたしはちゃんと鍵を閉めた、何度も言う言葉を、他の教師たちは段々鬱陶しそうに見始めた。信じてくれたのは、幼馴染の慧天だけだった。
慧天は言ってくれた。
犯人を探そう。
静紅が疑われてるなら僕が助ける。慧天はヒーローみたいに言った。鼻歌で綴るのは、QUEENのフラッシュ・ゴードンのテーマ。古いアメコミのテーマソングだけど、難しい単語が少なくて解りやすいからと英語の授業で使われた曲だった。he'll save ev'ry one of us? と歌詞の言葉で訊くと、うんッと笑われる。彼はあたし達みんなを助けてくれる。僕が静紅ちゃんのフラッシュだ。言った慧天は自信満々だった。あたしを本気で助けようとしていた。
まず慧天がしたことは、埋められたウサギの死体を掘り返すことからだった。内臓が出てて腐りかけだったけれど、慧天が注目したのは腹の皮と首だった。首筋を鋭利な刃物で切断されてる。多分そうやって殺したあとに、腹を裂いて野犬や野鳥が食べやすいよう内臓を取り足したんだろう。動物は内臓や眼球、肛門と言った柔らかい所から食べていく。キャトルミューティレーションが本来の自然死とされるのもその所為なんだ、と慧天はちょっと得意げに言った。慧天は何でも知ってるね。名探偵みたい。言うと慧天は照れ臭そうに笑った。
次はあたしの行動だった。あたしは鍵を掛けて、その鍵を『先生』に返した。誰かが『先生』から鍵を盗むことは出来るか。答えはNO、『先生』は、受け取った鍵をすぐにキーホルダーにくっ付ける。車や家の鍵がぶら下がってるホルダーで、いつもポケットに入れていた。放課後は教室か、職員室にいる。どっちにいても、ポケットに手を突っ込んでそれを奪うことは出来ない。
あたしから鍵を取ることも、勿論出来ない。鍵を渡されるのは放課後になってからで、預けられるのはいつも六年生の当番の子。あたしは掃除の間中ずっと手に握っていたし、『先生』に渡すまで、一度も手放したりしなかった。文字通りに、手から離さなかった。
スペアの鍵が存在する確率はあるか。それも無理だった。ウサギ小屋を作ったのは前の用務員さんで、鍵になっている南京錠は昔からずっと使っている、かなり古いもの。所々錆びてもいたし、それに、鍵屋さんでも南京錠の複製はしていないと言われた。
だから、慧天は言った。
放課後の誰もいない、六年生の教室で。
担任の『先生』を、目の前に。
先生が、ウサギを殺したんだ。
鍵を持っているのが『先生』だけで、スペアも無く、あたしがちゃんと施錠を確認したのなら、残っているのは『先生』しかいない。鍵が行き着く先で、管理している人間。持っていなくておかしいことはあっても、持っていて怪しいことはない。理由なんて判らない、それでも、犯人は『先生』しかいない。
ちょっと厳しいけれど休み時間は優しい、そんな『先生』だった。いつも綺麗に纏めた長い髪、いつも綺麗にびっしりと着込んだスーツ。ちょっと厚いお化粧、口紅は、黒っぽい赤。血の色みたいな赤。吸血鬼。彼女は笑っていた。窓を背に、慧天の言葉を聞いて笑っていた。微笑を浮かべていた。優しそうに笑っていた。
口唇が開いた。小さく開いた。くすくす笑った。小さく吐息を漏らして笑った。肩を揺らせて笑った。窓に寄り掛かりながら笑った。段々大きくなって行った。声が大きくなって行った。口が大きく開かれて行った。肩が大きく揺らされて行った。
大笑いになった。
げらげらげらげらげらげらげらげら。
知らない人みたいに、笑った。
あたし達は怖くなった。
慧天はあたしの手を引っ張った。
逃げるみたいに、逃げた。
玄関に向かって、煩わしくも内履きを上履きと取り替える。
長かった三つ編みが背中を叩いて鬱陶しかった。
だから髪を解いた。
ふわふわ長い髪が揺れた。
よく判らないけど泣いていた。
怖くて泣いていた。
石畳の上を走った。
慧天に手を引かれて走った。
バレッタが落ちてきた。
足を止めた。
『先生』が落ちてきた。
眼を見開いて。
髪を広げさせて。
口を開いて。
笑いながら。
頭から。
石畳に。
ぐしゃり。
血が。
髪に、べったり、飛んだ。
あたしも慧天も、赤かった。
目の前に死体があって。
あたしは逃げて、
慧天は近付いた。
あの時から慧天は人の声を聞けなくなった。
一日中部屋に篭って、好きな歌をずっと流し続けて。友達も学校の先生も警察も勿論、親でも部屋の中に入れなかった。声がすると音量を一杯に上げて、何もかも押し流すように音の洪水にして、頭を抱えて耳を塞いでシーツに包まってぎゃあぎゃあ叫んで自分の声で耳を潰していた。それでも怖くて、カーテンに包まって、隠れるみたいに。子供帰りでも起こしたように。あのレベルの発作は二年前以降見ていない。出来ればずっと、見たくはない。
それでも慧天は、あたしが部屋に入ると顔を出してくれた。
持ち込んだのは、紅茶とミルク。重いクッキーの缶とシュガーポット、半分に切ったレモン。それに焼き立ての、アップルパイはシナモン抜き。
買ったばかり、大音量のブリティッシュ・ロックのCD音の中で、あたし達は、お茶会をした。
泣きながら食べて、泣きながら飲んだ。泣きながら話をして、泣きながら話を聞いた。『先生』が仕事を押し付けられすぎてノイローゼになってたとか、ナイフを鞄に入れていたとか、大人から漏れ聞いた理由を、よく判りもしないのに反芻して伝えた。伝えながら頑張って理解しようとして、でもやっぱり、判らなかった。悩んでるとか辛いとかそういう事とウサギを殺すことを繋げることが出来なくて、慧天に何度も訊いた。自分が辛いのと、他を痛め付けるのと、繋げて考えることがどうしても出来なかった。
判ったのは、『先生』が死んだこと。
それがあたしの所為だってこと。
何にも言わなきゃ良かった。何にも言わないで、ただクラスのみんなに謝って、ただ泣いてれば良かった。少なくともそうだったらあの人は死ななかったし、慧天も喋れなくなったりしなかった。吃音交じりの言葉、慧天の声。静紅は悪くないよ。ミルクたっぷりの紅茶と、レモンを入れたダージリン。髪は切った。血がどうしても取れないような気がして、ばっさりと。長い髪は自慢だったけれど、もうそんな自慢なんてもう誰にもしなくて良かった。そんなものは、どうでも良かった。着ていた服も血の染みが付いて取れないから捨てた。反対に、慧天はそのままの格好だった。鉄の匂い。血の匂い。どうして自殺しなきゃならなかったのか。ただ、ごめんなさい、と謝るだけでは駄目だったのか。あたしは慧天に質問をたくさん投げつけた覚えがある。
解んないよ、と慧天は泣いた。だけどクッキーを食べることは止めなかったし、紅茶のお代わりを作ることも止めなかった。たった二人のお茶会はやがて沈黙に包まれる。静紅、と慧天があたしを呼んだ。何か歌って。あたしは英語の時間に習ったばかりだったビューティフル・ドリーマーを歌った。CDの音量を下げて眼を閉じながらそれを聞いた慧天は、何日分か、すぅすぅと眠りこけた。泣きながら眠っていた。
断片的にしか意味の解らない音楽だけが、慧天の耳を癒してくれるようになった。唯一声を聴けるあたしは首に掛ける咽喉マイク渡され、慧天はヘッドホンでそれを聞くようになった。二人で一人みたいに。溶け合うように、手を取り合って。
「静紅」
あの時からあたしの事を呼び捨てにするようになった慧天。
あの時から通訳として隣にいることに甘えていたあたし。
息が詰まって喉が渇いて、それでもあたしは慧天に周りの言葉を伝え続けた。
「静紅?」
呼ばれてハッと現実に返ると、場所は仮捜査本部が置かれている空き教室の前だった。昼休みだって言うのに廊下にいても怒号が聞こえる、刑事さん達はよっぽど切羽詰まっているらしい。なんてったって二日続けての同じ校内での殺人事件だ。連続殺人なのか否か。あたしは慧天と繋いだ手にぎゅっと力を込めて、苦笑いする。なんでもない。あんなこと思い出してたなんて知れたらまた心配させてしまう。
とりあえずの疑問は、指紋の問題からしても屋上へ向かうドアを開けたのは河原崎先生に違いないと言うことだ。だけどそれなら長谷先生はいつどうやって屋上に上ったのか? 長谷先生と河原崎先生は一緒にいて、何かをしていたのではないか? その方が論理的だけれど、平均的な体格の河原崎先生に長谷先生を突き落とすことはできないだろう。保志先生も言っていた。何か道具の類が見付かっていないか、或いは共犯者の痕跡はないか。それを訊きに来たんだった。
コンコンコンコン、とノックを四回すると、扉を開けたのはあの若い警部さんだった。目の下にはちょっとクマが出来ていて、無精髭も生えていた。若い顔に似合わない。事件に縛られっぱなしなのが解る。あの、と声を掛けると同時に、彼はにっこりと笑った。
「ここは今警察が間借りしているからね、子供が来る場所じゃあないんだよ」
「あの、訊きたいことが」
「先生達には聞けない事なのかな?」
「長谷先生はどうやって屋上に入ったんですか?」
ふと、警部さんの眉間に皺が寄った。
「こっちもそれを調べているんだよ。まるで密室殺人だ。馬鹿馬鹿しい」
密室殺人?
それって基本的には自殺の誤魔化しじゃないっけ?
言おうとする前に扉はパシンと閉じられる。向うさんも行き詰ってるみたいだね、とマイク越しに慧天に伝えると、こくん、と頷かれた。
「いっそ二年前の事件のこと言っちゃう? あれを解決したのは慧天だって」
ふるふるっと慧天は頭を振った。ちょっとだけ俯いて、陰鬱そうな表情を見せられる。しまった、と思う。地雷を踏んだ。
「ごめん」
ふるふる、と慧天は首を振って、苦笑いをして見せた。
自販機でペットボトルの紅茶を買う。ミルクティーとレモンティー。冷えてるそれを頬に当てながら、あたし達は鍵の掛かっていないまだ新しい空き教室でお茶会をしていた。児童減少は深刻で、この教室も来年には取り壊されて駐車場の一部になるらしい。お互い一気に半分ぐらいまで紅茶飲むと、ぷあー、と溜息まで一緒に出る。それにちょっとだけ笑ってから、ヘッドホンを外した慧天は少し真剣な顔をした。こうやって慧天と普通に話せる場所が校内から減ると、ちょっと困るな。
「河原崎先生が二人を殺したのなら、辻褄は合うんだよ」
まだ若い音楽教師の顔を思い出しながら、あたしはふらふらとペットボトルを揺らす。
「どういう意味?」
「校長先生が眼鏡を外したのは二人が深い仲だったから、って考えられるじゃない。公然の秘密の愛人関係、警戒は必要ないから眼鏡を外す。畳んで机の上に置く余裕だってある」
「慧天が言ってた、鈍い棒の正体は?」
慧天はVサインをしてみせる。別にじゃんけんがしたい訳じゃないだろうから首を傾げてしまうと、指だよ、と苦笑いされた。
「指?」
「河原崎先生は担当音楽でしょ? ピアノなんかを弾く為に爪は短くしてるから、すぐ血痕は取れる。夏だし服の袖は短い、それにあの日彼女は暗い色のワンピースを着ていた。汚れるのは手だけだ。近くの水飲み場で洗えばいい」
そう言えば確かにそんなワンピースを着ていた。すっかり忘れていたけれど、もしかしたら血痕が付いていたのかもしれない。考えるとちょっとぞっとした。人を殺した後でお説教まで出来るのなら、その精神状態が、何より怖い。ハイでもローでもなくニュートラル。人を殺すって、どういう事なんだろう。今更の疑問だ。殺す。人を。あたしも殺したことがある、ってカテゴライズされるのかな。言葉で涙で追い詰めて、人を一人。卵のように、くしゃりと割った。
どうもこの数日思い出し過ぎていけないな、と頭を振る。忘れたい。でも慧天は人の声が聞けないし喋れないしあたしは通訳だ。忘れられない。二年前から事件はまだ、継続しているのかもしれない。
「長谷先生が殺された理由は?」
「それはまだ、解らない。それにあの警部さん言ってたでしょ? まるで密室殺人だ、って。それって自殺も考えられるよね。元々密室って言うのは中の人間以外に犯人も犠牲者もいないように作られるものなんだから」
「被害者の、共犯者?」
「そう」
それはまた、耳慣れない響きだった。
「でも鍵は屋上側からは掛けられないよね」
「そうなんだよねぇ」
残りの紅茶を一気飲みしてから。慧天は目を閉じて思索に耽った。
『ヒーロー』の出番は、まだ暫くない。
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