医者を瓶の中に詰め車から降りる。むせかえるような生臭い磯の匂い、そして錆を運ぶ生ぬるい風が吹き灯台は日差しを隠している。カナカはその陰の中からすっと現れ、何かを堪えるようにして俯いていた。

 車の扉を閉じ近づいていくと、カナカはぴんと背筋を伸ばした。先ほど会ったばかりだというのに雰囲気が全く違うように見える。

「カナカ!」

 医者の言葉にカナカは何も反応はしなかった。輝秋は手で制してから、

「よお。どうした」

「……あの」

 カナカはミハルが抱えた瓶を一瞥して、

「私、考えてました。母親がいなかったら、どうなるかって」

「そうか。で?」

「……私、何も出来ない子供だと分かりました。結局、子供なんて親に縋っていないと生きていけない。ご飯は食べれても、まずお金が無いし、何も出来ない」

 輝秋は肩で息をするように、大げさにすくめた。

「そうだな、ここでも本土でも子供ってのは無力さ。子供は親の金を食って生きて行くしかない」

 隣でミハルがぎろりと睨んできたような気がするが、あえて輝秋は無視した。

「だから、その……頼んだけれど、やっぱりお医者さんを返してもらおうと思って……」

「一つ聞くが、拒絶症が治ったって、また母親に悪い様にされるかもしれないぞ?」

「そうかもしれませんけど……仕方のない事だと思います」

 カナカは心の底から諦めている様子だった。輝秋からすれば冷酷かもしれないが、彼女が暴力を受けようが受けまいが、どうでもいいことだ。運命だと思って受け入れるしかグラズヘイムでは生きられない、そんな寂しい街なのだ。

 この医者を返して、母親を治した方がいいと言うべきか迷っているとミハルが袖を引っ張る。

「返すべきだと思う」

「……例えば」

「え?」

「いや……」

 輝秋はがりがりと頭を掻いてから、カナカに向き合った。

「依頼はキャンセルだな、じゃあ金は要らない。返す」

「でも」

「いいんだよ」

 輝秋は札束の入った封筒を渡した。カナカははっきりしない手つきだがしっかりと受け取ってくれた。

「ご迷惑かけました」

 カナカが目の前で一礼し、ミハルが抱えた瓶の前でもまた深々と身体を折る。

 瓶から医者が出てきて、カナカを見上げている。

「カナカ」

「先生……ごめんなさい。私……」

「いいんだ……私も何も出来なかった。できなかったんだ……」

 ミハルはカナカに瓶を渡すと、医者が輝秋の方へと伸びてきて、腕を組んだ。

「さっきの話だが」

「何の話だ?」

「拒絶症、治してほしい奴がいるんじゃなかったのか? カナカの母親を治療したらお前を診てやってもいいぞ」

 輝秋はしばらく考えた。

 もし拒絶症が治ったら、この街に愛されるようになって、受け入れてくれるかもしれない。

 ――輝秋は首を振った。

「いや、いい」



 しばらくするとカナカを迎えに軽トラックがやってきた。軽トラックは農家が乗る高級自動車の一つであり、ありったけの爆音を立てながらカナカの前に立つとカナカは助手席のドアを開けようというところだった。

 二人きりになって、輝秋は小声で言う。

「正しかったと思うか?」

 ミハルからの視線を感じる。しかし、ミハルを見つめてもどんな顔をしていいのか分からなかった。運び屋としての依頼は達成できなかった、しかし、心は何故か晴れやかなのだ。

「例えばって言ったけど、あれは何?」

「変な事を聞こうとしただけだ」

「言って」

「……例えば、お前もあの立場だったら水を捨てるのか聞こうと思った」

「……」

 ミハルは眉をひそめ、腕を組み始めるので笑って手を軽く振る。

「変な質問だな、忘れてくれ。さっさと乗るぞ」

「その人が誰かによる。お母さんとかそういうのなら多分捨てる。私にはお母さんとかわからないし……でも……テルだったら捨てないかも」

 えらく真面目な声音だった。何を本気に考えているんだか、ミハルの瞳はどこか揺らいでいる。

「いや、俺は」

「テルだって拒絶症持ってるのは知ってる、治るんだったら、治してほしい」

「……」

「そう、思うよ」

 嘘偽りのない言葉に、少し動揺したがそれでも治ることはいいことだと思う。

「どうして断ったの?」

「俺の場合、絶対に治らないからだ」

「いつか治そうよ」

「そうだな」

 そんな日が来るといいが、そう思いつつ輝秋は素っ気なく言って『傘』を見上げた。空を覆う『傘』はもう午後の光を差し向け、グラズヘイムを照らしている。

 また、金が消えた。この前も、その前もこうやって依頼を破棄して破棄されて生活費を稼げないでいる。

 困ったもんだと思っていると、ミハルがちらちらとこちらを見上げている。

「あ、あのさ……」

「何だ?」

「あ、あのう……た、端末なんだけど」

 ミハルが言葉を選んでいるのかやけに慎重な言い方をしている。先ほどあの力を使ったせいで端末は黒焦げになったのだ、新しい物が欲しいという催促なのだろうがやけにわざとらしいような。

「なんだ、はっきり言えよ。端末だろ、すぐに用意するから待ってろ」

「あ! そうじゃなくてテルの端末を今すぐ貸してほしいなって」

「?」

 妙な事を言うな――と思いつつ端末を渡すとひったくってから両手で器用にいじりはじめる。

「見ないでね」

「へいへい」

 ――そう言われると見たくなるのでそっと覗き込んでみると、思わず目を丸くした。



 やっとつながった!

 今海にいるよ! 初めて見たかも!

 記念に地鶏でもしてみようかな…



「ほう、お前もこんなものを始めたのか」

 呟いて近況を伝えあうというコミュニケーションアプリのようだ。グラズヘイムでも流行っているらしい、ネットサービスに疎い輝秋は端末をつまみあげるとミハルが飛び上がる。

「あ! ちょっと返して! 見るなって言ったじゃん! 返して! 返せー!」

「まあエロサイトよりかは健全か。だが俺の携帯使ってまで見たかったのか?」

適当に触ってみるとどうやらミハルが呟いているサイト? ホーム画面? にたどり着いたらしい。指でタップし上から下まで眺めているといつ撮ったのか春巻きを食べた写真が投稿されている。焦点も合っていない自分の顔と隅っこに映る自分だ。

 画像がブレブレなので構わないが、自分が映るくらい一言無かったのか。

 まあ、それはいいとしてもっと気になる事がある。

「こら! 返せ! 返して!」

「一ついいことを教えてやる」

「エッチ! ヘンタイ! 覗き魔!」

「これ変換間違えているぞ」

「……えっ」

「自撮りが地鶏になってるぞ」

「……え?」

「しかも写真ブレてるし……下手くそかよ」

ミハルはみるみる顔を赤くして、大きな声を上げた

「わ、笑うなー!」

 

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