第3話 Uninstall

 ―Uninstall―


  体中に衝撃が走った。

 けれどそれは覚悟していたものよりずっと小さいものだった。

 気づけば僕は道路に前のめりになって倒れ込んでいるようだった。

 恐々目を開け、辺りを窺うと上空を鴉が飛び去って行く影が見えた。黒い羽根が一片、虚空を彷徨う。

 少し体を動かしてみたが手の皮が擦り剥けただけで大きな負傷はなさそうだった。

 振り返ると、今日二度にわたって僕の命を救ってくれた紺野が膝に両手を当てて肩で息をしている。紺野がいち早く危機を察して僕を突き飛ばしてくれたのだ。

 しかし僕はその時全く別のことを考えていた。

 それはつい先程の町屋の言葉だった。


『琴音ちゃんは今も家にいるのか?』


 なぜ、どうして今こんな言葉が浮かぶ? 

 琴音の所在なんて今の状況に何の関係もないではないか。

 だが、なら何故町屋はあんな質問を……


(あ――)


 その時僕はやっと町屋の意図を理解した。

 所持者に厄難をもたらすという不幸のアプリ。

 だが、はたしてその効力範囲は本人だけなのか。

 親しき者への不幸、それが起こらないという保証があるのか。

 否、そんなことは断じてない。

 まさか琴音に危害が加わるはずなんて――ない?


(馬鹿かよ……僕は!)

(これがそんなに甘いアプリだとでもいうのか!)


『琴音ちゃんは今も家にいるのか』――それがつまり、琴音ちゃんを一人にしていいのかと言う意味を孕んでいたのだとしたら。

 そう、町屋の言う通り。

 琴音に災厄の矛先が向かったって何らおかしくはないじゃないか。


「琴音が危ない……」


 言うが早いか僕は駆け出していた。

 走れ。走れ。走れ――

  遥か後方で何かを叫ぶ声が聞こえたが、僕は聞こえないふりをした。



 あっという間に家に着いた。

 こんなに速く走ったことは僕の人生で一度としてない。僕はぜえぜえと横隔膜を上下させながら必死に呼吸を整える。

 夕日はだいぶ落ち、辺りはすっかり薄暗くなっている。

 黄昏時。夕方と夜の境目。

 見慣れたはずの我が家がその時間特有の不気味な雰囲気の所為で禍々しく感じられる。

 玄関の手すりをそっと握った。

 夏なのになぜか冷たい。これも錯覚だろうか。

 扉を引くと、大した抵抗もなくゆっくりと開く。


(……おかしい)


 琴音は家に帰ったらまず玄関の鍵をかける習慣がある。

 しかも今朝のニュースを一緒に見て、戸締りはしっかりしろよと言ったばかりなのだ。

 ――なんでも栃木県に連続殺人鬼が出没する恐れがあるとかで――

 そこまで思い至って、何故か鼓動が早くなる。

 とくん――。

 とくん――。

 常軌を逸した心拍が一旦落ち着いた呼吸をまた乱そうとする。

 ……何を考えている、僕。

 こんなものはただの偶然に決まっているじゃないか。

 今日はたまたま琴音が鍵を掛けるのを忘れただけなのだ。

 些細なことで不安になるのは僕の悪い癖だ。

 ぺたっぺたっ。

 間抜けな音を立てながら廊下をへっぴり腰で歩く。

 もう一人の僕が囁きかける。先に進むな。今すぐ引き返せ。今ならまだ間に合う。

 琴音。大事な僕の妹。

 大丈夫だ。無事に決まっている。今も居間に転がって、漫画でも読んでいるに違いない。勇気を出せ。あとちょっとだ。廊下を渡り、居間の扉を開く。

 ――僕は部屋を覗き込んだ。

 やはり琴音は居間で転がっていた。


 四肢が、

 胴体を離れ、

 眼球が、

 零れ落ちて、

 それ以外は、

 普段のままで、

 可愛い、

 妹のまま、

 な――


「う――――わああっああぁぁあぁぁあぁぁッ!!!」


 な――わけあるか

  絶叫。

 これは、

 これが、

 僕の声か?

 窓が割れても、

 喉が張り裂けても、

 そんなことはどうでもいい。

 そんな、全てを度外視した雄叫び。


「どうして――どうして――どうして――ッ!!」


 琴音は体中を切り刻まれ、四肢と両目を欠損した状態で無造作に居間に転がされていた。

 今もなお流れ出ている血液がとても痛ましい。

 カーペットは真っ赫に染まり、皺になったところで血溜まりを作っていた。

 限りなく黒に近い赫色が視界の隅でゆらゆらと揺れる。

 生臭い異臭が立ち込め、部屋中がべたついているように感じた。

 これも不幸のアプリの効力の一環だとでもいうのか。

 僕を不幸な目に遭わせたいのなら好きなだけやればいい。

 それだけならばどんな不幸でも甘んじて受け入れられる。

 なのに――どうして琴音を巻き込むんだ。

 両親は死んだ。僕と琴音だけが生き残った。

 その上、世界は僕から琴音まで奪うのか。


「うぇっ……おえっ」


 嗚咽を漏らしながら辺りを見回す。

 椅子は床に倒れ、透明なガラス戸にも血しぶきが飛んでいる。

 ガラス戸には鍵がかかっていた。


 「あ……か、ぎ?」


 僕が何かの違和感を感じとった瞬間、背後から微かに音がした。

 ありえないことが起きている――

 この家には琴音と僕しかいないし、琴音はもう生きていない。

 なら、僕の後ろから音がするわけないんだ。

 けれど……、

 琴音からはまだどくどくと血が溢れ出ている。これは琴音がついさっきまで生きていたことを意味する。

 ならば……、

 もしも犯人が家を出たなら玄関先で僕と鉢合わせるはずではないだろうか?

 しかし僕は誰も見なかった。

 では玄関以外から出たのか?

 いや、外へ出るためのガラス戸には未だ鍵がかかっている。犯人が二階から飛び降りて脱出するなんてことはありえないだろう。

 つまり……、

 ぺた……ぺた……。

 背後から、今度ははっきりと足音が聞こえた。

 そいつはゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。

 背筋が――凍りつく。


(あの蜘蛛と一緒だ)

(穴倉で動けない僕を襲おうとした、あの蜘蛛と)


 そいつ――殺人鬼はゆらりゆらりと僕に近づいてくる。

 僕は無我夢中で携帯をポケットから引っ張り出し、あの呪われたアプリを開いていた。

 携帯を持つ右手が震える。


『これは不幸のアプリです』


「き、きえろ」


 僕はかじかんだ様に感覚のない指でアプリを消そうとした。

 途端に、けたましいエラー音が室内に響く。


『このアプリはアンインストールできません』


「うるさい、消えろよぉ!」


『このアプリはアンインストールできません』


 背後の気配は僕のすぐ後ろまで迫っていた。

 値踏みするように狂気にゆがんだ瞳でねっとりと僕を観察している。

 背中越しでも分かる。

 その視線がひしひしと伝わる。

 気配が――痛い――

  指がもつれる。身体が満足に動かせない。


「消えろ、消えろ、消えろ! やめてくれ、助けてくれ、消えてくれよぉぉお!」


 狂ったように画面を連打した。

 しかし、またあの無情な言葉が吐き出されるだけだった。


『このアプリは――アンインストールできません』


 僕は、

 死ぬ。

 その瞬間、僕は走馬燈を見た。


『このアプリはアンインストールできません』『このアプリはアンインストールできません』『このアプリはアンインストールできません』『このアプリはアンインストールできません』『このアプリはアンインストールできません』『このアプリはアンインストールできません』


「ああそういうことか」


『――――アプリをアンインストールしました』

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