第2話 Download

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  不幸のアプリなんて実在しない。

 学校では何事もなく無事過ごせるはずだと、僕はそう思っていた。

 授業開始までの時間は町屋と紺野と雑談を交わしながら過ごした。普段通りの行 動をトレースすることで心はだいぶ落ち着いた。

 けれども頭のどこかではどうしても不幸のアプリのことを考えてしまうのだった。

 不幸のアプリの効力は本物だろうか? 

 だとすれば誰がそんなものを送ってきたのだろうか? 

 そして、何のために?

 考えれば考えるほどわからない。

 出口のない暗闇の袋小路を彷徨っている気分だった。

 けれど学校にいる間は安全だ。そう思っていた。


 *


 三時限目は調理実習だった。

 僕は町屋、紺野とペアを組んでいる。僕たちが作るのはハンバーグだ。

 早速エプロンに着替え、担当教師から火の扱いを充分注意するよう指導されてから僕たちは調理を開始した。


「……ふう、こんなもんか」


 一通りの作業を終え、僕は小休止に入る。

 隣では町屋がオイスターソースを鼻歌交じりに作っている。この青年は普段悪ぶっているくせにこういうことをやらすと右に出る者がいない。

 しかし調理中もずっと飴を舐めていた紺野の姿が見えなかった。

 僕は町屋に訊いた。


「紺野はどこに行ったんだ?」

「我らが麗しのご令嬢はお花を摘みにおでかけでございますとも、霧ヶ谷クン」


 町屋が気取った様な台詞を吐いた。

 これが結構様になっているので、この友人は将来ホステスにでもなればいいと思う。

 さて、と。

 一息入れる意味も込めて他の班の料理も見てみよう。

 そう思い、町屋に断って僕は席を立った。

 様々な料理が並ぶ中、ある一角が僕の目を引いた。おでんを作っている班だ。

 僕はその班の前で歩調を緩めた。熱々の湯気と昆布だしの香りが食欲をそそる。

 そういえば死んだ父さんと母さんも、そして琴音も僕もおでんが好きだった。

 しかし僕らの家族が一緒におでんを食べることはもう二度とないのだろう。

 死んだ人間は二度と生き返らないのだから。

 過去に思いを馳せ、少しぼうっとしていたせいだろうか。

 まるで耄碌したように僕の頭の働きは鈍くなっていた。だから気付くのが遅れた。

 床に置かれた、調味料を入れるためのバスケット。

 ぼんやりとしていた僕はうっかりそれに足を引っかけしまう。

 あっ――と声を上げる間もなく足元がおぼつかなくなって――

 ……、……、……。

 バランスを崩して鍋を持っていたクラスメイトにぶつかった。

 途端に、なみなみとお湯が入った鍋がひっくり返る。

 当然鍋の中で煮えたぎっているのははぬるま湯なんて生易しいものではない。

 あれ、僕、やばいんじゃ。


「綾仁!」


 悲鳴に近い声と共に誰かに右腕を思いきり引っ張られる。

 そのせいで僕は後ろに尻餅をついた。

 一瞬遅れて鍋が床にひっくり返り甲高い不協和音を奏でた。湯気を立ちこませた熱湯がさっきまで僕がいた位置に降り注ぐ。大きな音を立てて湯しぶきが上がった。

 教室のどこかで誰かが悲鳴を上げた。


 *


(何かに憑りつかれているのだろうか)

(不吉な、それでいて得体のしれない不気味なものに)


 ―—穴倉に潜む毛深い蜘蛛。

 それは青紫色の太った毒蜘蛛である。無数の複眼で暗闇の中で生餌を探して蠢いている。

 蜘蛛は僕を見つけようと八本の脚で動き回る。少しずつ僕と蜘蛛の距離は縮まる……。

 逃げなくては。逃げなくては。身体が動かない。


(どうして!? 糸だ!)


 僕は糸でがんじがらめに縛られている。

 ここはやつの巣穴だ。そして僕は巣にかかった獲物なのだ。

 ゆっくりと近づいてくる巨体。

 グロテスクな肉体から生えた生々しい光沢を帯びた脚。その脚で床を引っ掻きながら這うように近づいてくる……。

 次の瞬間、ぎょろりと光彩のない無数の目が僕を捉えた。

 ズズズッ……ズズズ……

 動きはあくまで遅い。けれど早く動けないわけではない。

 ゆっくり近づいてくるのはそれが一層恐怖心を煽る行為だと知っているからだ。

 来るな来るな。こっちに来るな。来るな嫌だ気持ち悪いあっちいけ。

 蜘蛛は嗤った。

 やめてくれ助けてくれ。

 蜘蛛は生温かい息を吐く。

 お願いします来ないでください。

 蜘蛛は黒光りする顎を開く。

 顎の中で無数の触手が蠢いていた。

 気持ち悪い。吐きそうだ。

 蜘蛛は僕に馬乗りになった。

 死ぬ。喰われる。殺される……………


「綾仁。大丈夫?」


 ふっ、と我に返った。

 体中が気持ち悪い汗でべっとり濡れている。

 顔を上げると心配そうな表情でこちらを覗き込む飴を舐めた彼女と目が合った。

 紺野の隣には険しそうに腕を組む町屋の姿もある。

 そうか。今は帰りのホームルームが終わったところなのだ。

 僕は安堵の吐息を漏らした。

 あれから調理実習は僕のせいで中止になった。みんなが楽しみにしていたのに僕だけのせいでそれを台無しにしてしまった。罪悪感が身を焦がしている。

 あの時僕を助けてくれたのは紺野だった。トイレから戻った彼女は僕がぼうっと歩いているのを見つけて注意しようとしてくれたらしい。

 けれどもその前に僕がバスケットに躓いた。

 紺野は咄嗟に腕を引っ張って、ひっくり返る鍋の熱湯から僕の身を引き?がしてくれたのだった。

 僕は紺野のおかげで大火傷を負わずに済んだ。

 跳ねた湯水が軽く服にかかった程度ですんだのはまさに危機一髪というべきで、当然調理実習はそこで中止になってしまったが――

 ともかく紺野は僕の命の恩人ということになろう。

 どれだけ感謝しても感謝しきれない。

 けれど同時に僕はこの度ある事実を受け入れなければならなくなった。

 不幸のアプリの効力は本物なのだ。


 *


 放課後の帰り道で僕は二人に重大な話があると告げた。

 紺野は可愛らしく小首をかしげ、町屋は身構えるような仕草をした。

 僕は言った。

 朝起きてから不幸のアプリなるものが携帯にインストールされた経緯。

 琴音が家を出た後に僕も家を出てちょうど事故に遭いかけたのはこのアプリのせいではないかという推測。 

 そこまで説明したところで、紺野が「琴音ちゃんって……」と言いかけたが町屋がそれを制した。

 まずは話を最後まで聞いてから質問しようということだろう。

 紺野はまだ何か言いたそうにしていたが、目で僕に話の先を促した。

 僕は学校に着いてからも言いようもない不安を抱えていたこと、そして調理実習中の事故もこの不幸のアプリに起因するものではないかという仮説を二人に伝えた。


「これがそのアプリだ」


 そう言って僕は半信半疑な様子の二人に問題のアプリを開いた画面を突き付けた。

 紺野は困惑した様子でそれを見つめ、町屋は眉間に皺を刻んでそれを睨みつけている。

 二人が画面を見たのを確認し、僕は返す手で携帯をポケットにしまった。

 路地を曲がると道の奥では建設工事をやっているのか、骨組みだけの一軒家が道路脇に立っているのが望めた。

 鉄パイプでできた足場には鴉が一羽留まっていた。真っ黒な鴉だった。


「なるほどな……琴音ちゃんは今も家にいるのか?」


 今まで黙って話を聞いていた町屋が視線をこちらに合わせずにそう言った。


「琴音なら部活にも入ってないし、もう帰ってるはずだけど」


 町屋がどうしてこんなことを聞いたのか分からなかったが、この青年の質問に意味が無かったためしがないので僕はそう答えた。

 空は夕焼けで橙に染まっている。家々の間から差し込む光が僕らの影を長くする。

 得も言われぬ不気味な静寂が世界を覆う。誰もが何と言っていいのか分からない様子だった。

 その時――。

 ぎぃ、ぎぃ。

 路地を少し進んだところでそれは唐突に鳴りだした。

 何かが軋むような、それは生理的嫌悪を催す音だった。


(何の音だろう?)

(それに、一体どこから)


 左右道路脇を注意深く目でなぞっても特に変わったものはない。

 ぐるっと三百六十度視野を回転させたがどこにも不審なものを認められない。

 ぎぎっ、ぎぎぃ。

 町屋と紺野も奇怪な音を奏でているものの正体を探そうしているのか、辺りに首を巡らせている。

 僕はふらふらと路地を右往左往した。その音が何か良くないことの前兆のように感じられたのだ。

 ぎぎっ。……きし。

 その時、異音の音色が大きく変わった様な気がした。

 それは――頭上からだった。

 僕は首を擡げてゆっくり上を向いた。

 ぎぎぃ。ぎぎぎぎぎぎぎっ。

 ……、……、……。

 頭上に見えるのは鉄パイプで組まれた工事中の足場。

 今日は工事がないらしい。作業している人間が見当たらない。

 その鉄パイプの足場が、細かく振動している。

 ぎぃ――ぎぃ――ぎ――ぃ

 一瞬後、僕が音の正体に気が付いたのと、それが崩れるのは同時だった。

 それは鉄パイプがクランプから外れかかって軋んでいた音だったのだ。

 その枷が今、完全にはずれた。

 刹那、鉄パイプの束は完全に均衡を失った。

 重力にしたがって大きく傾いでいく。

 瞬く間に臨界点に達すると、鉄パイプは崩落した束となって僕を目がけて降り注ぎ、道路に轟音が響いた。

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