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あずの

第1話 Install

―Install―


 夢を見た。いい夢ではなかった。

 そこでは誰かが泣いていた。大事な物をなくして、酷く悲しんでいた。

 

「夢、か」


 七月一日の朝。

 僕、霧ヶ谷綾仁きりがたにあやひとは布団の中で目を覚ました。

カーテンが湿った風にそよぐ。心地よいというにはあまりに暴力的なうだるような暑さ。たった今、体がびっしょりと濡れているのはこの猛暑のせいか


、それとも気味の悪い夢のせいか――。


「ま、いいか」


 深く考えずいつもの習慣で携帯に手を伸ばす。

 新着メールが一件。差出人は不明だった。

 訝しみながらもメールを開封した。途端に画面いっぱいにウィンドウが展開される。

 

『アプリケーションをダウンロードしています』


「なんだ――これ」


 スパムメールかなにかだろうか? 

 こういう時は下手にいじらない方がいいだろう。

 しばらく画面を放置すると、やがてアプリは正常にインストールされたようである。

 アイコンは黒一色。こんなアプリは見たことも聞いたこともない。

 物は試しと起動してみることにする。

 ……、……。

 

「ん?」


 僕は間抜けな声を上げていた。

 そこには――一画面一面に真っ黒なウィンドウ。

 そしてその中央に血のように赫い、横書きの文字。

 

『これは不幸のアプリです』


「…………」


 なんて――馬鹿馬鹿しい。

 不幸のメールの類か。

 僕はアプリを消そうとした。アイコンを長押しして、×マークが表示されるのを待つ。

 けれどそれは叶わなかった。

 代わりに不気味な警告音が鳴り、画面に新たな文字が表示される。

 

『このアプリはアンインストールできません』


「……意味が分からない」


 勝手にインストールしておいて消せないも何もないだろう。

 腹を立ててもう一度削除を試みたが、結果は変わらなかった。

 繰り返し表示される赫い文字列に、耳に残る甲高い不協和音。

 ちょっと考え、僕はそのアプリを放っておくことにした。

 気持ちを切り替え、朝食にしようと階段を下りる。

 欠伸交じりに伸びをして、リビングのドアを開けた。

 

「あ、おにいちゃんおはよ」

「おー、ことね」


 ダイニングではちょうど妹が朝食を作り終えたところだった。

 霧ヶ谷琴音ことね

 僕の唯一の家族である。

 髪を焦げ茶色に染め、ゆるくウェーブさせている。

 いつもほっぺが赤く童顔なので、実年齢よりずっと若く見られる琴音である。

 僕は愛らしい妹を一瞥いちべつして席に着いた。

 少しして、とてとてと、琴音が朝食を運んでくる。今日はコンチネンタルらしい。

 妹の作ってくれたトーストをかじりながらテレビのスイッチを点ける。

 少し迷って、チャンネルをニュース番組に合わせた。画面には神妙な顔を浮かべた女性と男性が映し出される。

 

『……となると、この事件も一連の連続殺人事件の犯人と同一人物である可能性が高い……と。もしこれが本当に同一犯によるものであるならば彼は六人


もの人間を殺害していることになりますね』

『ええ。被害者に一貫した共通点が見受けられないことから快楽目的で殺人を行っていることが推測として挙げられます。また、犯行地域が徐々に南下し


ている点にも注目すべきでしょう。栃木県、群馬県に在住の方は特に警戒を怠らないよう……』

 

 ニュースでは近頃の巷の話題をかっさらっている例のシリアルキラーの特集をやっていた。

 なんでも稀にみる異常犯で死体をバラバラに切断することに悦楽を見出しているとか。

 それにしても栃木か群馬ときたもんだ。

 

「おい琴音、次は栃木かもってよ。戸締りとか気をつけろよ」

「分かってるって。まったく心配性だなあ」


 妹はからからと笑いながら僕の背中を叩く。突然だったので僕は目を白黒させた。

 文句を言おうとした瞬間に妹は「あはははは」と僕の横を駆けていって自分の食器を洗い始めた。

 逃げられたか。まあいい。

 かちゃかちゃと食器の奏でる音が心地いい。

 幸せだ――と、そう思う。

 

 * 

 

 ところで霧ヶ谷家では琴音が料理を担当し、僕が掃除と洗濯を担当すると決まっている。

 霧ヶ谷家に両親はいない。

 

 僕たちの両親は半年前に死んだ。交通事故だった。

 その日。

 家族でキャンプ場に向かっていた我が家の車は、交差点から信号無視で突っ込んできた大型トラックに車体ごと跳ね飛ばされ、派手に横転した。

 その瞬間父さんと母さんは帰らぬ人となり果てた。

 即死だった。

 後部座席に座っていた僕と琴音は奇跡的に命に別状はなく、傷を負いはしたものの先月で退院した。

 今でも克明に思い出せる。

 後部座席で一人、事の成り行きに頭が追い付かず呆然とする僕。

 僕の目に映っている悲劇。僕の目に映っている惨劇。

 血飛沫、異臭、肉塊、嘔吐、虚脱、苦悶、呻き、断末魔。

 赫く染まったフロントガラス。

 そのガラスを伝い落ちる粘度の高い液体。

 ひしゃげた腕。後部座席にだらんとぶら下がっている。

 ねじ切れた首。虚ろな瞳で僕を見つめている。

 こめかみから伝い落ちる真っ黒とも真っ赫とも形容できない曖昧な汁がすえた臭いを鼻腔へと運んで吐き気を催させる。

 口を抑え、目を背けた先。頬。裂けた頬が口内の毒々しい色をした歯肉を僕に覗かせる。

 また眼を逸らす。砕けた頭蓋。さながら潰れた柿のように、頭皮の隙間から脳汁が溢れだし、座席を染める。

 ……どうして。

 きっと地獄絵図でもこうはならない。阿鼻叫喚もかくやと言わんばかりの凄惨さがそこにはあった。

 胃が蠕動運動をして体が痙攣した。

 足元に胃液をすべてぶちまける。

 視界が暗転する。

 

 *

 

 「うっぷ……」

 

 胸のむかつきを覚え、僕は口元に手をやった。

 琴音は不思議そうに僕を見る。

 馬鹿だ、僕は。食事中に思い出すことではなかった。いや、いつだって思い出したくない。

 せっかくの朝食が不味くならない様にぶんぶんと頭を振って嫌な記憶を脳内から追い出した。

 琴音は「百面相の真似?」と言ってくすくす笑っている。

 その笑い顔を見ると自然と僕も口元が綻んだ。

 琴音の存在が今の僕の支えになっている。もし、琴音がいなかったら僕はとっくに命を絶っていただろう。

 

「おにいちゃん。早く食べ終わらないと遅刻しちゃうよ」

「おう、もう食い終わるよ」


 にっと微笑んで僕は朝食をかき込んだ。

 

 *

 

 僕は高校二年生、琴音は中学三年生である。

 あんな事故があって、学校側も目下のところは無理して通学しなくてもいいと言ってくれているが、僕たちは普通の学生らしくそれぞれ学校に通うこと


にしている。

 用意を終え、玄関の鍵を閉める頃には時刻はもう八時になっていた。

 琴音はとっくに学校に向かって出発していった。

 玄関を出て夏の空気を胸いっぱいに吸い込む。

 今日も暑くなりそうだ。

 一人でとぼとぼ十分ほど歩いていく。待ち合わせ場所はもうすぐだった。

 道路を挟んで向かい側を見やると、案の定二人の男女が手を振っている。

 僕も友人達に向かって手を振り返した。

 僕の友達。

 向かって右側のポケットに手を突っ込んでいる男の方は町屋殉まちやじゅんといった。

 髪をオールバックにした姿がやや粗雑だが、なかなかの二枚目で本人は否定しているが頭の回転が速い。

 一方左側の眠気顔にスティックキャンディを咥えた女の方は紺野群青こんのぐんじょうという。

 おとなしい性格だが目じりの上がった鋭い視線のせいで見る者に冷たい印象を与えてしまっている。よく飴を舐めているがそんなに好きなのだろうか。

 僕は待たせてしまった友人の元へ駆けよっていく。

 小走りに交差点に入り、道路を横断しようとしたその時だった。

 空気が凪いだ。

 生ぬるい風が頬を撫でる。夏独特の湿り気を帯びた不快な風。

 黒猫が塀の上から僕を見つめている。

 右足を踏み出そうとした僕――の瞳に映る町屋と紺野の驚愕に目を見開いた形相。

 何を驚――いて。

 ……、……。

 予感。

 ばっ、と後ろに飛びのいた。

 瞬間、白い塊が僕の鼻先すれすれをものすごい勢いで通過する。

 すさまじい轟音。

 巻き起こった突風が僕の顔面に直撃して思わず辟易する。

 髪を強引に撫で上げられ、たじろぐ。

 猫の鳴き声が交差点で反響したのと白い残像が網膜から消え去ったのは同時だった。

 今、一体――何が?

 ばくばくと心臓が高鳴っている。

 今、僕は轢かれそうになった?

 

「おい! おい! 大丈夫か? 霧ヶ谷!」


 殆ど放心状態同然の僕のもとに町屋が突風の如く駆け寄ってきた。

 飴を咥えた紺野もその後に続いて来る。

 

「あ、ああ。なんとかね……」


 いまだ激しく脈動する鼓動を沈めながら僕はどうにかそう答えた。

 

「なんなのあいつ、謝りもせずに逃げて」


 紺野が吐き捨てた方を見ると、白いライトバンがはるか彼方を走り去ってゆく姿が認められた。僕は何故か苦笑する。

 ああ、それにしても危なかった。後一瞬避けるのが遅れていたら跳ね飛ばされていたかもしれない。

 まったくなんて運の悪い――。

 

 ――これは不幸のアプリです


 不意にあの不吉な一節が脳裏に浮かび上がる。

 頭の中でもう一人の僕がそっと囁く。思い出せ、今朝何があった?

 そうだ、朝起きて携帯の画面を開いた。


 ――これは不幸のアプリです


 嫌な汗がこめかみを、頬を、首を伝いワイシャツをじっとりと濡らす。

 それは暑さのせいだろうか。いや、それとももっと別の……。

 そんなわけはない。そんなことがあっていい筈がない。

 僕は努めて平静を装い立ち上がった。

 

「はは、悪い。しっかり前見てなかったよ。早く行こう。遅刻しちゃうぜ」


 そう言って二人を通学路へ促す。

 紺野は無言でこくり、と頷いたが町屋は何故か訝し気な表情をして、

 

「なあ、お前、今……」


 ぼそり、と何か呟いた気がしたがそれは明瞭に聞き取れなかった。

 が、町屋は何でもないという風に首を振った。

 

「早く行こうぜって言ったんだよ。急ぐぞ」


 そう言って町屋は僕と紺野の背中を押した。登校中に町屋の瞳がずっと胡乱の色を帯びていたのが気になった。

 

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