清浄と罪の間の等号
羽鳥紘
清浄と罪の間の等号
その日少年が眠れぬ夜を潰す為外に出ると、光が視界を塗り替えた。あまりに刹那の出来事は、白昼夢でも見たのかと錯覚させる――いや時間は夜なのだから白昼夢もないだろう。普通の夢か、そう思うには頭はしっかり覚醒している。
ならば稲妻か。月も星も煌々としているのにそれもおかしな話だ。
既に夜は普段の静寂と安寧を取り戻し、ただそこに横たわっていた。それでもなかったことにするには光はあまりにも鮮烈で、眠れないのも手伝って少年は光が落ちた場所へと足を向けた。
果たしてそれは夢ではなかった。
そこには光が落ちていた。最初は本当に、光が落ちているとしか思えなかった。
屈んで顔を近づけ、目をこすると、人間の少女だと解った。白磁の肌とプラチナの髪が月明かりを受けて輝いていた。恐る恐る触れると、少女が苦悶の声を上げ、びくりとそれを引っ込める。少年の汚れた指の跡が白い肌を汚して、慌てて彼は服で両手をこすった。服も汚いから、あまり意味はなかったかもしれない。その手で再び触れるのはためらわれたが、季節は寒気を運んでいる。少女の服は薄く肌は向きだして、このままにしておけば凍えるだろう。このままにはしておけない。少なくとも常識では。
少年に常識など備わってはいない。だから、助けようと思ったのは理屈ではない。敢えて理由をつけるなら気紛れか戯れ。少年は痩せぎすで歳端もいかなかったが、それでも持ちあがるほど少女は軽かった。
少年は、寒さの凌げるほどちゃんとした家を持たない。定住もしていない。最近のねぐらは、大きな街の貧困街の通りにある空き家だ。屋根は穴だらけだし、窓硝子は嵌っていない。隙間風だらけで雨が降れば床は濡れる。それでも、通りで寝ころがるよりずっと快適だから、少年はもう長いことここに住んでいる。
少年は少し逡巡したが、一度少女を床に置くと、ベッドの上の埃を叩いた。スプリングが壊れているが床より寝心地は良いと思われた――少年はいつも床で寝ていたから、実際はどうか知らないが。
少年には同居人がいる。血の繋がりなどない。友達でもない。一緒にいるのは似たような境遇で同業者だからだ。今は『仕事』でいない。少年も『仕事』だったが事情があってふいになった。しかしそろそろ明るくなってくるから、彼も帰ってくるだろう。
「……そいつは『清浄世界』の人間だよ」
帰ってくるなり、同業者は顔を顰めた。
この世界には三つの世界がある。富裕層の住む世界と貧困に喘ぐ者が住む世界、そして清浄世界。前の二つはどこにでも転がっていて境はない。後ろひとつは、前二つがある世界とは全く異なるものだ。
「お伽噺かと思っていたよ」
「そういうヤツも多いんだけどな。たまに迷いこんでくんだよ。オレは前に見たことあんだ」
苦汁を吐き出すように、同居人は呟いた。
「関わらない方がいい」
その途端に、少女は目を開いた。美しい銀色の虹彩がこちらを向き、少年も、嫌な顔をしていた同居人までもが釘付けになった。
「ここは、どこ?」
ゆっくりと頭を持ち上げ、少女が完全に目を開く。そしてゆっくりとかぶりを振り、また寝そべろうとして自分がいる場所を見、それもやめると身体を縮めた。
「……『汚染世界』なのね。私、死ぬのね」
しくしくと泣き出す彼女に、少年の同居人が我に返って舌打ちする。
「追いだせよ。どうせこの世界では清浄世界の人間は生きられない」
だが少年は少女の涙に心を拭われていた。らしくもない感情が芽吹いて、ひとつのことを決意する。
「嫌だ。おれはこの子を助ける」
少女はいまにも消え入りそうに透明だった。髪も瞳も銀色で、肌も抜けるように白いから、余計に消えてしまいそうだと危惧してしまう。
「あの人はどうしたの? あなたの家族じゃなかったの?」
ひとしきり泣いて、次に少女が落とした言葉はそんなもので、少年は笑ってしまった。
「家族なんかじゃねーよ。うだうだ言うから追い出した。ここはおれが先に見つけたんだ、おれに逆らうなら出て行ってもらうしかないだろ?」
「……あなたは酷く傲慢なのね」
言って少女は咳こんだ。
「どうした、辛いのか?」
「傲慢は罪よ。清浄ならざるものは、清浄世界の人間を滅ぼすの」
近づけば近づくほどに、少女の息は荒くなる。息ができないのではないかというほど激しく少女が咳こんで、少年は身を引いた。
「……あいつを呼び戻せば、触ってもお前を苦しめないか?」
「寛容は美徳です。清浄世界に必要なもの」
少女の言葉の意味はよく解らなかったが、言葉の色で少年は肯定と受け取った。
「あとで捜しにいく。だから飯にしよう」
革袋から固いパンを取り出す。少年にはこれが極上の馳走だった。だが少女はそれを受け取らなかった。
「『清浄世界』のお譲様は、こんなものは食えないか?」
「……貧しさが罪なのではありません。貴方はこれをどうやって手に入れましたか?」
先月『仕事』先で失敬したものの残りだった。パンは保存が利くから、飢えたときのために奪って残しておいたとっておきだったのだが。
「強奪は罪です。清浄ならざるものは」
「――わかったよ」
その先の言葉を防いで、少年は立ちあがった。
少女の唇が、柔らかなパンを食む。
「お前、どうしたんだよ」
戻ってきた同居人が、驚愕を浮かべてこちらを見た。
「働いて買ったんだ。普通のことだろ」
自分たちが働ける先などない。せいぜい、富裕層の人間の靴を磨いて小銭をもらうくらいしかない。もしやそうしたのかと、同居人は目を剥いた。
「そんなにそいつを助けたいか? 何故だ?」
「人を助けるのに理由なんていらないだろ」
「……オマエ、大丈夫か?」
何を言っているのか解らないというように少年が見上げてくる。虚ろだった目がきらきらと光っている。汚れていた手も髪も綺麗になっている。この寒い季節に水を浴びたのかと、ぞっとする。
「どのみち、オマエにそいつは助けられないんだよ。清浄世界の人間は、清浄世界でしか生きていけない」
「挑発しても無駄だ。怒りは罪だからな」
穏やかに少年がほほ笑み、同居人はそれ以上の言葉を失くした。
少年は満ち足りていた。
物心ついたときには孤児で、奪い掠め取るしか生きる術はなかった。だからそのことに罪悪感など持てる余裕もなかった。だがあの日、あの少女がそれを教えてくれた。
富裕層を恨んでも豊かにはならない。意地を張っていたって、環境は変わらない。
今までの生活が全て無駄に思えた。
靴を磨かせて下さい、そう頭を下げさえすれば、富裕層は小銭を落としてくれるのだ。こんな気前の良い者たちを、どうして今まで憎んでいたのだろうか。
その小銭でパンを買い、そして少女に分け与える。自分の分などほとんど残らないが、それで少年は満足だった。
自分が人に何かをできる。これ以上の幸せなどあるだろうか。
行き場を失くし、死を待つだけだった少女は、自分のお蔭で助かり、そして自分に感謝する。その筈だった。
だが幾ら食べ物を与えても、幾ら正しいと思う行動をしても、少女は一向に元気を取り戻さなかった。
少女は日増しに衰弱し、そしてある夜息絶えた。
「どうしてだ? 何がいけなかった? おれの何が罪だった?」
――救えると思ったのでしょう? それは傲慢です。
少女の言葉はもう声として成されず、嘆く少年には届かない。
清浄と罪の間の等号 羽鳥紘 @hadorikou
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます